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『世界には、色がなかった』                      創作大賞2026応募作品

                                                                                天音 翔

第1楽章
Adagio — 赤の発見



世界には、色がなかった。
少なくとも、私はそう認識して生きてきた。
白と黒と、そのあいだにある無数の灰色。それで世界は十分に説明できたし、不自由もなかった。
朝、目を覚ます。
カーテンを開けると、曇った空が広がっている。濃淡の違う雲が重なり合い、遠くの建物は少しだけ霞んで見えた。
それを「空」と呼び、「雲」と呼ぶ。
それ以上の名前は必要なかった。
いつも通りの朝だった。
顔を洗い、歯を磨き、簡単な食事を済ませる。
食卓の上に並んだものは、すべて決まった明るさの違いでしかなかったが、それでも私はそれを識別できたし、困ることはなかった。
外に出る。
アスファルトは少し湿っていて、靴底にわずかな抵抗を返す。空気は重く、遠くで車の音が連続している。
すべてが、いつも通りだった。
それを見つけるまでは。
道端だった。
正確には、歩道と車道の境目。
白線が引かれているはずの場所に、何かがあった。
最初は、濃い灰色の塊だと思った。
けれど、それは他のどの灰色とも違っていた。
濃淡では説明できない。
視線を向けると、わずかにざらついたような、しかし輪郭が曖昧なものがそこにあった。
固体のようにも見えるし、液体のようにも見える。けれど、そのどちらでもない。
私は立ち止まった。
なぜか、目を離してはいけない気がした。
近づく。
それは、確かにそこにあった。
影でも汚れでもない。地面に貼りついているわけでもなく、かといって浮いているわけでもない。
ただ、「そこにある」としか言いようがなかった。
手を伸ばす。
触れた。
感触は、よく分からなかった。
硬いようで、柔らかいようで、指先がほんの少しだけ遅れて沈み込むような感覚がある。
温度も曖昧だった。
冷たいとも、温かいとも言えない。
なのに、はっきりと分かることがひとつあった。
これは、ここにあってはいけないものだ。
理由は分からない。
ただ、直感がそう告げていた。
私はしばらくそれを見つめていたが、やがて顔を上げた。
人通りはいつもと変わらない。
誰も立ち止まらず、その場所を避けることもなく、自然に通り過ぎていく。
まるで、何もないかのように。
私は通りかかった男に声をかけた。
「すみません、これ……見えますか」
男は足を止め、私の指先を追った。
しかし、彼の視線はわずかにずれていた。
「何がですか」
「ここに、何か……」
言葉が続かなかった。
何と呼べばいいのか、分からない。
男はしばらく地面を見てから、首をかしげた。
「何もないですよ」
そう言って、軽く笑い、そのまま歩き去った。
私はもう一度、足元を見る。
それは、消えていなかった。
むしろ、さっきよりもはっきりと存在しているように見えた。
そのとき、ふと思った。
もしこれに名前をつけるとしたら。
私は口の中で、まだ使ったことのない音を転がした。
「……赤」
理由はなかった。
ただ、その音がいちばん近い気がした。
その瞬間、それはわずかに輪郭を強めたように見えた。
私は息を止める。
名前を与えたことで、それは確定してしまったのかもしれない。
私はその場を離れた。
背中に、何かが貼りついてくるような感覚があった。
振り返る。
そこには、まだそれがあった。
ただ――
ほんのわずかに、広がっているように見えた。

 

第2楽章
Andante — 検証と孤立


翌日も、それはあった。
同じ場所ではなかった。
だが、確かに昨日と同じ種類の“何か”が、別の位置に存在していた。
私は足を止める。
見間違いではない。
疲労でも、光の加減でもない。
それは、そこにあった。
私は昨日と同じように、それに触れた。
指先に返ってくる曖昧な感触。硬さとも柔らかさともつかない、わずかな遅れ。
そして、同じ直感。
これは、ここにあってはいけない。
私はゆっくりと手を引いた。
帰宅して、鏡の前に立つ。
自分の顔は、いつもと変わらなかった。
灰色の濃淡で構成された、見慣れた輪郭。
だが、その右側――頬のあたりに、かすかな違和感があった。
目を凝らす。
何もない。
そう思った次の瞬間、ごく短く、何かが滲んだ。
一瞬だけ。
「……赤」
声に出してみる。
鏡の中の自分は、同じように口を動かした。
だが、その言葉には意味がなかった。
そもそも、意味を持つ言葉ではない。
私は携帯端末を取り出し、写真を撮った。
画面を確認する。
何もない。
ただの灰色の顔が映っているだけだった。
もう一度撮る。
角度を変える。距離を変える。
それでも、写らない。
私はしばらく画面を見つめたあと、ゆっくりと端末を下ろした。
その間にも、視界の端で、あの“赤”がわずかに揺れていた。
私は机に向かい、紙を取り出した。
ペンを握る。
書く。
――ここに、

