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運が平等な訳がない。


「運を捨てなさい」

それが、父の口癖だった。
食卓でテレビの星占いを見ているときも、正月のおみくじで凶を引いて肩を落としたときも、父は決まって静かに、しかし有無を言わせぬ響きでそう言った。
幼い私にとって、その言葉はただの不可解な呪文に過ぎなかった。
だって、この世界はどう見ても「運」という目に見えない巨大な歯車で回っているではないか。隣の席に誰が座るかも、突然の夕立に降られるかも、すべては神様の気まぐれだ。
それなのに「運を捨てる」とは、雨に向かって降るなと命じるようなものではないか。
私がその「運」というものの絶対的な力を確信したのは、小学五年生の夏祭りの夜だった。

神社の境内は、湿気を帯びた熱気と、焼きそばの焦げる匂いでむせ返るようだった。小遣いを握りしめた私は、境内の隅にあった古びたくじ引きの屋台の前に立っていた。一回三百円。景品の棚の最上段には、当時誰もが喉から手が出るほど欲しがっていた最新の携帯ゲーム機が、神々しい光を放って鎮座していた。
「ぼうず、引いてみるかい」

ダミ声の屋台の親父に促され、私は中身の見えない四角い箱に手を入れた。ガサガサと音を立てる無数の紙片。私は何も考えず、ただ指先に触れた一枚を引っ張り出した。

『特賞』

開いた紙切れに赤いスタンプで押されたその二文字を見た瞬間、私の頭の中は真っ白になった。屋台の親父も「おっと」と間の抜けた声を上げた。周囲の子どもたちがどよめき、羨望の眼差しが私に突き刺さる。
ほら見ろ、と私は心の中で叫んだ。努力も、才能も関係ない。ただ私がその瞬間に箱へ手を入れ、その紙を引いた。たったそれだけの「運」が、この圧倒的な勝利をもたらしたのだ。
「さあ、どれでも好きなもんを持っていきな」
親父が棚を指差した。私の視線は当然、最上段のゲーム機へと向かった。手を伸ばせば、明日から学校で英雄になれる。
しかし、そのときだった。
ふと、数時間前の夕暮れ時の情景が脳裏をよぎったのだ。
工場での力仕事を終え、油と汗の匂いを染み込ませて帰ってきた父。パート先のスーパーで一日中立ち仕事をし、足を引きずるようにして夕飯の支度をしていた母。二人の丸まった背中と、湿布の匂いが、なぜかこの華やかな祭りの喧騒の中で鮮明に蘇ってきた。
私の指先は、ゲーム機の手前でピタリと止まった。
そして、その一つ下の段に置かれていた、黒くて無骨な箱を指差していた。
「……あれがいい」
私が指差したのは、特賞の景品ラインナップの中で最も不人気であろう、肩掛け式の電動マッサージ機だった。
屋台の親父は怪訝な顔をした。周りの子どもたちは「あいつ馬鹿だ」と囁き合った。私自身、なぜそんな選択をしたのか完全には理解していなかった。ただ、ゲーム機を手に入れて一人で歓喜する自分よりも、その無骨な機械を首に当てて「こりゃあ極楽だ」と笑う両親の顔の方が、その瞬間の私にとっては価値があるように思えたのだ。
家に帰り、それを受け取った両親はひどく驚き、そして、少しだけ泣いた。
「お前が当てたんだから、お前が好きなものをもらえばよかったのに」と母は言いながらも、その日からマッサージ機は居間の特等席に置かれることになった。
当時の私は、この一連の出来事をただ「運が良かった出来事」として記憶の箱に仕舞い込んだ。
特賞を引いたのは完全なる偶然であり、マッサージ機を選んだのはちょっとした気まぐれ。自分の人生には時折、こうしたボーナスのような幸運が空から降ってくるのだと信じて疑わなかった。
あの日、箱の中から特賞を引き当てたのは確かに「運」だったかもしれない。
しかし、その特賞の権利を行使し、「両親のためにマッサージ機を選ぶ」という決断を下したのは、他でもない私自身の『選択』であった。
その小さな選択の波紋が、長い年月をかけて両親の背中を支え続け、巡り巡って、どれほど深く私の人生という土壌を豊かにしていくことになるのか。そしてそれが、のちに私が知ることになる「手繰り寄せる運」の正体であるということに、十一歳の私が気づく術はなかった。
私は依然として、人生を「運がいいか、悪いか」だけで測り続けていた。
次に訪れる、どうしようもないほどの『不運』の足音が、すぐ背後にまで迫っていることも知らずに。

