新橋喜代三「櫛巻お藤の唄」
ナンソン(南宋、1127年~1279年)の官僚グイ・ワンロン(桂万栄)の裁判小説集『棠陰比事(タンイン・ビシ、とういん・ひじ)』に儒学者・林羅山(はやし・らざん、1583年~1657年3月7日)が訓点を施した『棠陰比事諺解』(1650年)に基づき、1649年に刊行された仮名書きの『棠陰比事物語』などによって広まった裁判物語を模倣して、徳川吉宗(よしむね、1684年11月27日~1751年7月12日)将軍が江戸南町奉行に登用した大岡忠相(ただすけ、1677年~1752年2月3日)の死後、理想化された忠相像に基づく、いわゆる「大岡裁き」の作り話の読み物が、出版統制の盲点をついて写本の形で流通し、庶民に広まった。
1927年10月15日~1928年5月30日、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』夕刊で、講談「大岡政談」に基づく、東京日日新聞学芸部の林不忘(はやし・ふぼう、長谷川海太郎、1900年1月17日~1935年6月29日)作、小田富弥(おだ・とみや、1895年7月5日~ 1990年1月13日)画、関の孫六(せきのまごろく)の作った乾雲丸と坤竜丸という大小一対の刀をめぐる波乱万丈の物語『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』が連載された。

第一話「夜泣きの刀」の第3回から、右目と右手がない独眼隻腕の身体障害者の道場破り丹下左膳(たんげ・さぜん)が登場する。
第二話「化物(ばけもの)屋敷」に、江戸の本所の法恩寺、前の37~38歳の殿様、鈴川源十郎の屋敷に住む、お尋ね者の美女・櫛巻(くしま)きお藤(ふじ)が登場する。
1928年5月5日、東京・浅草の観音劇場で、49歳のマキノ省三(しょうぞう、1878年9月22日~1929年7月25日)制作総指揮、林不忘原作、24歳の山上伊太郎(やまがみ・いたろう、1903年8月26日~1945年6月18日)脚色、28歳の二川文太郎(ふたがわ・ぶんたろう、1899年6月18日~1966年3月28日)監督の無声映画劇『新版大岡政談 前篇』(8巻)が公開された。
丹下左膳を25歳の嵐長三郎(1902年12月8日~1980年10月21日)が演じた。
1928年5月6日、大阪パーク劇場で、林不忘原作、竹井諒(1901年~1970年)脚色、24歳の広瀬五郎(1904年3月8日~1972年8月16日)監督の無声映画劇『新版大岡政談 前篇 鈴川源十郎の巻』が公開された。
丹下左膳を25歳の團徳麿(だん・とくまろ、1902年12月20日~1987年1月18日)が演じた。

1928年5月31日、神田日活館、浅草・富士館で、林不忘原作、29歳の伊藤大輔(1898年10月13日~1981年7月19日)脚色・監督の無声映画劇『新版大岡政談 第一篇』(10巻)が公開された。
丹下左膳、大岡越前守(えちぜんのかみ)を30歳の大河内傳次郎(おおこうち・でんじろう、1898年2月5日~1962年7月18日)が演じた。

櫛巻きお藤を19歳の伏見直江(ふしみ・なおえ、1908年11月10日~1982年5月16日)が演じた。
1928年7月5日、林不忘著『大岡政談』(平凡社、1円30銭)が刊行された。
挿画は小田富弥だ。

1930年5月15日、浅草・富士館、神田日活館、上野日活館、麻布日活館、で、30歳の林不忘原作、31歳の伊藤大輔脚色・監督の無声映画劇『續大岡政談 魔像篇第一』(11巻)が公開された。
撮影は1930年4月~5月におこなわれた。
大岡越前守、神尾喬之助(かみお・きょうのすけ)、茨右近(いばら・うこん)を32歳の大河内傳次郎が演じた。
1930年8月5日、一千頁1円の「現代大衆文學全集」(全40巻+続編20巻)、續第1巻『林不忘集』(平凡社)が刊行された。
『新版大岡政談』『つゞれ烏羽玉(うばたま)』を収めた。
挿絵は47歳の山口草平(やまぐち・そうへい、1882年10月18日~1961年7月8日)は、近藤正一郎だ。

