広島市映像文化ライブラリーでジョルジュ・フランジュ監督の「顔のない眼」を観る。
2019年11月4日(月)
1960年 フランス 88分 モノクロ デジタル
監督:ジョルジュ・フランジュ
原作:ジャン・ルドン
脚本:ボワロー・ナルスジャック 、 ジャン・ルドン 、 クロード・ソーテ
撮影:オイゲン・シュフタン
音楽:モーリス・ジャール
出演:ピエール・ブラッスール、アリダ・ヴァリ、エディット・スコブ、ジュリエット・メニエル、ベアトリス・アルタリバ、アレクサンダー・リニョオ
カルト的な雰囲気に包まれているも非常にわかりやすい映画作品で、夜に雨の中で車を走らせるオープニングシーンから早々と謎が提示されるも、1つ1つの要素が段階的に配置されているので、どのような物語となっているのかたやすく推理できる。顔をすり替えることに成功したであろう車を運転する母親には不気味で諧謔的な音楽が付随していて、後々に3人目の女性を迎えるシーンで妙味のある効果が発揮される。
オープニング直後に鏡を使った会話シーンにより川に沈められた顔を隠された女の意味が暗示され、医師による人体の移植についての講義でさらなる土台が与えられる。そのような具合で次々と物語を形作る要素が説明されていくと、やはり生きていたと誰もが予測する娘が登場して、タイトルから一貫して観衆の興味を惹いていた隠された顔が画面に現れて、この映画にもう1つ存在し続ける重要な音楽が流れる。ここのシーンでがらりと作品の雰囲気は変わる。肌に張り付く薄いマスクをつけた顔は、美の頂点と思われる眼だけが生きていて、その顔立ちの驚異に全てが吸い込まれる。潰れてしまった見るに耐えない顔に誰もが興味を注がれていたにしても、これほどの美神が登場するなどとは思いもしないだろう。主観的な好みがあるにしても、こんなに素晴らしい顔を生きている人間で観たことがあろうか。生涯忘れることのない究極の形がある。
その顔がコールアングレらしき木管楽器の優美でメランコリックな旋律と共に動き出し、広い屋敷を歩き回る。謎解きなどは意味がなく、他の観点も必要はなく、人をさらってくる母親に、顔を剥がして娘に張り付ける父親も、この娘の美しい顔を取り戻す為のもはや生け贄でしかないと気づく。残酷でおぞましい手術のシーンも、犬に襲われるシーンも驚異的な演出となっており、周囲の音がやけに響く映像回しに、なんとも言えない静かで怪奇的な雰囲気のモノクロ映像も優れて良いが、マスクの顔、皮膚を得た顔、嬉しさと戸惑いが凍り付いた顔、皮膚が再び壊死して死にたいと泣いてせがむ顔、婚約者に電話する顔、そのどれもがあまりに美しい。この映画作品は顔のない眼、つまり眼の表情だけで罪を犯してもかまわない気にさせる。骨ばった細身の体に、優れた線の背中から長い首、襟のあがったドレス、すべてを喜んで捧げたくなるほどの美で完成されている。
作品の途中で一瞬だけ目を向けられた女性が白い鳩を手に乗せる絵画は、最後に結ばれる。皮膚の移植の為の実験となっていた犬と、鳥かごの中でしめやかに留まっている白鳩の暗喩するものは何だろうか。丈の長いスカートの女性が伝書鳩を抱えるシャヴァンヌの絵が想起される。自分の顔の為に罪を犯し続ける両親を、どうして自らの手で滅ぼしたのか。その残酷な姿は純粋な結晶で、子供の素直さで事の意味がわかっていたのだろう。
白く固まったマスクの中で、眼はあまりにも心を映していた。そんな彼女が幻惑的な音楽と白い鳩と共に、夜の外へ歩いていく。ロシアンカルト映画の美しさとはまた異なった類稀な映画作品だった。観られて光栄と思えるほどに。
