【短編小説】 『Holy Island』 -前編-
1 島へ
この辺りでは、11月下旬の潮風は冷たい。
船の上で風を受けていると耳が痛み、
鼻腔がひどく冷たくなるのを感じる。
潮の香りがツンと鼻をつくが、
サンオイルやBBQの匂いが混ざり合う
甘い真夏のそれとはまったく違う。
右手の島を通り過ぎると、
荒れた深く青い海がただただ続く。
その濃紺の海を船は波飛沫を上げて進む。
五十分ほど船に揺られると、
目的地の島が見えてきた。
見渡す限りの海原に、
陸地はその島しか存在しない。
絶海の孤島へと向かうような感覚になる。
船先に立って、
真っ直ぐにその島を見つめた。
比較対象物がないので、
近づいているようにも、
遠ざかっているようにも、
変わっていないようにも感じる。

船は速度を落として入江に入り、
船着場へと船体を寄せていく。
目の前には天高く切り立つ断崖が、
よそ者を拒むように荒々しく聳えていた。

しばしその力強い断崖に見惚れていると、
僕と交代で本土へ戻る
禰宜の吉岡が笑顔で迎えてくれた。
それから吉岡は丁寧に、
海水での禊の作法を教えてくれる。
白衣を脱ぎ、身一つで海中にて禊を行う。
寄せる波は時に顎先まで浸す。
11月の海水はとても冷たく感じる。
奥歯を噛みしめながら禊を行う。
浜へ上がると、
濡れた身体を撫でる夕方の潮風が冷たく、
全身に鳥肌が立つ。
タオルで海水を拭き取り、再び白衣に身を包む。
吉岡の後について一礼し、
第一の鳥居をくぐる。
そして先ほど見上げた断崖に作られた
険しい石段を登る。

石段は400段ある。
断崖を上り切ると、大海原が広がっていた。
その先に第二の鳥居がある。
そしてここからさらに上りの参道が続く。
木漏れ日の中、
葉のざわめきと鳥の声、
そして遠くに波音が聞こえる。
禊で冷えた身体から、
じんわりと汗が滲んできた。
途中、何度か息が切れた。
吉岡が振り返りながら言う。
「最初はキツイでしょ?」
僕は肩で息をしながら、
どうにか笑顔を作って頷いた。
「慣れますよ。二、三日で」
そう微笑んで、また上っていく。
吉岡は八つも年下だが、
五年間、幾度もこの石段を
上ってきたのだと改めて感心した。
照葉樹の森を進むにつれ、
波音は遠くなり、風も弱くなる。
わずかに聞こえる葉のそよぎも、
吉岡と自分の足音も、
森に吸い込まれていくようだった。

第三の鳥居をくぐると、
道は緩やかに下り始める。
わずかに耳の鼓膜が気圧の変化を感じ取る。
それはまるで、真空へと立ち入るようだ。
その静かなそよぎは厳かでありながら、
この身を吸い寄せるような寛容さを伴っている。
船着場から見上げた、
あの突き放すような荒々しさは消え、
この盆地に漂う空気は
包み込むような優しさを帯びていた。
その盆地の底。
巨石に寄り添うように、
社殿がひっそりと佇んでいる。

寄り添うというよりも、
まるで岩の一部のように、
社殿の屋根と巨石は
一体化しているように見えた。
吉岡は社殿の中を
一通り説明してくれた。
明日の朝から、
十日間、たった一人で神と向き合い、
祝詞を奏上する。
静かに身が引き締まる思いがした。
来た道を吉岡の後ろから下る。
森を抜けかけた時、
木々のざわめきが増し、
波音がはっきりと聞こえてくる。
森を抜けると、
海が前方に広がり、
岸壁を吹き上がる風を受ける。
大袈裟なことを言えば、
この世に戻ったような気がした。
それくらい、
社殿のある森の中には、
この世のものではない空気があった。
険しい石段の下、
入江に船着場が見えてきた。
海上タクシーが
吉岡を本土へ連れ帰るために停泊している。
吉岡を見送り、社務所へ戻る。
夕暮れ時の入江には、
波の音と海鳥の声が舞っていた。
執務机に着き、抽斗を開ける。
カバンから携帯電話を取り出し、
中にしまった。
これから十日間。
一人でこの島を守る。
御祭神は女神。
そしてこの島そのものが
御神体とされている。
四~九世紀に行われた祭祀の跡が
遺跡として数多く残るこの島は、
世界文化遺産にも登録されている。
本宮の神職と、許可を受けた者だけが
立ち入ることを許されている。
神職は十日交代で寝泊まりする。
今回、初めてその務めが回ってきたのだ。
もしかしたらこの職務の中で、
ほんの少しでも神と会話ができるかもしれない。
そんな柄にもないことを思っていた。
だから携帯を抽斗にしまった。
神と自分との間に、
邪魔なもののように感じたのだ。