があった。
文字は問題なく書けた。
だが、書き終えたあと、その一文を見たとき、奇妙な感覚が残った。
自分が書いたはずなのに、どこか他人の筆跡のように見える。
意味も、少しだけ遠い。
「赤」という言葉が、紙の上で浮いている。
私は紙を裏返した。
しばらくして、もう一度見る。
そこには、やはり同じ文が書かれていた。
――ここに、があった。
事実の記録のはずなのに、証拠にはならない。
むしろ、何も証明していない。
私は椅子にもたれた。
頭の中で、いくつかの可能性を並べる。
目の異常。
神経の問題。
一時的な錯覚。
だが、そのどれもが、うまく当てはまらなかった。
翌日も、それはあった。
同じ場所ではなかった。
私は、一度だけ、ちゃんと説明しようとした。
場所は、カフェだった。
向かいに座っているのは、昔からの知り合いだった。
特別に親しいわけではないが、話が通じない相手でもない。
むしろ、その逆だった。
だから、選んだ。
「少し、変な話なんだけど」
そう前置きすると、相手は軽く笑った。
「いいよ、何?」
その声音は、いつもと変わらない。
落ち着いていて、こちらを受け入れる余地がある。
私は、テーブルの上を見た。
カップの縁に、ごく薄く“赤”が滲んでいる。
それを見ながら、言葉を探す。
「最近、何か……見えるんだ」
「見える?」
「うん。普通じゃない、何かが」
相手は少しだけ首をかしげる。
否定も肯定もせず、続きを待っている。
私は息を吸う。
「色、みたいなものなんだけど」
その瞬間、何かがずれた。
相手の表情が、ほんのわずかに止まる。
「色?」
繰り返されたその言葉は、音としては正しいのに、意味を持っていなかった。
私は気づく。
この世界には、その概念がない。
「えっと……明るさじゃなくて、濃さでもなくて」
言葉を足そうとするほど、何を言っているのか分からなくなる。
自分でも。
相手の視線が、少しだけ変わる。
心配しているような、距離を測っているような。
「疲れてるんじゃない?」
柔らかい声だった。
否定ではない。
ただ、こちらを現実に引き戻そうとする響き。
私は口を閉じる。
それ以上、続けることができなかった。
テーブルの上の“赤”は、さっきよりもはっきりしている。
相手はそれを見ていない。
同じ場所を見ているはずなのに、違うものを見ている。
私はコップに手を伸ばす。
触れる。
指先に、わずかな遅れ。
私はそれを感じている。
だが、それを言葉にできない。
言葉にしようとすると、壊れる。
私は視線を落とした。
それからは、どうでもいい話をした。
天気のこと。
最近の仕事のこと。
曖昧で、どこにも残らない会話。
相手は安心したように頷き、笑った。
私はそれに合わせる。
帰り際、相手は言った。
「無理しないでね」
私は頷いた。
外に出る。
ドアを閉める。
その瞬間、音が一段階遠くなる。
私は立ち止まる。
振り返らない。
振り返ると、何かが決定してしまう気がした。
私はそのまま歩き出す。
もう、人に話すことはないと思った。
 