1931年10月14日、浅草・富士館、新宿・帝都座、神田日活館、麻布日活館で、31歳の林不忘原作、32歳の伊藤大輔脚色・監督の無声映画劇『續大岡政談 魔像解決篇』(14巻)が公開された。
大岡越前守、神尾喬之助、茨右近を33歳の大河内傳次郎が演じた。
1932年2月5日発売の『オール讀物』(文藝春秋)3月号(50銭)~11月5日発売の12月号(50銭)に、武州の26歳の浪人・阿地川盤嶽(あぢがわ・ばんがく)が虚偽に満ちた社会で人間の誠実を求めて遍歴する物語、白井喬二(しらい・きょうじ、1889年9月1日~1980年11月9日)作、35歳の小村雪岱(こむら・せったい、1887年3月22日~1940年10月17日)画『盤嶽の一生』が連載された。

1932年4月2日、42歳のアルフレドゥ・E・グリーン(Alfred E. Green、1889年7月11日~1960年9月4日)、22歳のダグラス・フェアバンクス・ジュニア(Douglas Fairbanks, Jr.、1909年12月9日~2000年5月7日)主演の発声映画劇『有名人はつらいよ』It's Tough to Be Famous(79分)が公開された。

1932年7月15日、28歳のグロウヴァー・ジョウンズ(Grover Jones、1893年11月15日~1940年9月24日)、ウィリアム・スレイヴンス・マクナトゥ(William Slavens McNutt、1885年9月12日~1938年1月25日)脚本、36歳のスティーヴン・ロバーツ(Stephen Roberts、1895年11月23日~1936年7月17日)監督、49歳のジョージ・バンクロフトゥ(George Bancroft、1882年9月30日~1956年10月2日)、33歳のウィン・ギブスン(Wynne Gibson、1898年7月3日~1987年5月15日)主演の発声映画劇『淑女と紳士』Lady and Gent(84分)が公開された。

ボクサーのバズ・キニー(Buzz Kinney)を25歳のジョン・ウェイン(John Wayne, 1907年5月26日~1979年6月11日)が演じた。
1932年9月29日、帝国劇場で、発声映画劇『歡呼の涯』Lady and Gentの日本語字幕版、発声映画劇『マネキン英雄』It's Tough to be Famousの日本語字幕版が公開された。
1933年6月7日~11月5日、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』朝刊に、33歳の林不忘作、小田富弥画『丹下左膳』(こけ猿の巻)が連載されたが、林不忘の東京日日新聞社退社と共に連載は突然打ち切られた。
1934年1月30日~1934年9月20日、『讀買新聞』朝刊に、林不忘作、26歳の志村立美(しむら・たつみ、1907年2月17日~1980年5月4日)画『丹下左膳』が連載された。
志村により左膳の髑髏の紋が誕生した。
1934年1月25日までが「こけ猿の巻」にあたり、1月16日以後が「日光の巻」にあたる。