そして、中学生となった。
中学という場所は、小学校までの牧歌的な世界とは一線を画していた。
そこには、目に見えない厳然たる階級社会があり、生徒たちは自分の立ち位置を確保するために、無意識のうちに他者の顔色を窺い合う。
その教室という名の密室において、私が手に入れたのは、最悪の『配牌』だった。
きっかけは、今思い出しても失笑してしまうほど些細なことだ。入学して間もない五月の昼休み、廊下で一人の男性と肩が当たった。ただそれだけだ。相手は、この地域でも札付きで知られた不良グループのリーダー格、佐藤という男だった。
「おい、謝れよ」
低い声が、私の耳朶を打った。
私はすぐに謝罪した。しかし、一度火がついた彼の嗜虐心を消すには、私の言葉はあまりにも無力だった。
翌日から、私の机には油性マジックで卑猥な落書きが躍り、上履きはゴミ箱の中に捨てられた。教科書が破かれ、休み時間のたびに執拗な小突かれを繰り返される。
それは、昨日まで平穏に生きていたはずの私の日常が、一枚のカードをめくるようにして、瞬時に「地獄」へと裏返った瞬間だった。

「なぜ、私なんだ?」

放課後の無人の教室で、汚れた机を拭きながら、私は何度も自問した。
いじめに正当な理由などない。私より気が弱い奴もいれば、私より目立つ奴もいた。しかし、佐藤の標的に選ばれたのは、たまたまその時間にその廊下を歩いていた私だった。
これは、確率の悪戯だ。
空から降ってきた隕石に直撃するような、避けようのない純粋な「不運」。
そう結論づけることでしか、私は自分の心を保つことができなかった。自分の行動に非があったと考えるのは、あまりにも救いがなかったからだ。
一方で、教室の「陽」の当たる場所に座っている連中がいた。
運動神経に恵まれ、教師からも好かれ、女子生徒たちの視線を一身に浴びる野球部のエース。彼はいつも自信に満ちた笑みを浮かべ、世界は自分を中心に回っていると確信しているようだった。
彼を見ていると、激しい怒りと共に、深い諦念が湧き上がってきた。

運が平等なわけがない。

彼には『最強の手札』が配られ、私には『カス札』ばかりが配られた。
人生というゲームは、配られた手札の強さですべてが決まる。どれだけ思考し、どれだけ足掻いたところで、最初から勝敗が決している勝負に挑むほど馬鹿げたことはない。
父の「運を捨てなさい」という言葉は、この時期、私の心の中で最も忌むべき欺瞞へと変わっていた。
「運を捨てる? 笑わせるな。運こそがすべてじゃないか」
ゴミ箱に捨てられた上履きを拾い上げるとき、私は泥にまみれた右拳を強く握りしめた。
そんな泥沼のような日々の中でも、唯一の救いがあった。
図書室の片隅で、誰とも会話をせずに本を読み耽る時間だ。そこで私は、統計学や確率論の入門書、あるいは古今東西の博打打ちたちの伝記を読み漁った。
せめて、自分を苦しめているこの「運」という魔物の正体を知りたかった。
不運には、終わりがないように思えた。
佐藤からの嫌がらせは日を追うごとにエスカレートし、私は次第に学校へ足が向かなくなっていく。
「神様、もしいるのなら、一度だけでいい。私に『幸運』という名の奇跡を配ってくれ」
しかし、奇跡は起きなかった。
佐藤は相変わらず教室の王として君臨し、私は透明人間のように気配を消して生きる日々。
結局、中学生活の最後の日まで、私はこの配られた不運を覆すことができなかった。
卒業式の日。
校門を出る私の背中に、佐藤が嘲笑混じりの声を投げかけた。
「おい、次会うときまでせいぜい楽しめよな」
私は振り返らず、ただ前だけを見て歩き続けた。
心の中に、冷たく、固い不信感だけを抱えて。
人生は運だ。運がすべてだ。私はこれからも、この理不尽な確率のうねりの中で、ただ翻弄され、削り取られていくのだろう。
この時の私は、まだ知らなかった。
今日、私を嘲笑ったあの男の未来が、のちに私の目の前でどのような形となって現れるのかを。
そして、この屈辱に満ちた中学時代という「試行回数」が、私の人生における重要なデータの一部となることを。
私はただ、逃げるように高校、そして大学へと進んでいった。
「運」という名の冷酷な神が支配する、次のステージへと。

