『それでも、歌い続ける』ー森山良子
その清水ミチコさんをライブのゲストに呼ぶ歌手がいる。
森山良子さんだ。
「私以上に私らしい」
清水さんのものまねを、森山さんはそう評している。
父はジャズトランペッター、母はジャズシンガーだった。
1歳上に、兄がいた。
年子の兄妹で、取っ組み合いの喧嘩をするほど仲が良かった。
同じ高校で、同じバスケットボール部にも所属していた。
高校時代、先輩から手渡されたジョーン・バエズのレコードがきっかけで、フォークグループを結成した。
その後、映画監督・黒澤明の息子である黒澤久雄と縁ができ、黒澤家にたびたび歌を披露するようになる。
やがて黒澤明本人の意向で、黒澤プロダクション所属になった。
1967年、デビュー。
本当はジャズ歌手になりたかったが、事務所の方針でフォークシンガーとしてデビューすることになった。
歌謡曲色の強い曲を歌わされた時期もあり、目指すものとの隔たりに悩み、一時はコンサートでの歌唱を封印したこともあったという。
1969年。
デビューしてまだ1年だった森山さんは、ある曲を勧められた。
「さとうきび畑」。
沖縄戦で父を亡くした子供の悲しみを歌う曲だった。
戦後生まれの森山さんは、戦争を知らなかった。
「戦争というものを深く考えたこともなかった。歌っているだけで幸せ、とのんきに思っていたくらいの若輩者でした」
歌う資格が、自分にあるのか。
そう自問し続けて、一度は歌うことをやめた。
1970年。
1歳上の兄が、23歳で急性心不全のため急死した。
死後は、誰を見ても兄に見えた。
思い出すのも辛くて、家族の誰も、兄の話題を口にしなかった。
時は流れ、1991年。
湾岸戦争のニュースを見て、もう一度「さとうきび畑」を歌おうと決めた。
それでも、迷いは消えなかった。
特に沖縄で歌うことには、ずっとためらいがあった。
沖縄の人々の苦しみを、自分が踏み躙っているのではないか、と。
1998年。
沖縄出身のバンド、BEGINからデモテープが届いた。
タイトルだけが書かれていた。
「涙そうそう」
意味を聞いた。
涙がぽろぽろこぼれること、という沖縄の言葉だった。
その瞬間、28年前に急死した兄を思い出した。
長く封印していた感情が、一気に言葉になって出てきた。
「それまで言葉にできなかった感情を、メロディーの力を借りて歌詞に書き上げることができました」
2001年、沖縄でのプロモーション中。
楽屋の外で、ひとりの女性とその娘が待っていた。
「良子さん。さとうきび畑を、ずっと長い間、歌い続けてくれてありがとう」
涙をボロボロこぼしながら、近づいてきた。
2人で抱きしめあって、泣いた。
長年抱えていた迷いが、その一言で氷解した。
戦争を知らない自分が、戦争を語っていいのか。
それは、森山さんだけの迷いではない。
いいか悪いかで言えば、百人が百人とも「悪い」と答える。
それでも、人類は戦争をやめられない。
戦争に加担する人間は、平和な日常の中でも、生まれてくる。
今この瞬間も、世界のどこかで、戦争は続いている。
森山さんは、戦争を体験していない。
でも、自分の兄を、何の前触れもなく失った。
その痛みを通したとき、初めて、知らない誰かの痛みに手が届いた。
体験していないことを語る資格は、体験そのものではなく、自分の痛みをどれだけ正直に差し出せるかにあるのかもしれない。
「さとうきび畑」と「涙そうそう」。
二つの曲は、別の悲しみから生まれた。
でも、根っこは同じ場所にある。
森山さんは、一度は歌うことをやめた。
それでも、歌い続けている。
なぜ人類は、戦争をやめられないのか。
答えは、まだ誰も持っていない。
それでも、歌い続けることだけは、できる。