“赤”は、増えていた。
点だったものが、細い線のように伸びている。
壁の端、歩道の継ぎ目、看板の縁。
私はそれを追うように歩いた。
どこにでもあるわけではない。
だが、確実に、昨日より多い。
私は再び、人に声をかけた。
「ここ、何か見えませんか」
相手は足を止め、私の示す場所を見る。
そして、少しだけ困ったように笑う。
「いや、何も……」
その反応は昨日と同じだった。
見えていないのではない。
見ているものが違う。
私はそれ以上、何も言わなかった。
説明できないことを説明しようとすると、言葉が壊れる。
言葉が壊れると、相手との距離が決定的になる。
私は人に話すのをやめた。
街を歩く。
視界の中に、点在する“赤”
それは主張しない。
ただ、そこにある。
気づかなければ、そのまま通り過ぎられる程度の存在。
だが、一度見つけると、もう見逃せない。
夕方。
空は、いつもより少しだけ暗かった。
雲の濃淡が重なり、境界が曖昧になっている。
その中に、細い筋のようなものが走っていた。
最初は、目の錯覚だと思った。
だが、それは消えなかった。
空に、“赤”があった。
私は立ち止まる。
周囲の人間は、誰も上を見ていない。
誰も、それを指ささない。
そのとき、ふと視線が下に落ちた。
自分の手。
指先。
爪のあたりに、ごく微かな滲みがあった。
呼吸が止まる。
私は手を裏返す。
何もない。
もう一度見る。
やはり、何もない。
だが――
確かに、さっき、あった。
私は手を握った。
“赤”は、もう道端にだけあるものではなかった。

第3楽章
Scherzo — 増殖する色、崩れる現実


“赤”は、増えていた。
数の問題ではなかった。
密度が変わっていた。
壁の隅。
道路の継ぎ目。
看板の縁。
人の爪先。
誰かの唇の端。
それまで何もなかったはずの場所に、“赤”は自然に混ざり込んでいた。
もう、異物ではなかった。
最初からそこにあったものが、ようやく姿を見せはじめたように、風景の中に沈んでいる。
私は歩きながら、それを数えようとした。
一つ。
二つ。
三つ。
だが、途中でやめた。
数えられる種類のものではない。
それは点ではなく、気配だった。
現れる場所を持っているのではなく、世界の奥から、少しずつ滲み出している。
視界の端で、何かが揺れた。
振り向く。
そこには、“赤”ではない何かがあった。
深い。
沈むような感覚を持っている。
それは暗さとは違った。
でも、濃い灰色でもない。
もっと奥がある。
見つめていると、足元の感覚が少し遠くなる。
水の底をのぞき込んでいるような気がした。
私はそれに触れようとして、手を止めた。
触れてはいけないと思った。
けれど、名前が必要だった。
名前を与えなければ、それはいつまでも輪郭を持たない。
私は口の中で、まだ知らない音を転がした。
「……青」
違うかもしれない。
だが、それ以外に呼びようがなかった。
その瞬間、それはわずかに輪郭を強めた。
私は息を止める。
やはり、名前はただの名前ではなかった。
呼ぶことで、それは世界に固定される。
“赤”だけではなかった。
それは、最初のひとつに過ぎなかった。
その日を境に、別のものも見えはじめた。
乾いた、薄いもの。
紙を裂く直前のような、鋭い気配を持ったもの。
それは建物の上のほう、曇った空との境目に、かすかに走っていた。
明るいのに、白ではない。
軽いのに、空気ではない。
私はしばらく見上げていた。
首が痛くなっても、目を逸らせなかった。
「……黄」
そう言った瞬間、喉の奥が乾いた。
その名は、少しだけ危うかった。
呼んではいけないものを呼んだような感じがした。
“青”は沈み、“黄”は裂けた。
“赤”は滲む。
私はそれらを見分けられるようになっていた。
それが怖かった。
街を歩く。
人の流れは変わらない。
会話も、足音も、車の音も、何もかもがいつも通りに進んでいる。
けれど、私だけが少し遅れていた。
言葉が、遅れて届く。
隣を歩く人間の声が、意味を結ぶまでにわずかな時間が必要になる。
音としては聞こえている。
だが、それが何を指しているのか、すぐには分からない。
「すみません」
誰かが言った。
肩がぶつかったのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
私は頭を下げる。
相手はもう歩き去っている。
その背中の輪郭に、薄い“赤”がまとわりついていた。
怒りだろうか。
痛みだろうか。
それとも、ただの影なのか。
分からない。
分からないのに、見えている。
私はそれが怖かった。
誰かの顔を見ることが難しくなっていった。
口元に“赤”が走ることがある。
手の甲に“青”が沈んでいることがある。
笑っている人の肩先に、“黄”が薄く刺さっていることがある。
それらが感情なのか、記憶なのか、身体の奥にある何かなのか、私には分からない。
けれど、見えてしまう。
見えてしまう以上、見なかったことにはできない。
私は視線を下げて歩くようになった。
足元。
地面。
灰色の敷石。
その隙間にも、“赤”はあった。
逃げ場がなかった。
私は一度、駅のベンチに座った。
人の流れを避けるように、端の席を選んだ。
目の前を、たくさんの靴が通り過ぎていく。
濃い灰色。
薄い灰色。
擦れた灰色。