1980年1月31日発行、「名作挿絵全集」第5巻(第2回配本)、『昭和戦前・時代小説篇』(平凡社、特価2,000円、定価2,300円)に「収められた、1979年12月14日の、渡辺圭三による聞き書、71歳の志村立美「私の挿絵五十年」より引用する(137頁)。
ファンの方々から私の挿絵の代表作とされている「丹下左膳」「人妻椿」のエピソードあたりからお話ししましょうか。「丹下左膳」や「人妻椿」は作家の原稿、私の挿絵、いずれも評判が良かったこともありますが、両方とも映画になって客を呼んだことも力あずかていますね。「人妻椿」の場合は、タイトルバックに大きく私の挿絵が使われてそれがまた評判になりました。「丹下左膳」のサイコロの定紋、あるいはドクロの定紋、あれは僕が考えついたものなんですが、映画でもこの定紋にヒントを得て、サイコロが独楽のようにくるくる廻っているタイトルバックが写されもしたのです。ドクロの定紋もたしか大河内伝次郎の左膳で一度使われていますね。それに上野の松坂屋あたりから丹下左膳浴衣が売り出され、その柄の着物を着た丹下左膳などを私が描いて、色刷りのカードにしてこの浴衣に添えたものですから大評判となったものでした。そんなこともあったりで、当時の読者には私の挿絵の印象が強かったでしょうし、私自身にとっても「人妻椿」や「丹下左膳」は代表作といってよいものでしょうね。
「丹下左膳」の赤い長襦袢、あれは最初から作者が文中で明らかにしていたものではなく、グロテスクを強調するために絵の方で出したんですよ。そう、あの目と腕も、作者の林不忘さんから、無いのは左だったか右だったか、なんて電話で聞いてきたこともありましたね。左膳は右目と右腕がないわけだが、僕は刀を左側にさして描いた。映画では刀を抜きやすいようにたいてい右側にさしているが、僕は剣豪左膳ということなんだから刀を左側にさして描くのをずっと通したんです。
作者の原稿が間にあわなくて絵組み(註―作者からの電話やメモによる指示にもとづいてその回の挿絵を執筆すること)によったことも多かったですね。林不忘さんにかぎらず絵組みの仕事は随分やりましたが、これには失敗談もあります。いちばん困ったのは、月代が伸びている主人公が出てくる作品のとき絵組みになった。で、そのつもりで描いたところが、その日の原稿は月代をきれいに云々とこうなっているわけ、別に月代をきれいにしなければならない理由もないんですが、いやあれには弱りました。こういう裏の事情のあることは読者はわかりませんからね。
『新聞研究』(日本新聞協会)1976年11月号、70歳の高木健夫(たかぎ・たけお、1905年12月16日~1981年6月7日)の連載「新聞小説史」第78回「昭和初期(一)」、「丹下左膳の出現」より引用する(50~52頁)。
大正末期から昭和にかけて、新聞小説の上のヒーローは、ニヒルな剣客たちであり、現代物のヒロインでは、ブルジョア、あるいは華族の美しい妖婦型のマダムか、もしくは才女と、パターンはきまっていたようなものだ。
中里介山の机竜之介、林不忘の丹下左膳はニヒル剣客の双璧であるが、これと対照的な主人公が白井喬二が「富士に立つ影」でつくり出した熊木公太郎や阿地川盤嶽という剣術否定の剣客である。
しかも、なんといっても読者大衆は無類に強いニヒルな剣士の行状をおもしろいと受けとる。昭和になって、もっとも人気の高かった新聞小説の主人公の剣士は、もちろん机竜之介と丹下左膳だが、なかでも丹下左膳の人気はなんともたいへんなものであった。
長谷川海太郎が、東京日日新聞の平社員として学芸部に籍をおいて、林不忘の筆名ではじめに書き出したのが昭和二年十月十五日づけからの連載「新大岡政談」(鈴川源十郎の巻)であった。題名からも察せられるように、はじめは、あくまでもテーマは大岡政談であり、鈴川源十郎の話であって、丹下左膳なんてものは、はじめはほんの脇役的存在として登場していたにすぎない。刀剣マニアの福島相馬の殿様、六万石の相馬大膳亮に、乾雲、坤竜の陣太刀を手に入れよ、と命令されて江戸に出て来た、という設定で、作者の構想としては、あくまでも、大筋の大岡裁きの話の数々を展開する、片目片腕のニヒル剣士丹下左膳は、そのストーリーの流れの中に浮ぶ一人に過ぎなかったはずだ。
それが、このニヒルな丹下左膳像は、庶民読者に強烈な印象を与え、「大岡政談」の連載が進むにしたがって、いつのまにか、丹下左膳が脇役から主役の座に押し上げられてしまい、昭和三円五月いっぱいで「大岡政談」が終り、昭和五年一月一日からはまだタイトルは「続・大岡政談」だったが、昭和八年六月七日からの連載では、ついに題名までが「丹下左膳」になってしまった。そしてそれが、城戸事件では林不忘が退社し、同年十一月五日連載を中絶すると、翌九年二月からは、舞台を『読売』にうつして「丹下左膳」が「こけ猿の巻」から活躍することになる。
林不忘の快筆は、講談で親しまれた「大岡政談」をみごとに丹下左膳にすりかえてしまった、ともみられるが、むしろ、颯爽たる隻眼隻手のニヒル剣士の殺人美学が、昭和初期の、なんとなく前途に重苦しい暗雲を予感してストレスを起こしがちな庶民の心に、清涼感を与えた。その点からみると、作者の本心よりも、読者大衆が丹下左膳のイメージをつくりだし、それを作者がすくい上げて、小説を生かしたいわば、世相が要求した人間像であるかもしれない。
1981年11月25日、高木健夫著「新聞小説史」(全4冊)『昭和篇1』(国書刊行会、6.500円)が刊行された。
Ⅱ「林不忘と山本有三:大衆文学と国民文学」を収めた。


