名古屋城木造復元に見る「バリアフリー一辺倒」の限界と、社会が引くべき境界線
現在、名古屋城の木造復元計画において、天守閣へのエレベーター設置を求める声が一部から上がっている。
しかしこの要求は、「歴史建造物の復元」という行為の本質を根本から取り違えたものであり、安易に受け入れるべきではない。
これは新築の商業施設ではない。
失われた文化財を、当時の構造・技術・不便さを含めて再現する「復元」である。
歴史的建造物における現実
姫路城 の天守閣にエレベーターは存在しない。
内部は急勾配で狭い木造階段のままであり、車いすでの登閣は不可能である。
同様に、
法隆寺、松本城、犬山城 など、
国内の主要な文化財の多くは、現代的なバリアフリー改修を施していない。
これは差別ではない。
価値の定義が「利便性」ではなく「真正性」にあるからだ。
「すべてを合わせろ」は成立しない
ここで一つ、避けて通れない現実がある。
世の中には、そもそも参加できない領域が存在する。
例えば、単眼(片目のみの視覚)では、
大型自動車運転
航空機操縦
船舶運用
警察官
自衛官
海上保安官
といった職業に就くことが制度上制限されている。
これは差別ではなく、
安全性という全体最適のために引かれた境界線である。
そして重要なのはここだ。
だからといって、「単眼でも100%安全にできるように社会を改造しろ」という話にはならない。
もしそれをやれば、
インフラ全体のコストは爆発し、社会は維持できなくなる。
それでいて彼らは障害者認定すらされないのである。
「アクセスの完全平等」は幻想である
名古屋城の議論も同じ構造にある。
エレベーターを付けたとしても、
寝たきりの人は天守に登れない。
つまり、
ある人にはアクセス可能
ある人には依然として不可能
という現実は絶対に消えない。
アクセスは完全には解決できない
これは冷酷な意見ではなく、物理的事実である。
政治とは「線を引くこと」
社会設計において重要なのは、
どこまで対応するか
どこから先は対応しないか
を明確に決めることである。
すべての要求に応えれば「優しい社会」になるのではない。
むしろ、何も守れない社会になる。
富士山にスロープを作らないのと同じで、
歴史建造物にも「手を入れない領域」は存在する。
結論
名古屋城の復元において守るべきは、
「誰でも入れる構造」ではなく、「本物であること」だ。
不便さも含めて再現する。
それが復元であり、文化財の価値である。
すべての人に同じ体験を保証することはできない。
それは差別ではなく、世界の構造そのものだ。
だからこそ必要なのは、
感情ではなく、境界線を引く意思
である。