中学の頃のような露骨ないじめはなくなったけれど、僕の心に深く刻まれた「自分は運が悪い」という呪いは、消えるどころかますます強くなっていた。
そして、その呪いが決定的な絶望に変わったのが、大学三年の冬に始まった就職活動だった。
「この中から、一人の合格者が決まるんだな」
ある大手企業の一次選考。僕は六人一組のグループディスカッションの席についていた。
隣を見れば、有名私立大学のバッジをつけた自信満々の学生。向かいには、いかにも「帰国子女です」というオーラを纏った華やかな女子学生。
僕は、配布された資料を握りしめながら、またあの感覚に陥っていた。
「ああ、今日もハズレの組を引いたな」
議論が始まって一秒後のことだった。
斜め向かいに座っていた、短髪で清潔感のある男が口を開いた。
「今日の進行、僕がやらせてもらってもいいですか?」
その声は驚くほど通った。威圧感はないけれど、誰もが「はい」と言わざるを得ないような、不思議な説得力。彼は淀みなく議論を整理し、行き詰まった時には「君はどう思う?」と僕にも話を振ってくれた。
彼は完璧だった。
頭の回転、表情、立ち振る舞い。そのすべてが、僕のような「モブキャラ」とは根本から違う気がした。
結局、議論は彼の独壇場で終わった。僕も少しは発言したけれど、彼が作り上げた綺麗な流れに、ただ乗せられただけだった。
案の定、数日後に届いたメールは、冷たい不採用の通知だった。
「あんなにすごい奴と同じグループになるなんて、本当に運が悪い。最初から勝負は決まっていたんだ」
僕は、また不運のせいにして逃げた。
それからというもの、僕は数社の面接を受けたけれど、どこに行っても「自分より優秀で、運に恵まれた誰か」がいた。
「どうせ僕みたいな、ハズレのカードしか持っていない人間は、どこにも選ばれないんだ」
自暴自棄になった僕は、リクルートスーツをクローゼットに放り込み、就活を放棄した。

そんな僕を救ってくれたのは、当時、バイト先で知り合って付き合い始めたばかりの彼女だった。
「ねえ、なんでそんなに自分のこと、ダメだなんて言うの?」
ワンルームの狭い部屋で、彼女は僕の顔を覗き込んで言った。
「だって、世の中は運なんだよ。あの日出会ったリーダーみたいな、最初から最強の札を持ってる奴には勝てないんだ」
僕が吐き捨てるように言うと、彼女は少しだけ困ったように笑った。
「私はそうは思わないな。あなたは、あなたが思っているよりずっと素敵な力を持ってるよ。私が保証するから、もう一回だけ、頑張ってみない?」
根拠なんてどこにもなかった。でも、彼女のその真っ直ぐな言葉が、冷え切っていた僕の心に、小さな火を灯した。
「彼女と出会えたのも、僕の人生で数少ない『幸運』だったのかもしれないな」
僕はもう一度、シワだらけになったスーツに袖を通した。
今度は「選ばれるかどうか」なんて考えないことにした。ただ、彼女が信じてくれた自分を裏切りたくない。その一心で、僕はいくつかの会社を受けた。
そして、なんとか一社の中堅商社から内定をもらった。
決して第一希望ではないし、有名な大企業でもない。でも、僕にとっては、ようやく手に入れた「居場所」だった。
「よかったね、本当によかった」
自分のことのように喜んで泣いてくれる彼女を見て、僕は思った。
「これも全部、彼女の幸運のおかげだ」
この時の僕は、まだ自分の力で何かを成し遂げたなんて、一ミリも思っていなかった。
そして、あの就活の日に出会った「完璧な彼」が、その後どんな人生を歩むことになるのか。
彼が持っていた「最強の手札」の本当の正体が何だったのか。
それを知る日は、もうすぐそこまで来ていた。