1933年6月15日、浅草・富士館で、白井喬二原作、23歳の山中貞雄(1909年11月8日~1938年9月17日)脚色・監督、35歳の大河内傅次郎主演の発声映画劇『盤嶽の一生』(12巻)が公開された。
併映は、発声映画劇『假面の米國』I Am a Fugitive from a Chain Gang(98分。初公開:1932年11月10日)だった。
『映画評論』(映画出版社)1952年1月号「特集:世界の映画作家」(120円)、45歳の岸松雄(1906年9月18日~1985年8月17日)の連載『日本映画人傳』1「山中貞雄」より引用する(63頁)。
山中はラグビーの熱心なフアンであつたが自分では決してやらなかつた。「盤嶽の一生」の西瓜畑でラグビーの競技を巧みに應用してスピードを盛りあげた場面などにも山中のラグビー・フアンとしての一面がうかがえる。水泳も自分では泳げなかつたが、見るのは大好きだつた。水泳選手だつた清水宏と、つき合うようになうてからは、一層その熱心さに拍車をかけられた。アメリカからバタフライ・ヒギンス[John Higgins(1916年5月8日~2004年8月1日)]などの選手がやって來た時などは、わざわざ上京して觀戰するという身の入れ方だ。野球も見るのは大好きである。昭和九年ごろ洛西鳴瀧村に住居していた時代劇作家たちは六大學のうち、それぞれ御ひいきをもつていて、例えば八尋不二は早大、瀧澤英輔は慶大、三村伸太郎は明大、そして山中貞雄は帝大というぐあいだったが、たまたま、その他の鳴瀧の住人、藤井滋司、萩原遼、土肥正幹、稲垣浩の四人を加えて、合計八人の合同ペンネームをつくる段になつて、山中は御ひいきの帝大の投手梶原[英夫、1911年~ 1944年4月27日)]が打撃率に於ても七割何分かでリーディング・ヒッター[昭和9年(1934年)春季リーグ戦で打率7割2分2厘]とであつたところから「これは十本のうち七本は當る」と縁起をかつぎ、おまけに同人が八人だつたから「梶原金八」というペンネームをこしらえあげた。

1953年5月25日、岸松雄著『日本映画人傳』(早川書房、230円)が刊行された。



1933年11月15日、浅草・富士館、新宿・帝都座、大阪・常盤座で、林不忘原作、35歳の伊藤大輔脚色・監督の発声映画劇『丹下左膳』(11巻)が公開された。
丹下左膳を35歳の大河内伝次郎が演じた。
チョビ安を中村英雄、櫛巻お藤を26歳の吉野朝子(1907年2月22日~1939年7月11日)が演じた。


1934年1月、日本ポリドールが、30歳の新橋喜代三(しんばし・ きよぞう、1903年10月12日~1963年3月23日)、日本ポリドール和洋管絃樂團「鹿兒島(かごしま)小原良(おはら)節」、「鹿兒島三下り」のSP盤(2007)を発売した。
1934年1月、日本ビクターが、日活映書「丹下左膳」主題歌、29歳の小唄勝太郎(こうた・かつたろう、1904年11月6日~1974年6月21日)、日本ビクター・サロン・オーケストラ「丹下左膳 戀の細道」、30歳の徳山璉(とくやま ・たまき、1903年7月27日~1942年1月28日)、日本ビクター管絃樂團「丹下左膳」のSP盤(52992)を発売した。
1934年3月29日、浅草・富士館で、林不忘原作、35歳の伊藤大輔脚色・監督の発声映画劇『丹下左膳 剣戟(けんげき)の巻』(10巻)が公開された。
丹下左膳、大岡越前守を36歳の大河内伝次郎が演じた。
チョビ安を中村英雄、櫛巻お藤を27歳の吉野朝子が演じた。
1934年6月25日、当時の日本最大のベストセラー作家・長谷川海太郎(はせがわ・かいたろう)の林不忘(はやし・ふぼう)、牧逸馬(まき・いつま)、谷譲次(たに・じょうじ)の三つの筆名で発表した小説をまとめた、志村立美装幀の「一人三人全集」(全16巻)第9巻、林不忘篇『丹下左膳(こけ猿の巻)』(新潮社、予約定価1円50銭、分冊1円70銭)が刊行された。
挿絵は布施長春(ふせ・ちょうしゅん、1904年~1946年)だ。
1934年12月12日、「一人三人全集」第10巻、林不忘篇『丹下左膳(日光の巻)』(新潮社、予約定価1円50銭、分冊1円70銭)が刊行された。
挿絵は布施長春だ。

