無口な商売人の父が教えてくれたこと
父は、商売人だった。
小さな店を営みながら、毎日、早朝から夜遅くまで働いていた。
子どもの頃の僕にとって、父はいつも忙しい人だった。
家にいても、どこか遠い存在だった。
口数が少なく、必要以上に話した記憶も、ほとんどない。
「勉強しろ」と言われたことも、一度もなかった。
当時は、それを放任だと感じていた。
けれど今なら、わかる気がする。
あれは、言葉ではなく、信頼で育てようとした人だったのだと。
通知表をもらってきた。
成績はぱっとしない。
母が少し眉をひそめている横で、
父は何も言わずにチラッとだけ見て、小さく笑った。
小学生の頃、僕はいろいろと悪戯をした。
友だちとふざけて物を壊したり、万引きをしてしまったこともある。
母には叱られた。
けれど、父は何も言わなかった。
ただ黙って、僕を見つめた。
そして、また店の帳簿に目を戻した。
怒鳴られなかったことが、逆に怖かった。
その沈黙の奥にあったのは、きっと信頼と落胆の両方だった。
子ども心にも、それが伝わっていた。
「何も言わない」というのは、ただの無関心じゃなかった。
お前を信じているから、自分で気づけ
あの視線は、そう言っていたのだと思う。
帳簿を付ける振りをして、少し僕を見た気がした。
高校生になる頃には、家業の忙しさもあって、会話はさらに減った。
夕飯もバラバラで、顔を合わせても「おう」とか「元気か」くらい。
それが父なりの、不器用な優しさだったのだと、今では思う。
夜遅く帰宅した僕の好きなものが、
テーブルにそっと置かれていた。
「これ、うまかったぞ」
父の字だった。
やがて僕も家庭を持ち、
父が体調を崩したと聞いたのは、長男が生まれる少し前だった。
商売を続けながらも、弱音を吐かない父の姿を見て、
「まだ大丈夫だろう」と勝手に思っていた。
けれど、長男が生まれて一週間後。
一本の電話で、その知らせが届いた。
「お父さんが……亡くなった」
言葉が、すぐには意味を結ばなかった。
実家に戻り、父の顔を見ても、まだ信じられなかった。
でも、そっと頬に触れた瞬間、
その冷たさが、現実を教えてくれた。
あぁ、本当にもう、いないのだと。
手のひらから温もりが消え、止めどもなく涙が溢れてきた。
あとで母から聞いた。
父は孫が男の子だと知って、ほんの少し笑ったのだという。
「これで安心した」
そう言って、静かに息を引き取ったらしい。
まるで、家に新しい男の子が生まれるのを見届けてから旅立ったようだった。
命のバトンを渡して、そっと灯りを残していったように思う。
あのとき、父が本当に僕に何を伝えたかったのか。
今でも、はっきりとはわからない。
けれど、ただひとつ確信していることがある。
父は、最後まで、後ろ姿で教えてくれたということだ。
生きるとは、仕事で信頼を積み上げること。
家族を思うとは、言葉ではなく、行動で示すこと
父はそれを、口ではなく、背中で。
そして、働く姿で。
時間をかけて、静かに伝えてくれていたのだと思う。
父は必ず、商品を渡す前に手を拭き、伝票の端を揃えて相手に向ける。
今、僕も父と同じように、家族を支え、働きながら生きている。
そこそこ、サラリーマンとしては充実しているのかもしれない。
でも、これからはもっと、自分のやりたいことを形にしていきたい。
子どもたちに見せたいのは、立派な父親の背中じゃない。
挑戦する姿だ。
不器用でも、自分らしく、迷いながらも歩いていく姿。
それこそが、父から受け取った無言のメッセージへの答えなのだと思う。
だから、私は、完璧ではなく誠実に生きることに決めた。
言葉では伝えきれない想いが、
確かに胸の奥で息づいている。
それはきっと、商売人として生き抜いた父の魂。
「働くとは、人を想うこと」
その教えを、今も僕は追いかけている。
あなたが言葉にしなかった想い。
ちゃんと、僕の中で生き続けています。
そして今度は、僕が。
後ろ姿で、子どもたちに伝えていく番だ。
少し前、息子(高2)を駅まで車で送迎した。
基本的には自転車で通学しているので、
私が送ることはほとんどない。
その日は出勤時間とも重なり、駅まで送った。
車内での会話はゼロ。
何もしゃべることもなく駅に到着。
降りる際に一言、「ありがとう」。
それだけ言って改札口に向かった。
特に会話もなく過ぎたけれど、
きちんと感謝はしているのだと思うと、
思わずうれしくなった。
よく考えると、何かしてもらった時には必ず「ありがとう」と言っている。
妙に感心して、またうれしくなった。
まっとうに成長しているなと、心の中でつぶやいた。
父がいなくなっても、父の生き方は、僕の中で動き続けている。
あの日、言葉の代わりに見せてくれた後ろ姿。
それが、僕の人生の道標になっている。
これから、どのように生きていこうか。
父は、完璧な人ではなかった。
けれど、誠実だった。
自分にできることを淡々と続け、
弱音を吐かず、約束を破らず、
誰かのために働き続ける人だった。
その姿が、今も僕の中で、静かに灯っている。
僕もまた、立派な父親ではなく、誠実な人でありたい。
間違えることも、迷うこともある。
けれど、そのたびに立ち止まり、考え、もう一度歩き出す。
そんな生き方を、子どもたちに見せていきたい。
そしてこれからは、
父が沈黙で伝えてくれた想いを、
僕は自分の言葉でつなぎ、伝えていく。
働く姿。
迷う姿。
挑戦する姿。
それら全部が、父の続きを生きている証になる。
父が灯してくれた小さな火を、
今度は僕が、誰かの心にそっと灯す番だ。
それがきっと、
父から受け取った最後のメッセージへの、
僕なりの答えだ。
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