その中に、ときどき色が混ざる。
小さな“赤”。
沈んだ“青”。
乾いた“黄”。

誰も気にしていない。
誰も、自分の足元にそれをまとっていることを知らない。
私は膝の上で手を握った。
その指先にも、また、ごく薄い“赤”が滲んでいた。
前よりも濃い。
私は親指でこすった。
消えない。
爪を立てる。
少し痛い。
その痛みに反応するように、“赤”が深くなった。
私は手を離した。
身体の中に、色がある。
その事実に気づいた瞬間、吐き気がした。
それは外から現れたものではなかったのかもしれない。
世界が変わったのではなく、私の内側にあったものが、外側に対応しはじめている。
あるいは、その逆。
外にあるものが、私の内側へ入り込んできている。
どちらでも同じだった。
境目が、もう分からない。
私は立ち上がった。
歩き出そうとして、足が止まる。
駅の柱に、広い“青”が沈んでいた。
それは人の背丈ほどの高さに、静かに広がっている。
誰かがそこにもたれかかる。
その人の背中と“青”が重なった瞬間、私は目を逸らした。
人と物の境界が、曖昧になっている。
色は人にだけ現れるわけではない。
感情だけでもない。
無機物にもある。
壁にも。
柱にも。
ガラスにも。
空にも。
ならば、色とは何なのか。
私はそれを考えようとして、考えることをやめた。
考えれば、戻れなくなる。
けれど、もう戻れないことも分かっていた。
夜になっても、色は消えなかった。
むしろ、夜のほうが見えやすいものがあった。
部屋の明かりを消す。
世界は暗くなる。
灰色も、輪郭を失っていく。
そのはずだった。
けれど、暗闇の奥で、色が残っている。
“赤”が、脈を打つ。
“青”が、沈んでいる。
“黄”が、細く裂けている。
私は布団の中で目を閉じた。
目を閉じれば消えると思った。
だが、消えなかった。
まぶたの裏側に、色があった。
暗闇には色がないはずだった。
少なくとも、これまではそうだった。
けれど今は、暗闇のほうが、かえって鮮明だった。
内側から、ゆっくりと浮かび上がってくる。
私は子どもの頃のことを思い出した。
夜、眠れないまま目を閉じていると、暗闇の奥で何かが動いているように見えた。
小さな粒。
波のような揺れ。
輪郭のない気配。
それを怖いと思ったことがある。
けれど、誰にも言わなかった。
言えば笑われると思ったからではない。
言葉にできなかったからだ。
あれは、本当にただの暗闇だったのか。
もしかしたら、私はずっと前に一度だけ見ていたのではないか。
そして、忘れさせられていたのではないか。
誰に。
世界に。
そう思った瞬間、寒気がした。
私は目を開けた。
部屋は静かだった。
壁。
机。
椅子。
床。
すべてがそこにある。
けれど、同じではない。
見えているものの下に、もう一枚、薄い膜のようなものが重なっている。
その膜の隙間から、色が滲む。
私は起き上がった。
鏡の前に立つ。
自分の顔を見る。
変わっていない。
そう思った。
だが、右の目。
そこに、ごく微かに“赤”が宿っていた。
私は動けなくなる。
瞬きができない。
それは、私の目だった。
だが、私だけのものではないように見えた。
鏡の中の私が、こちらを見ている。
その目の奥にある“赤”が、静かに揺れている。
私は手を伸ばした。
鏡に触れる。
冷たい。
その冷たさの奥にも、“青”がある気がした。
私は指先を離す。
鏡の中の私は、ほんの少しだけ遅れて指を離したように見えた。
気のせいだ。
そう思おうとした。
だが、その言葉はもう役に立たなかった。
気のせい。
錯覚。
疲労。
異常。
それらの言葉は、まだ世界の側に属している。
今の私には、遠すぎた。
私は外に出た。
夜の街は、人が多かった。
昼間よりも静かなはずなのに、音が重なっている。
車の走る音。
靴音。
誰かの笑い声。
信号の電子音。
それらが一度に押し寄せ、意味になる前の状態で耳の中に溜まっていく。
私は歩道の端に立った。
街が、薄く光っていた。
光ではない。
色だった。
建物の輪郭に沿って、空気の層に沿って、人の流れに沿って、色が重なっている。
“赤”だけではない。
“青”だけでもない。
“黄”だけでもない。

