令和6年能登半島地震 被災体験レポート:【後編】運命の出会いと奇蹟の帰還
令和6年1月3日
満身創痍の再出発
7時30分起床。
この日は、七尾市の田鶴浜地区にあるコミュニティセンターを目標にすることを前日に決めていました。
道のりは24㎞、徒歩約5時間半。

前日が千枚田から通算すると32㎞、7時間半を踏破していることを考えれば容易いように思えますが、蓄積した疲労や脚のダメージを考えるとそう単純ではありません。
何しろ、七尾まで辿り着いたとして、その次の日に氷見まで行き着くためには30㎞、7時間を要する計算となっているのです。可能な限り歩を進めたいところです。
もう一泊穴水に滞在するという選択肢は、微塵もありませんでした。
当然、1日2日で状況が改善するわけもなく、むしろ身体を動かさないほうが身体に良くないという思いもありました。
絶体絶命
七尾に向けて歩を進めましたが、程なくして雨が降ってきました。
しかも、輪島と比較して車の交通量が段違いに多い。
10倍20倍・・いや大げさじゃなく100倍?
そもそも輪島は道路が寸断されていて、車自体あまり見かけませんでしたから。
しかも、この日のルート国道249号は県道1号と違い、歩道がなく外側は腰高程度の低い壁と、その先は海。

すぐ側を車が通過し、水しぶきも全身に浴びるのを避けようもない。
そもそも徒歩で移動してる人間なんて自分達以外には存在しない。
これは・・轢かれるんじゃないか?
___詰んだ!
という空気が我々を襲った瞬間にそれはやってきました。
路肩にハザードを焚いて停車する一台の車。『LAND CRUISER PRADO』という印字。

路肩の奇蹟
ウィンドウが開いて、運転席に座ったナイスミドルが話しかけてきます。
「どこまで行きたいの?え?七尾?氷見?なんなら高岡?・・・いや、金沢でよかったら乗っけてってあげるよ」
いい意味で耳を疑う我ら避難民一行。
金沢から新幹線が動いているという情報は得ていたものの、輪島から金沢までの距離は100㎞超のため選択肢から外れていました。
私の拙い語彙力では表現が見当たりませんが、地獄に仏、闇夜の灯火、干天の慈雨。神!などというのは、もはや失礼に値します。

アラフィフ4人がヒッチハイクなんて、しかもこんな状況では無理だろう。
自分が乗せる立場でも嫌だ。怖いわ。
なんて話を道中もしており、個人的に言えば、歩行不能になった人間からひとりずつヒッチハイクで乗せてもらって、どこかで落ち合う手かなあ(無理筋なのは言わずもがな)。
なんてなんとなく思考を巡らせていたところで、救いの手は差し伸べられました。
有志の勇姿
聞くところによると、このランクルのドライバーさんは金沢に住んでおり、救助隊やボランティアではなく、個人として友人のために輪島まで物資を届けてきた帰り道だとのこと。
資材は全部下ろしてきたし、ただ帰るだけなので声をかけた。まさかとは思いつつ、駅から逆方向に歩いてるから、徒歩で別の街に向かっているんじゃないかと思った。他に歩いてる人間なんて全くいなかった。
といったことを教えてくれました。
金沢への道中、明らかに徒歩では危険極まりない箇所を幾度も通過。
土砂崩れを車1台やっと通れるくらい、最低限切り拓いた道もありました。
こんな場所を徒歩で通過したらずぶ濡れじゃ済まないだろうな。
轢かれないか気が気じゃないだろうな。
寒いだろうな。
いまごろ脚痛いだろうな。
休憩できる場所もないじゃないか。
色々なことを考えずにはいられません。
境界線は唐突に
羽咋市(はくいし)というところにある、柳田インターチェンジから高速道路も乗れるということで、そこから金沢まではだいぶ被害も無くなってきていました。
歩いたら何日かかるか想像もできない距離を、ランクルは2時間かそこらで走破してしまいました。
金沢の街は同じ石川県とは思えないくらい、正常に街は機能していました。
非日常から日常への変化があまりに速く、なかなか理解が追いつきません。元日から考えればなおさらです。
複雑な、酒の味
ドライバーさんとは金沢駅でお別れしました。
名刺でも貰って、後日東京から感謝の贈り物をすればよかったな、と今にして思います。
被災したのが月曜日でしたので、今週中には帰れるだろうか。と思案していたことから考えれば、三が日のうちに帰れるとは思ってもみませんでした。
金沢駅にて昼食を取りつつ、新幹線で帰ることになったため、お酒も飲めました。

いまでも避難所で辛い思いをしている人や、未だ救助を待っている人などのことを考えると、素直に喜んでいいのだろうか、と考えることもありました。
が、単なるイチ観光客である身としては、能登の人たちにしてあげられることも、また少ないと言えます。
ささやかな募金を行なったり、復興の暁にはまた観光客として訪れることも、せめてもの貢献になるのでしょうか。
まずは現地に残してきたマイカー(民家や施設、復興の妨げにならないよう、置いてくる場所は慎重に選びました)を道路状況が改善次第、早急に回収しに行くことは必須ではあります。
運命を繋いだ、薄氷の選択
新幹線に乗車してからは3時間。
宿で飲む予定だった日本酒をあけながら、いろいろなことに思いを馳せながら帰路に着きました。
何かひとつでも選択を誤ったら、この状況にはなかっただろうな。
そもそも、和倉温泉で足湯に立ち寄らなければ(いってしまえば、「湯っ足りパーク」の看板が目にとまらなければ)、そこでの温泉も入らず、結果的に能登半島の最北端に到着していたはずです。
そこでもし被災していたなら、完全に脱出不可能でした。
仮に同じように歩く決断をしていても、その労力は想像だにできなかったでしょう。
今回無事に帰還できたのも、選択が迅速かつ適切だったこともありますが、完全に運が良かっただけという事実も否定してはなりません。
”人事を尽くして天命を待つ”
そういえば、私の座右の銘だったな。今回ほど身に染みたのは初めてですけれど。
完
あとがき
学生の時分より、文章を書くのが好きで日常における体験談(主にトラブル)や旅行記を手記というか小説風にしたためることを、ちょっとした趣味にしてきました。中でも大学時代のアルバイトの体験談は(未完ではありますが)、わりと友人から好評をいただきました。
今回の出来事は自分の人生においてもおそらく最大級の体験となったように思いましたので、文章にしたためた次第であります。もちろん好きなだけで文章の書き方も素人そのものですが、実体験に基づいた(多少の脚色はありますが…)ものでありリアリティはそれなりにあるのではないかと、勝手ながら自負しております。
最後になりますが、
旅先で親切にしていただいた能登の皆さん、
おにぎりを握ってくれたお母さん、
避難誘導していただいた店員さん、
道路の状況をつぶさに教えてくれた地元の方々、
道中一緒に歩いてくれた横浜の家族の皆さん、
避難所の皆さん、
毛布を分けてくれたおばあさん、
ランクルのドライバーさん、
そして私の拙い文章を最後まで読んでくれた方に感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました。