1935年6月15日、浅草・富士館で、林不忘原作、37歳の三村伸太郎(1897年10月1日~1970年4月29日)脚色、梶原金八(山中貞雄、三村伸太郎、萩原遼)脚色、25歳の山中貞雄監督の発声映画劇『丹下左膳・尺取横町(しゃくとりよこちょう)の巻』を改題した『丹下左膳餘話(よわ) 百萬兩の壺』(91分)が公開された。
撮影は1935年4月~6月におこなわれた。
丹下左膳を37歳の大河内伝次郎、お藤を芸者歌手の31歳の新橋喜代三が演じた。
ちょび安を7歳の宗春太郎(むね・はるたろう、1928年3月9日~1961年12月21日)が演じた。
発声映画劇『丹下左膳』と同じ俳優の大河内が演じる人間離れした丹下左膳の人物造形を、原作者に無断で、先行映画劇とまったく別のより人間的な性格に作り替え、人物の性格の類型化のわかりやすさ、場面省略を多用した洗練された演出(場面構成)が高く評価されている。
夫婦の双方がイヤだと言い張りながら、次の場面では相手の言う通りにしているという趣向は、『歡呼の涯』Lady and Gentの真似だ。
大河内伝次郎のチャンバラが売り物というより、人気絶頂のポリドール専属歌手の新橋喜代三の小唄が売り物だった。
レコード歌手のスターの時代劇映画出演は本作が初だった。
当時、人気のあった小唄も、公共民のありふれた状況、感情を類型化して暗示する歌詞の洗練が好まれた。

尺取横町の矢場に、常連客のとんがり長屋のところ店屋の七兵衛(清川荘司)が遊びに来た夜、お藤が「櫛巻お藤の唄」を唄う。
浮世さらさら風ぐるま
今日は北風 あす南風
えゝ しょんがいな
矢場に矢がふる 雨がふる。
のぞいて見やれ 軒つばめ
君を待つ人 奥山小路
えゝ しょんがいな
遠矢七間 恋の的。
矢場の烏が啼くさうな
眞なさけの 一矢が欲しい
えゝ しょんがいな
まゐらせそろと紅のあと。
翌日の夜、妻恋坂の神蔭流の不知火道場・道場主の柳生源三郎(澤村國太郎)は前夜に覚えた「櫛巻お藤の唄」の節の鼻歌を歌いうながら矢場に来る。
管弦楽に編曲されたわらべうた「通りゃんせ」の器楽演奏も効果的に使われている。

左膳がちゃび安に、ちょび安の父の七兵衛が住んだことを教えた直後、矢場のお藤は、常連客となり、矢場の女・お久(深水藤子)と仲よくなった源三郎の前で、小唄「五月雨(さみだれ)や」(伝・三代目清元斎兵衛曲)を唄い出すが、左膳の沈んだ様子を見て、「晴れて漕ぎだ…」のところで、すぐに唄うのをやめる。
五月雨や、空に一と聲ほととぎす、
晴れて漕ぎ出す木母寺の
関谷はなれて綾瀬口
牛田の森を横に見て
超ゆるまもなく堀切の
咲くや五尺のあやめ草

ちょび安がこけ猿の壺をもってお藤の家に住み始めてひと月ほどが経ち、遊びがバレて、妻・萩乃(花井蘭子)から外出を禁じられた源三郎を、お久が待ちわびていると、お藤が小唄「待ちわびて寝る」を唄い出し、「枕に…」まで唄うと、急にやめる。
待ちわびて 寝るともなきにまどろみし
枕にかよふ鐘の音も
夢か現か うつつかゆめか
さめてなみだのそでたもと
アレ 村雨がふるわい

