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今夜だけ


彼のことをいつも目で追っていると自覚するのに、そう時間はかからなかった。
授業中、いつも机の下で漫画を読んでいた後ろ姿。
サボるときに必ず連れ立っていく、ひとつ上の先輩と、隣のクラスのいつものあの娘。
体育館のギャラリーで、仲間たちに囲まれて笑う彼を見るたび、私の知らない表情がそこにあって。
胸の奥が、きまって小さく痛んだ。



彼は、誰にでも同じように優しくて、来る者は拒まず、去る者は追わなかった。
掴めそうで掴めなくて、近そうなのに、遠い。


一度だけ、家に呼んでもらった。
古い団地の一室。
襖で仕切られた部屋に、小さなブラウン管のテレビ。彼の好きな映画のDVD。
ここに来るのは私で何人目だろう、と、ぼんやり思った。

「他に好きな子がいるんだ」

淡い期待を胸に訪れたその部屋で、そう、告げられた。

私が特別じゃないことは分かっていた。
だけどどうしようもなく、惹かれてしまっていた。



◇◇◇


時は流れ、大人になった私はまた、彼の部屋にいた。

アパートのワンルームの部屋には、静かな月明かりが差し込んでいた。

あのときと違うのは、決意を持ってここに来たこと。


今夜だけ。
今夜だけで構わない。
一生、憶えていられるから。





同じ夜を重ねた秘密も、
貸してもらった歯ブラシも、
彼の長い指の温もりも。


忘れたふりは、できるけれど。

憶えてる。ちゃんと。

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