まだ名前のないものが、いくつもあった。
湿ったもの。
甘く腐る直前のようなもの。
触れる前から皮膚が覚えているようなもの。
どこまでも薄く、しかし消えないもの。
私はそれらに名前をつけようとして、やめた。
これ以上、呼んではいけない。
呼べば、増える。
増えるのではない。
確定する。
私はようやく、そのことを理解しはじめていた。
名前は、世界を切り分けるためにある。
けれど、切り分けた瞬間、それは存在してしまう。
存在してしまったものは、もう消せない。
人混みの中で、誰かが笑った。
その笑い声の周囲に、“黄”が細く走った。
別の誰かが俯いた。
肩のあたりに“青”が沈んでいた。
子どもが走る。
その足元に、ごく小さな“赤”が跳ねた。
私はそれを見て、息を呑む。
色は、感情なのかもしれないと思った。
怒り。
不安。
痛み。
羞恥。
喜び。
そう考えると、少しだけ説明できる気がした。
だが、次の瞬間、その仮説は崩れた。
誰も触れていない街路樹の幹に、“赤”があった。
無人のベンチの下に、“青”が沈んでいた。
閉じられた店のシャッターに、“黄”が細く走っていた。
人の感情だけではない。
記憶。
場所。
時間。
物が溜め込んだ何か。
そう言えば近いのかもしれない。
けれど、それもまた言葉に過ぎない。
私は歩き続けた。
街の中心に近づくほど、色は増えた。
重なり、滲み、互いに触れ合いながら、それでも完全には混ざらない。
世界が、何層にも分かれている。
そのすべてが、同じ場所に存在している。
私たちはその一番表面だけを、灰色と呼んでいたのかもしれない。
安全な名前だけを与えて、奥にあるものを見ないようにしていたのかもしれない。
私は立ち止まった。
人の流れの中で、自分だけが遅れている。
いや。
違う。
自分だけが、違う速度で見ている。
目の前を過ぎていく人々は、誰も立ち止まらない。
誰も色を見ない。
あるいは、見ないことを選んでいる。
それとも、選ばされている。
私は空を見上げた。
夜の空は、灰色の濃淡で覆われているはずだった。
だが、その奥に、薄い色の層がある。
遠く。
深く。
言葉が届かない場所で。
世界は、最初からこうだったのかもしれない。
私だけが狂ったのではない。
私だけが正しいのでもない。
ただ、何かが外れた。
私を世界に合わせていた小さな留め具のようなものが、ひとつ、外れてしまった。
その結果、見えてはいけない層が、見えている。
私はゆっくりと息を吐いた。
“赤”は、増えているのではない。
“青”も、“黄”も、現れたのではない。
最初から、あった。
ただ、私たちが見ていなかっただけで。
見ないように、できていただけで。
世界は、色を持たなかったのではない。
私たちが、それを持たないことにされていただけなのかもしれなかった。

 