しばらく海の向こうへ沈んでいく夕陽を見つめた。
雑念のように、
35年の人生で起きた出来事が
次々と浮かんでは消えていく。
良かったこと。嫌だったこと。
なぜ今それがよぎるのか。
心の奥がざわついている。
そのざわめきを振り払うように、
社務所に戻り、晩飯の支度をした。
この島では、
四つ足の動物の肉を食べることは禁止されている。
昆布と煮干しで出汁を取り、
野菜を煮込み、白身魚と味噌を加えた。
締めの雑炊は我ながら上出来だった。
食器を洗っていると、
窓の外には満天の星空が広がっていた。
焼酎のボトルが何本か置いてあると、
吉岡が言っていたことを思い出す。
食器を洗い終え、
ダウンジャケットを着込む。
保温用の水筒に湯を満たし、
それを肩に掛け、
焼酎と湯飲みを持って船着場へ出た。

満天の星空という言葉が、
そのまま当てはまる夜だった。
船着場にあぐらをかき、
星空を肴に芋焼酎のお湯割りを飲む。
しばらく見ていると、
その美しさはやがて恐怖に変わる。
星の数が尋常ではない。
この圧倒的な星の多さと宇宙の広さは、
人間のちっぽけさと
人生の儚さを静かに突きつけてくる。
だがそれは、
恐れ慄くようなものではない。
ただ淡々とそこにある。
書道家が一気に筆を走らせ、
書き終えたあとに吐く一息のような、
厳かで、過剰なもののない静けさ。
だから僕も、
ただ淡々と芋のお湯割りを飲んだ。
やがて焼酎が進むにつれ、
音楽が聴きたくなった。
神と繋がろうなどという
崇高な思いは、
すぐに挫けてしまう。
水筒を手に社務所へ戻る。
湯を沸かしている間に、
携帯を取り出した。
プレーリストを眺めながら、
この星空と焼酎に合う音楽を探す。
再び船着場へ戻り、
芋のお湯割りを飲みながら
藤井風を聴いた。
宇宙を感じた(笑)。
もちろん手元の携帯でメールを
チェックするようなことはなかった。
最後は風に吹かれながら、
船着場に仰向けに寝転び、
空を見上げた。
そして島での最初の夜、
僕は泥のような眠りについた。
2 島の胎内
二日目の朝。
夢と現実の狭間と言えばいいのか、
半覚醒状態とでもいうのか、
ふわふわとした不思議な目覚めだった。
決して心地の悪いものではない。
だが、これまでに経験したことのない感覚だった。
そんな立体的でリアルな夢の余韻を胸に、
カーテンを開け、窓を開け放つ。
朝日が眩しく、力強い。
夢の余韻。
どうやら高揚しているようだ。
あくまでも余韻としては、だ。
なにせ夢の内容はまったく思い出せない。
ただ、"思い出せない"のとは少し違う。
確かに見たという感覚は、
記憶以上に立体的に残っているのだ。
しかしその内容は、
あたかもそこにあるにも関わらず、
黒塗りにされたように
思い出すことができない。
顔を洗い、歯を磨く。
白衣を抱えて外へ出る。
砂浜で服をすべて脱ぎ、
冷たい海水に身を浸す。
禊を終え、
白衣を着て鳥居の前で頭を下げる。
そして社殿へと続く長く険しい石段を上る。
夢のことを考えながら、
淡々と石段を上っていく。
第三の鳥居付近。
やはり空気が変わる。
拒絶するものではない。
かといって手を差し伸べているわけでもない。
うまく言えないが、
寛容な何かを感じさせるのだ。
午後は、笙を吹いた。
大学の雅楽部に所属していた頃は
毎日のように練習していたが、
もう十年以上触れてもいなかった。
ひと月前に本宮に就職し、
再び練習を始めた。
夜は少し雲があったが、
この夜も朧月夜を肴に焼酎を飲んだ。
レディオヘッドを聴きながら。
そしてまた深い眠りの底で、
黒塗りの夢の中を彷徨った。
翌朝、カーテンを開け、
雲間から差す弱い朝の光を浴びる。
禊を済ませ、
社殿へと続く参道を上る。
照葉樹に囲まれた石段を上っていると、
懐かしいような、
それでいて時間の感覚が消えるような、
奇妙な状態に陥る。
身体全体でその感覚を受け止め、
無心になれる。
うまく言えないが、
まるで水の中にいるように、
音がこもり、遠くなる。
そこに、わずかな浮遊感が伴う。
しかし帰り道では、
鳥の囀りや葉のざわめきが
そこらじゅうで聞こえてくる。
朝露を帯びた土や木々の匂いも、
木漏れ日の瞬きも、
確かにそこにある。
最も顕著にその感覚を感じる場所がある。
それはやはり社殿のある、
わずかに下りになった盆地。
すり鉢のようなその場所で足を止めると、
本当にぬるい水の中で
浮遊しているような感覚になる。
何度も言うようだが、
それは決して不気味なものではない。
むしろどちらかと言えば、
安らぎを伴った心地よさだった。
暖かな水の中のような盆地。
細くて、起伏激しく曲がりくねる道。
湿った土。
光る葉。
木漏れ日。
苔むした石段。
息は上がっていない。
だが、呼吸がどこか深い。
脳やら意識やら感覚に
供給するための酸素を欲している。
石段の途中で足を止め、
照葉樹の葉の隙間にある青空を見上げる。
木漏れ日を目で追い、
視線をゆっくりと地面に落とすと、
若いシダが生えていた。