社会人になってからも、僕の「運」に対する考え方は変わらなかった。
会社という組織は、巨大なルーレットのようなものだと思っていた。配属先は「ガチャ」であり、上司に恵まれるかは「運次第」。同期が大きなプロジェクトに抜擢されれば「あいつは運がいい」と僻み、自分の企画が通れば「今日はツイてる」と喜んだ。
自分の力で人生を切り開いている感覚など、ただの一度も持ったことがなかった。
入社して三年が経ったある秋の日の午後。僕は応接室で、ある下請け企業の営業担当者を待っていた。再三の注意にもかかわらず納期の遅れが続き、いよいよ取引の停止を通達するための、気の重い面会だった。
「お待たせして、誠に申し訳ありません!」
ノックの音とともに、一人の男が慌てて飛び込んできた。ヨレヨレのスーツに、汗ばんだ額。ひどく焦った顔で深く頭を下げるその男を見た瞬間、僕は心臓が止まるかと思った。
見間違えるはずがなかった。
中学の三年間、僕を地獄のような日々に突き落としたあの暴君、佐藤だった。
僕は思わず息を呑んだが、向こうは僕の顔を見ても全く反応しなかった。名刺を交換しても、目の前に座っている発注元の担当者が、かつて自分がゴミのように扱った同級生だとは、欠片も気づいていないようだった。
「あの、今回の件は本当に私の管理不足でして……どうか、取引停止だけは考え直していただけないでしょうか!」
佐藤はテーブルに額がつくほど深く頭を下げた。
「いや、しかしですね。再発防止の具体的な策がないと、社内を通せません」
僕が淡々と事務的な声で返すと、佐藤の顔はさらに青ざめた。
「そこをなんとか! この契約を切られたら、私、本当に会社にいられなくなってしまうんです……お願いします、どうか、どうか助けてください!」
必死に懇願し、何度も何度も頭を下げる佐藤。
かつて教室の中心で王様のように振る舞い、「せいぜい楽しめよ」と僕を嘲笑った男の面影は、そこには微塵もなかった。ただ、日々のノルマと生活に追われ、余裕をなくした哀れな男が一人いるだけだった。
その惨めな姿を静かに見つめながら、僕の心の中に湧き上がってきたのは、復讐を果たしたような優越感ではなかった。もっと冷たくて、恐ろしいほどの「真理」だった。
佐藤が今、こんなに惨めな思いをして僕に頭を下げているのは、果たして「運が悪い」からだろうか?
いや、違う。
彼は中学時代、自分の力を誇示し、他人を傷つけることに時間を使った。きっとその後も、面倒なことから逃げ、努力を怠り、安易な選択ばかりを繰り返してきたのだろう。今の彼を作り上げているのは、誰のせいでもない。過去の彼自身が積み重ねてきた「質の低い行動と選択」の束なのだ。
それは決して「不運」などという曖昧なものではない。あまりにも残酷で、明確な「因果関係」だった。
その事実に気づいた瞬間、僕は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
もし、佐藤の今の惨状が、彼自身の行動の蓄積だとするならば。
今、彼から頭を下げられる側の椅子に座っている僕の現実は、どうなる?
僕がまともな会社に入り、こうして彼と対峙できているのは、本当に「運が良かったから」なのか? 彼女が幸運の女神だったからなのか?
違う。僕があの時、諦めずにシワだらけのスーツにアイロンをかけ、面接の席に向かって「足を動かしたから」ではないのか。
「……持ち帰って、上司と相談してみます」
僕がそう告げると、佐藤は「ありがとうございます!」と泣きそうな顔で何度も頭を下げ、応接室を出ていった。
一人残された部屋の中で、僕は自分の手のひらをじっと見つめた。
僕の中で何十年もかけて分厚く覆い被さっていた「運」という名の殻に、はっきりと亀裂が入る音がした。

