「広島交響楽団 第412回定期演奏会」を聴く。
2021年6月11日(金)
ヴァイオリン&コンサートマスター:フォルクハルト・シュトイデ
ピアノ:三輪郁
コンサートマスター:佐久間聡一
管弦楽:広島交響楽団
メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」作品26
メンデルスゾーン:ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲ニ短調 MWV.O4
メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」
アンコール
クライスラー:ウィーン風小行進曲
一年半ぶりとなるシュトイデさんのコンサートマスターによる広響を聴きに行った。
専門的なソリストとは異なり、オーケストラの中で役割を担うコンサートマスターの音色は、曲によってはソロのパートがあるにしても、普段は目立って音が聴こえるわけではない。だから昔はコンサートマスターの実力はどれほどのものか知らずにいたが、初めてシュトイデさんを安芸太田町で目の前に聴いた時は巨大なまでに豊穣な表現力に心底圧倒された。あの時に初めてコンサートマスターになる人の実力を知り、歴史的にも世界的にも有名なウィーン・フィルの第一ヴァイオリンの底知れない腕前を体感した。それは後日ベルリン・フィルのコンサートマスターである樫本大進さんの来日でも耳にして、一流のソリスト以上の演奏力をもっていると知った。
そんなコンサートマスターの実力は、オーケストラの統率能力も関係するだろう。一流のソリストであっても、指揮者のいないオーケストラを統御することはまずできないように思われる。今日の演奏会では指揮者の意味は強く感じられた。
指揮者がいない、これがどれほどのことか素人の自分にはわからないが、一年半前の演奏会ではモーツァルトの交響曲を指揮者なしで演奏していて、これがとても素晴らしかったことを記憶している。難しい物事を自然にこなす姿を目にすると、それが上手ければ上手いほど困難を感じさせないもので、今日の演奏会も当然良い音楽を味わえるものだと思っていた。
オールメンデルスゾーンの今日のプログラムの始めは序曲「フィンガルの洞窟」で、冒頭は指揮者の不在をどことなく感じさせるオーケストラのシルエットを感じたが、各パートはすっきりしていても古典とは異なるメンデルスゾーンの音色が綺麗に奏されていて、特にヴァイオリン群は目覚ましい音を響かせていた。中盤に近づき、ピチカートが奏され、クレッシェンドによって情操が盛り上がっていくと、オーケストラの音は指揮者が不在だからこその一体感と迫力で曲を盛りあげていた。そして思い出したのは、前の来日も同様に非常にスリリングだったことだ。
次の協奏曲は初めて聴く曲となり、大きくない編成の中で青年と呼ぶにはまだ早い作曲家の天才らしい完成度の高さと、モーツァルトやベートーヴェンからの強い影響を耳にした。ただ努力と奮闘による大成の天才と異なり、早い段階から名人芸を超えた不可解な早熟を見せるメンデルスゾーンらしく、モーツァルトのように作曲家そのものの顔が感じにくい。そして14歳という若さだからこそ曲が大きく、やや冗長でありながら目立った凡庸さが見えず、異常という言葉がはまる能力の高さで恐ろしい構成を組み上げていた。
そんな曲をオーケストラが責任感を持って背景を奏すると、シュトイデさんのヴァイオリンは重力なく演奏される。これほど力の抜けたボーイングを観た記憶はなく、筋肉ではない単純に統一された神経による動きは無駄などてんで感じられず、極めて俊敏で不足のない動作の中でビブラートは特別な響きを持たせて、力みや表現意図の音楽ではなく、あくまで昔から存在する生き物としてのヴァイオリンの音が奏でられていた。室内楽で聴いた時のほうが太く厚く、器のとても見えない雄大な音色を響かせていたが、今日は屈強で見事な体躯からは想像できない軽やかな音楽が生まれていた。そんなシュトイデさんのヴァイオリンを支えつつ、睦まじく呼応していたのが三輪さんのピアノで、硬質とも柔らかさとも言えない自然な音は各楽章だけでなくその時々に表情を変えていて、目立って主張することなく、だからといって陰に隠れるわけでもない対等な関係として、プログラム・ノートの解説にあったように作曲家の姉の姿を想像させる演奏をしていた。協奏曲ではあるものの、メンデルスゾーンの室内楽としての雰囲気をおおいに感じる内容となっていた。
それはアンコールで最も馥郁としていた。
後半の交響曲は、これぞ指揮者がいないからこその音楽だと思った。第一楽章から各弦のパートが目立った音を鳴らし、特に第一ヴァイオリンの音色は百戦錬磨のコンサートマスターが加わった変化が著しく、本番までの練習があったにしても、者が入ることによる説明抜きの変容を直に感じた。指揮者がいないことで室内楽と似た呼吸のアンサンブルがあり、ヴィオラ、チェロ、コントラバスと各首席奏者を筆頭に呼吸を合わせて音を重ねていく姿は、コンダクターがいないからこその緊張の中で各パートの意志が宿り、古い本で読むように各部族の首長がそれぞれ話し合いをしながら民族を保持していくような錯覚さえ覚えた。
そんな各演奏家の自律性が活かされた演奏は第二楽章でも熱意は変わらず進み、弦楽器よりも難しさの増す金管楽器も臆することなくその場面ごとの音を吹いていた。ただ第三楽章に入ると和音としての響きに難しさが表れ、音の塊にわずかな輪郭のずれが生じるようになったものの、演奏家の意志と熱情は同一をみせていた。そして第四楽章では自分の隣の人が首を振って喜び、奥の金管楽器の演奏者を探すように体を動かすのも理解できるほど情熱が伝わってきた。豊かな楽想と土地の映像を喚起する金管楽器の音色だけでなく、複雑でありながら綺麗にまとまって色とりどりの展開を描く弦楽器の響きはシュトイデさんが加わることで明瞭に発揮されていた。指揮者とは異なり、コンサートマスターはヴァイオリンを響かせてオーケストラに意思を伝えるようで、目立って躍動的なシュトイデさんの大きく素早い演奏姿を見ていると、言葉による説明ではなく、感覚こそがなによりも伝達として働くのだと知れるようだった。
難しい時期にウィーンから来るだけでも感謝する……、なんて言うのは音楽を厳格に聴くには甘い感情なのかもしれないが、単に良い音楽を聴くだけでなく、試みを含めたその時々の表現を味わいたいのが本音だ。何でも喜んで受け取るありがたがる主義かもしれないが、下野さんがいないからこそ広響がどのように変化するのか観るのは興味深く、辣腕のコンサートマスターが加わることでいかな刺激が起きるか聴くのも面白い。特に弦の音色の変化は今回も素晴らしく、指揮者に統制されるのとは異なる自主的な音を感じるようだった。
そしてなんといってもヴァイオリンの腕前がすばらしい。有名なメンデルスゾーンの協奏曲とは異なり、耳なじみのよい旋律ではない姉弟の姿を目に映させる演奏を味わえる。これだけでも自分は今日の演奏会に満足できるのだから、シュトイデさんが広島に来ることはとてもありがたいことなのだ。