第4楽章
Finale — 侵食、あるいは誕生


色は、隠せなくなっていた。
気づかないふりをするには、あまりにも多い。
街のあらゆる場所に、薄く、確かに重なっている。
壁の角。
信号機の柱。
歩道の継ぎ目。
人の肩のあたり、手の甲、足元の影。
すべてが、わずかに滲んでいる。
それでも、誰も何も言わない。
足を止める者はいない。
指さす者もいない。
声を上げる者もいない。
いつも通りの速度で、人は歩いている。
私はその中に立ち尽くす。
違和感は、もう違和感ではなかった。
これが現実で、これまでが欠落だったのではないかとすら思い始めている。
“赤”は、最初のひとつだった。
危険の色ではなかったのかもしれない。
むしろ、何かが内側から押し出されてくる、その最初の裂け目。
それがたまたま、あの形で現れただけで。
私は目を閉じる。
暗闇の裏側で、色がある。
脈打っている。
沈んでいる。
裂けている。
消えない。
もう、戻れない。
目を開ける。
街は変わらない。
だが、同じではない。
私は歩き出す。
向かう場所は決まっていた。
最初に、“赤”を見つけた場所。
あの白線のあたり。
駅に入る。
改札の前で、人の流れが一度だけ滞る。
機械の前に立ったまま、動かない男がいた。
年齢は分からない。
スーツを着ている。
片手に端末を持ったまま、視線だけが下に落ちている。
誰かが後ろから軽く肩に触れる。
「すみません」
男は反応しない。
もう一度、声がかかる。
それでも動かない。
周囲の人間が、わずかに避けて流れていく。
誰も強く関わろうとしない。
私は少し離れた位置から、その様子を見ていた。
男の足元。
改札の境目に、細く“赤”があった。
それは床の線に沿うように、静かに伸びている。
踏まれても、消えない。
男の靴の先が、その上に乗っている。
そのとき、男の肩が、わずかに震えた。
ほんの一瞬だけ。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
だが、改札ではなく、こちらでもなく、
どこでもない場所を見ている。
焦点が合っていない。
その視線が、ふと足元に落ちる。
私は息を止める。
男は、見ている。
確信はなかった。
だが、見ているように見えた。
次の瞬間、後ろから強く肩を押される。
「すみません、通ります」
現実の流れが戻ってくる。
男は小さく体勢を崩し、何事もなかったかのように改札を抜けた。
そのまま歩き出す。
振り返らない。
足元の“赤”は、わずかに広がっていた。
私はしばらく動けなかった。
今のは、何だったのか。
ただ立ち止まっただけなのか。
それとも――
私は考えるのをやめた。
考えれば、名前を与えてしまう。
名前を与えれば、それは確定する。
私は視線を上げる。
改札を通り過ぎる人々は、何も気づかないまま歩いている。
いつも通りの速度で。
いつも通りの顔で。
その足元で、静かに、何かが増えている。
 
そこへ戻れば何かが分かる気がした。
あるいは、何も分からないことが、はっきりする気がした。
私はゆっくりと歩いた。
途中、信号待ちで足を止める。
人々が並んでいる。
誰も話していない。
誰も空を見ていない。
ただ、信号が変わるのを待っている。
その足元に、“赤”が薄く広がっていた。
ひとりの男が、それを踏んでいる。
気づいていない。
靴底の下で、“赤”はわずかに揺れた。
男は携帯端末を見ている。
何かを読み、口元だけで笑う。
その笑いの端に、“黄”が細く走った。
だが男は、それにも気づかない。
に沈んだ影が、彼の肩のあたりに溜まっている。
それでも、彼はただ信号を待っている。
私は、その横顔を見ていた。
見えていないということは、守られているということなのかもしれない。
見えないまま生きることは、欠落ではなく、ひとつの保護なのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
信号が変わる。
人々が一斉に歩き出す。
“赤”の上を、何足もの靴が通り過ぎていく。
それは踏まれても消えなかった。
ただ、少しずつ広がった。
私は歩き続ける。
道の途中で、親子とすれ違った。
小さな子どもが、母親の手を引いている。
母親は前を見ていた。
歩く速度を落とさない。
子どもだけが、ふと足を止めた。
その視線は、歩道の端に落ちていた。
そこには、ごく薄い“青”があった。
深く、静かに沈んでいる。
子どもは何か言おうとした。
口が少しだけ開く。
しかし母親が手を引く。
「行くよ」
子どもは振り返りながら歩き出す。
その目は、まだ歩道の端を見ていた。
私は立ち止まる。
声をかけることはできなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
見えたのか。
それとも、ただ足元を見ただけなのか。
確かめてはいけない気がした。
確かめれば、その子までこちら側に引き込んでしまうような気がした。
私は再び歩いた。
街の音が、少し遠くなっていた。
車の音。
人の声。
電子音。
店の入口から漏れる音楽。
それらはすべて聞こえている。
だが、ひとつの膜の向こう側にある。
こちら側には、色だけが静かにある。
私はあの場所へ近づいていく。
最初に“赤”を見た、歩道と車道の境目。
白線のそば。
そこには、誰かが立っていた。
小柄な背中。
年齢は分からない。
子どもにも見えるし、大人にも見える。
老人のようにも見えた。
その人は、私と同じように、地面を見つめている。
私は足を止める。
近づきすぎてはいけない気がした。
けれど、離れることもできなかった。
その人の足元には、“赤”があった。
最初に見たときよりも、ずっと広い。
だが、派手ではない。
声を上げるほどのものではなく、ただ、そこにある。
静かに、確実に。
“赤”の縁には、別の色が滲んでいた。
“青”とも違う。
“黄”とも違う。
まだ名前がない。
触れる前から皮膚がそれを知っているような、奇妙な近さがあった。
その人が、わずかに顔を上げる。
そして、静かに言う。
「これ、見える?」
私は答えない。
答えられない。
ただ、その指先の先を見る。
そこにあった。
“赤”
そして、そのすぐ隣に――
まだ名前のない、別の何か。
それは、昨日までは存在しなかったはずのものだった。
あるいは、存在していたのに、見えていなかったものだった。
私は息を吸う。
「……見える」
声は、思っていたよりも小さかった。
相手は頷かなかった。
驚きもしなかった。
笑いもしなかった。
ただ、少しだけ安心したように、目を伏せた。
その沈黙が、何よりも答えだった。
救いではない。
共有できたからといって、元の世界に戻れるわけではない。
むしろ、戻れないことが確定しただけだった。
それでも、私は初めて、完全にはひとりではないと思った。
次の瞬間、遠くで誰かが立ち止まった。
若い女だった。
彼女は店の前で、ふいに足元を見る。
何かを落としたのかと思ったのかもしれない。
ただ、靴紐を気にしただけかもしれない。
だが、その視線は少し長かった。
その先に、ごく淡い“赤”があった。
さらに向こうで、老人が空を見上げていた。
夜の空の奥に、薄い層がある。
老人はそれを見ているようにも、ただ雲を眺めているようにも見えた。
誰も声を上げない。
誰も騒がない。
それでも、街の中で、立ち止まる人間が少しずつ増えている。
ほんのわずかに。
まるで、目に見えない糸が、静かに切れていくように。
私はもう一度、足元を見る。
“赤”は、広がっている。
その縁に触れるように、別の色が生まれている。
名前は、まだない。
必要になるのは、これからだ。
名づければ、それは世界に固定される。
けれど、名づけなければ、共有することができない。
私はその矛盾の前に立っている。
誰かが最初に呼ばなければならない。
誰かが最初に、逸脱しなければならない。
相手が、もう一度地面を見た。
その横顔には、薄い“青”が沈んでいる。
私は思った。
この人も、ずっとひとりだったのかもしれない。
あるいは、いま始まったばかりなのかもしれない。
どちらでもよかった。
“赤”の隣の、まだ名前のない色が、わずかに揺れた。
それは音を持っているように見えた。
聞こえないほど低く、けれど確かに鳴っている。
私はその音に耳を澄ませる。
街のざわめきの奥で、何かが始まっている。
世界には、色がなかったのではない。
色が現れるには、誰かが最初に逸脱しなければならなかったのだ。
そして今、どこかで、またひとり。
立ち止まる人間が、生まれている。
 