佐藤との再会から数日後。
僕は、あの時の「因果」の正体についてまだ頭を悩ませながら、新橋のガード下にある大衆居酒屋で一人、ぬるいビールを飲んでいた。
金曜の夜だというのに、雨のせいか客の入りはまばらだった。
ふと、隣のテーブルからひどく荒んだ声が聞こえてきた。
「本当に最悪だよ。配属ガチャは大外れだし、直属の上司は何もわかってない無能だしさ。俺、なんでこんなに運が悪いんだろうな」
ヨレヨレのネクタイを引き結びながら、同僚らしき男を相手に管を巻いているスーツ姿の男。
その横顔を見た瞬間、僕は手に持っていたジョッキをテーブルに置きそうになった。
間違いない。
大学三年の冬、あのグループディスカッションの席で、場を完全に支配していた「彼」だった。
帰国子女も、有名大学の学生も、誰も太刀打ちできなかった圧倒的なカリスマ性と論理的思考。僕に「この世界は運と才能で決まっている」という絶望を叩きつけた、あの完璧な彼だ。
しかし今、目の前で安い焼酎を煽っている男からは、あの日の眩しいほどの光は完全に消え失せていた。ただ会社の愚痴をこぼし、自分の不遇を嘆く、どこにでもいる疲れたサラリーマンだった。
僕はたまらず、声をかけていた。
「あの……違っていたらすみません。数年前、○○会社の一次選考で一緒になりませんでしたか?」
男は怪訝な顔でこちらを見たが、数秒後、「あ……」と小さく声を漏らした。
成り行きで席をくっつけることになった。彼は僕がなんとか中堅商社に潜り込んだことを聞くと、「いいなぁ、俺の会社なんて」とまた愚痴を再開した。入社して数年、全く評価されず、今は完全に窓際のような部署に回されているらしい。
「でも、驚きました。あの時のあなたは本当にすごかった。最初から主導権を握って、自信満々で。僕はあなたを見て、最初から持っている手札が違うんだって、完全に打ちのめされたんですよ」
僕が過去の記憶を引っ張り出して素直にそう伝えると、彼は手元の枝豆を見つめたまま、自嘲気味に鼻で笑った。
「ああ、あれか。……あそこ、俺にとって七社目の面接だったんだよ」
「えっ……七社目?」
「そう。それまで六社連続で、一次選考で落ちてさ。最初の頃は君みたいに、周りの様子を見て黙って座ってたんだよ。でも、それじゃ絶対に誰の記憶にも残らないって、身をもって学んだんだ」
彼は残っていた焼酎を一気に飲み干して、自嘲するようにつぶやいた。
「だから、六回落とされた結果として、とにかく最初に口火を切って、無理やりにでも目立つしかないって、必死に『優秀なリーダー』を演じてただけだよ。手札なんて最初から持ってない。ボロボロになりながら、無理やりカードを掻き集めてたんだよ、あの時の俺は」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
僕が「運が悪かった」と片付けていたあの日の圧倒的な敗北。
彼が持っていた「運」や「才能」の正体は、六回もの痛烈な失敗と、そこから導き出された必死の試行錯誤の結果でしかなかったのだ。
そして今、彼はどうだ。
会社という組織に入ってから、彼はその「試行錯誤」を止めてしまった。自分の行動で状況を変えることを放棄し、「配属ガチャ」だの「上司の運が悪い」だのと、すべてを不運のせいにして腐っている。
僕は、佐藤の姿を見た時に感じたあの冷たい真理が、今度こそ完全に形を成すのを感じた。
今まで僕が「運」という言葉で覆い隠してきたものは何だったのか。
それは単なる、思考停止と行動からの逃避だった。
結果だけを切り取って「運が良かった」「運が悪かった」と呼ぶのは、自分の人生に対するあまりにも無責任な怠慢だ。

『運を捨てなさい』

親父のあの言葉が、何十年の時を超えて、雷のように僕の胸を貫いた。
親父は、神様を否定していたわけじゃない。
「運のせいにして、自分の足で歩くことを諦めるな」と言っていたのだ。
運などという不確かなものは、最初から存在しない。
あるのはただ、過去の自分が積み上げてきた行動と、思考の蓄積が導き出す「必然」だけだ。運を捨てたその先にしか、自分の人生の舵を握ることはできない。
僕は残っていたぬるいビールを飲み干し、立ち上がった。
「……そろそろ、お勘定にしましょうか」
店を出ると、雨はもう上がっていた。
新橋の街のネオンが、水たまりに反射してキラキラと光っている。
見慣れたはずの景色が、今日はなぜか、信じられないほど輪郭がはっきりして見えた。