源三郎がまた矢場に遊びに来た夜、お藤は「櫛巻お藤の唄」を唄う。

1978年3月1日、72歳の稲垣浩(いながき・ひろし、1905年12月30日~1980年5月21日)著『日本映画の若き日々』(毎日新聞社、1,200円)が刊行された。
同書の「京都映画散歩」、「八坂(やさか)神社・円山(まるやま)」より引用する(63~64頁)。
山中貞雄がちょうど『丹下左膳・百万両の壺』という映画の構想中だったときで、櫛巻お藤を矢場の女主人公に、丹下左膳をその用心棒に仕組んで、その矢場女に恋をした柳生源三郎が足しげくかようというような、原作からかけ離れたおもしろい映画を作ったが、それは円山公園で毎夜酔いしれたときの産物である。
丹下左膳はもちろん大河内伝次郎、櫛巻お藤はレコード歌手の喜代三(にちに中山晋平氏夫人)が特別出演した。柳生源一郎のモデルは筆者である。そして鳴滝組の一員である三村伸太郎がシナリオに協力して、主題歌を作詞した。
浮き世さらさら風ぐるま
きょうは北風 あすは南風
ええ ションガイナ
矢場に矢がふる 雨がふる
のぞいて見やれ 軒つばめ
君を待つひと 奥山小路
ええ ションガイナ
遠矢七間 恋の的
大弓は的までの距離がおよそ十五間、座して弓を引く円山の半弓は七間だったから、「遠矢七間」などというユニークな歌詞が生まれたのであろう。
そのころの円山公園の夜は、こうした異色な、丹下左膳の構想だの、ロマンチックな歌詞を作らせるムードをもっていた。

1983年6月10日、「中公文庫」、稲垣浩著『日本映画の若き日々』(中央公論社、420円)が刊行された。
1935年6月29日、35歳の林不忘が亡くなった。
1937年2月25日発行、34歳の飯島正(いいじま・ただし、1902年3月5日~1996年1月5日)、内田岐三雄(うちだ・きみお、1901年~1945年7月20日)、40歳の岸松雄、28歳の筈見恒夫(はずみ・つねお、1908年12月18日~1958年6月6日)責任編輯「シナリオ文學全集」(全6巻)、第1巻(第3回配本)『シナリオ大系』(河出書房、1円50銭)、岸松雄「シナリオ研究」より引用する(95~104頁)。
「歡呼の涯」はスティーヴン・ロバーツの監督になるものである。この脚本は例のグローヴァー・ジョーンズとウィリアム・スレーヴンス・マクナットといふ二人組の名手の筆になつたものだけに變幻自在、まことにトーキー脚本形式の妙を盡してゐる。梗槪をかいつまんで述べれば、――
スラッグ[Slag]といふ拳鬪屋、頑固で飲んだくれで仕樣のない亂暴者であるが、その實は氣立のいい極くのお人好しである。バズ[Buzz]といふ男と試合してノックアウトされてしまふ。マネージャーのピン[Pin]の失望は大きい。何故なら、ピンはこの試合によるあがりを、すつかり當てにしてゐたから。お人好しのスラッグはピンのために何とかしてやらうと、情婦のパフ[Puff]から金を借りてやらうとする。が、パフはピンの不實な性質を知つてゐたので、その申出を刎ねつけた。ピンはその腹いせにギャングを雇ってパフの經營する酒場を荒らした。けれどピンにとつて必要なのは唯だ金であつた。止むなく拳鬪場の金庫を破らうとしてその場に倒される。スラッグはそれを知るや、裏切られたが、かつての友情を想へば罪人の汚名をピンに着せたくはなかつた。ひそかにピンの屍體を彼の部屋に運んで置いた。臨檢の警官は、ピンの死を自殺によると發表した。ところがピンが死んだら、ピンの一人息子テッド[Ted] が現はれた。今は孤兒となつたテッド。こんな子がゐたことを、スラッグもパフも知らなかつた。ピンがしきりに金を欲しがつてゐたのも、この子故であったのだ。スラッグとパフとは、この哀れな子供を引きとる。
月日は流れた。テッドを引きとつて以來、パフは酒場の女將をやめたし、スラッグも勤人になってゐる。そして時々匿名で不本意なリングにのぼつては、テッドを敎育するための金を儲けてゐた。思へば昔は華かだつた。もう一度紐育へ歸りたい。けれどテッドを手放すことは出來ない。テッドは立派に成人して、すすめられるままに拳鬪界に身を投じようとする。拳鬪屋にするために苦勞して育てて學校へ入れたつもりではなかつたのに。もちろん、スラッグとパフは大反對である。けれど思ひ込んでゐるテッドはどうしても拳鬪屋になるといふ。堪りかねスラッグはテッドに一撃を喰はすが、テッドのために逆にノックアウトされる。すつかり老ひこんでしまつたスラッグをいたはりながら、パフは始めて、テッドのために半生を捧げて來た苦勞を語れば、テッドは育ての親の有難さに泌々うたれ、斷然拳鬪入りを思ひとどまる。テッドを正式に養子にするため、スラッグとパフは改めて牧師の前に夫婦の誓ひを固めたのである。
かやうにして此の映書では無智で、やくざな男と女とが、不圖したことから引き取つた子供のために數々の苦勞を重ねて行くところに興味の大半を集注してゐる。無智なるものの眞摯なる苦勞、だからこそお互ひにののしり争ひながらも結局は子供の成長のたのしみを思つて、折れ合はずにはゐられないのだ。表面口に出して言つてゐることと實際とが常に逆に逆にと進んで行く。
(略)
「歡呼の涯」のこの逆手を最も巧みに応用した日本映書は「百万兩の壺」であつた。林不忘の「丹下左膳」を輿へられながら、これを全く無視し改變して獨自の興趣を喚び起こした作品だ。(脚色三村伸太郎、構成・監督山中貞雄)スラッグの代りに丹下左膳、パフの代りに櫛巻お藤、そしてテッドは勿論ちよび安である。