#創作大賞2026
#ファンタジー小説部門


あらすじ

世界には、色がなかった。
白と黒、そのあいだの無数の灰色だけで構成された世界で、主人公は何の疑いもなく日常を生きていた。だがある日、道端でそれまで存在しなかったはずの“何か”を発見する。それは濃淡では説明できない異質な存在であり、主人公は直感的にその現象に「赤」という名を与える。だが周囲の人間にはそれが見えず、存在すら認識されていなかった。

翌日以降、“赤”は別の場所にも現れ始める。触れることのできる曖昧な感触と、「ここにあってはいけない」という確信。主人公はそれを記録し、他者に説明しようとするが、言葉は通じず、やがて孤立していく。やがて“赤”は増殖し、線となり、街の至るところへと広がっていく。

さらに主人公は、“青”“黄”といった新たな「色」を知覚するようになる。それらは単なる視覚情報ではなく、感情や記憶、あるいは世界の深層に蓄積された何かのように振る舞い、人や物、空間にまで滲み出していく。色は外部から侵入しているのか、それとも内側から顕在化しているのか——その境界は次第に崩れていく。

やがて主人公自身の身体にも色は現れ、現実認識そのものが揺らぎ始める。人々は依然として気づかないまま日常を続けているが、ごくわずかに「立ち止まる者」が現れ始める。

終盤、主人公は最初に“赤”を見た場所へ戻り、同じようにそれを認識する別の存在と出会う。そこで明らかになるのは、色は新たに生まれたのではなく、もともと世界に存在していた層であり、それを見るためには“逸脱”が必要だったという事実である。

色とは何か。現実とは何か。
名づけることによって世界を確定させてしまう人間の認識そのものを問いながら、本作は「見えないものを見ること」の代償と、その先にある新たな知覚の誕生を描く。

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