新橋の夜から数ヶ月後。僕はまとまった休みを取り、数年ぶりに実家へと帰省した。
玄関の扉を開けると、昔から変わらない線香と、少しカビ臭い畳の匂いがした。出迎えてくれた両親は、僕の記憶の中よりもずっと白髪が増え、小さくなっていた。
「よく帰ってきたね。仕事は順調なの?」
母が淹れてくれた温かいお茶をすすりながら、僕は「まあ、なんとかやっているよ」と笑って答えた。
ふと、居間の隅に目をやると、見慣れた黒い物体が置かれていた。
小学五年生の夏祭り。僕が籤引きで特賞を引き当て、ゲーム機の代わりに選んだ、あの無骨な肩掛け式のマッサージ機だった。
ところどころ合皮が剥がれ、コードの根元には補強のためのビニールテープが巻かれている。どう見ても寿命はとっくに過ぎているのに、それは今でも現役の顔をしてそこに鎮座していた。
「……それ、まだ使ってたんだ」
僕が驚いて指を差すと、母は目を細めて笑った。
「当たり前じゃない。お父さんね、毎日仕事から帰ってくると、真っ先にそれを使ってるのよ。最近はモーターの調子が悪くて、叩くリズムも変なんだけどね。それでも『こいつが一番効くんだ』って言って、絶対に手放そうとしないの」
母は懐かしそうに、マッサージ機の表面を撫でた。
「あの頃、お父さん、本当に腰を悪くしててね。工場を辞めようかって、毎晩二人で深刻に話し合ってた時期だったのよ。でも、あんたが祭りでこれを当てて帰ってきた日、お父さん泣きながら言ってた。『息子が自分の運を全部使って俺のために当ててくれたんだ。ここで俺がへこたれるわけにはいかない』って」
その言葉を聞いた瞬間、僕の体の中で、カチリと何かが噛み合う音がした。
もしあの日、親父が仕事を辞めていたら。
我が家の家計は傾き、僕は東京の大学へ進学することなど絶対にできなかっただろう。
大学に行けなければ、あのバイト先で彼女と出会うこともなかった。
彼女に出会わなければ、就職活動で心が折れたあの日、再び立ち上がることはできなかった。
立ち上がらなければ、今の会社に入り、自分の足で人生を歩き始める今の僕はいなかった。
背筋が粟立った。
僕はこれまで、彼女に出会えたことも、今の会社に入れたことも、すべて「ただ運が良かったから」だと思っていた。上から降ってきた幸運を、たまたま拾い上げただけだと。
違ったのだ。
あの就活の日の幸運も、今の僕を形作っているすべての環境も、決して偶然の産物などではなかった。
十一歳の僕が、欲しかったゲーム機を我慢し、両親の背中を思い浮かべて「これにする」と指差した、あの日の『選択』。その小さな行動の波紋が、親父の背中を支え、家族を支え、何年もの歳月をかけて巡り巡り、僕自身を救い上げていたのだ。

「運」とは、神様が気まぐれに配るものではない。
日々の小さな選択、誰かを想う行動、諦めずに繰り返した試行錯誤。それらが無数に積み重なり、複雑に絡み合いながら、やがて目に見える結果として自分の元へ返ってくる現象のことなのだ。
僕らはそれを、都合よく「運」と呼んでいただけだった。
夕方、買い出しから帰ってきた親父と、縁側で並んで座った。
夕日が沈みかけ、遠くでヒグラシが鳴いている。
「親父」
「ん?」
「俺、ようやくわかったよ。親父がずっと言ってた『運を捨てなさい』って言葉の意味」
親父は少し驚いたように僕を見て、それからゆっくりと缶ビールに口をつけた。
「……そうか。なら、もう大丈夫だな」
「ああ。運が平等なわけがないんだ。だって、運なんてものは最初から存在しないんだから。あるのは、自分が何を選び、どう動いたか、その結果だけだ」
親父は何も言わず、ただ嬉しそうに目を細めて、大きく頷いた。
翌朝、僕は東京へ戻る新幹線に乗った。
窓の外を流れる景色を見つめながら、僕はもう、自分の人生を嘆くことはないと確信していた。
理不尽な不運に見舞われることもあるだろう。どうしようもない壁にぶつかる日もあるだろう。だが、それを「運が悪かった」で終わらせてはいけない。
手札が悪ければ、何度でもカードを引き直すために足を動かせばいい。
配られた不運は、次の正解を導き出すためのデータにすればいい。
僕はノートパソコンを開き、真っ白な画面に向かってキーボードを叩き始めた。
これは、運のせいにして生きることをやめた、僕自身の物語だ。
タイトルは、もう決まっている。

「運が平等な訳がない」

#創作大賞2026

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