巻かれた葉。
まだ開ききらない緑の螺旋。
濡れている。
朝露がその渦の中で微かに光っている。
指を伸ばしかけて、やめる。
触れてはいけない気がした。
ただ、見ていた。
やがて開いていくであろうその形を、
想像しながら。
永遠の一瞬とでも言うべき、
凝縮された何かが、
この世界の至るところにあるのかもしれない。
そんなことを思った。
シダの螺旋に見惚れているうちに、
自分の中にある、
目には見えないDNAの
二重螺旋を思い浮かべた。
この宇宙を支配する、
黄金比の点を結んだ螺旋構造。
ふと、気配を感じて振り返る。
一羽のカラスがいた。
羽音はしなかった。
いつからそこにいたのか分からない。
しかも、普通のカラスよりも一回り大きい。
どこかで見たことがある。
大学時代、
アメリカをバックパック一つで旅した時、
アラスカのジュノーで見た。
ワタリガラスだ。
しかしワタリガラスは、
北海道より北に生息しているはずだ。
迷い鳥なのか。
真っ直ぐにこちらを見ている。

その視線は、
警戒でも威嚇でもない。
測っているようにも見える。
しばらくして、
カラスはわずかに首を傾けた。
次の瞬間、
静かに羽ばたき、
森の奥へと姿を消した。
あの一羽は、
確かにそこにいたのか?
最初から、
いなかったような気もしてくる。
これが、この島での三日間の出来事だ。
夕方から雨が降り出した。
今、僕は執務机に座り、
島に来てからの記憶を辿りながら、
和紙に墨をおとし日誌を記している。
時折、風に煽られ、
窓を雨が打ちつける。
明日も、おそらく雨は止まないだろう。
びしょ濡れになって
石段を上る自分を想像する。
足を滑らせたら大変だ。
そんなことを考えながら、
寝支度をした。
この日見た夢には、黒塗りはなかった。
とても不思議な夢だった。
夢の中に僕はいる。
だがその僕を、もう一人の僕が見ている。
まるで、
映画の中の自分を、
少し離れた場所から眺めているようだった。
前編 終わり
本作品はフィクションです。
作中の人物、設定、出来事はすべて創作であり、実在の団体・人物とは関係ありません。
なお、表現上の雰囲気やイメージは特定の実在の存在を意図したものではありません。