1985年1月25日、39歳の室謙二(むろ・けんじ、1946年1月16日~)著『踊る地平線:めりけんじゃっぷ長谷川海太郎伝』(晶文社、1,500円)が刊行された。
同書の第8章「丹下左膳と安重根(あん・じゅんこん)」、「原型としての丹下左膳」より引用する(233頁)。
丹下左膳というヒーローは、林不忘の筆の力だけで生みだされたものでなく、また伊藤大輔と大河内伝次郎だけで作られたものでもないだろう。それは林不忘と映画と舞台と新聞と雑誌と観客との共同制作によるヒーローなのである。
「原型としての丹下左膳」より引用する(238頁)。
日本大衆文化の身体障害者のヒーローは、柳田国男の描くこういうような日本の伝統的記憶(無意識的記憶)の上に組み立てられている。丹下左膳はその中の一つの典型であった。
すると不思議なことがおこる。都築道夫が『丹下左膳』の原型をアメリカの三文西部劇小説に捜したように、『丹下左膳』にはほかの時代小説にはない、どこか「モダン」なところ、軽いところがあり、同時にそれは柳田国男が描くような伝統的記憶(無意識的記憶)とも関係を持つ。丹下左膳は二丁拳銃のガンマンであり、また片目の神官でもある。
海太郎は丹下左膳のこういう日本的側面をどこから持ってきたのか?
それは疑いなく、中里介山の『大菩薩峠』からだった。この介山未完の超大作は海太郎が『丹下左膳』を書き始める時、すでに連載中であり評判であったはずだ。無明の世界にいる盲目の剣士机龍之介に刺激されて、海太郎は丹下左膳を生み出した。


1935年7月、日本ポリドールが、36歳の東海林太郎(しょうじ・たろう、1898年12月11日~1972年10月4日)、日本ポリドール管弦樂團「丹下左膳の唄」、31歳の新橋喜代三(唄)、30歳の三味線豊吉(しゃみせん・とよきち、1905年5月1日~1964年4月8日)(三味線)、日本ポリドール管弦樂團「櫛巻お藤の唄」のSP盤(2171)を発売した。

1958年2月5日、55歳の中山嘉子著『多情菩薩(たじょう・ぼさつ) : 喜代三自叙伝』(学風書院、250円)が刊行された。

2007年1月3日~4月1日、弥生美術館で、「生誕百年記念 挿絵画志村立美展:「丹下左膳」から艶麗なる立美美人まで~女性美を追い求めた55年~」が開催された。

2016年10月6日、「フィギュール彩」、小野公宇一(おの・こういち、1963年~)著『百萬両の女 喜代三』(彩流社、本体1,800円)が刊行された。

2021年12月15日、ビクターエンタテインメントが、「日本の流行歌スターたち」48、新橋喜代三『鹿児島小原節~田原坂』のCD盤(VICL-65596、税込み2,530円)を発売した。
