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#88|「大丈夫」という言葉の代わりに

午後の私は、どこかおかしかった。

胸の奥に貼りついていた重たい石は、
まだ完全には剥がれていない。
部長の視線も、お局様の沈黙も、
昨日のミスの影も、ちゃんとそこにある。
それなのに、心のどこかに
小さな火種みたいなものが残っていた。
じんわり温かい。
でも少し痛い。
まるで冷え切った手に、急に熱いお湯をかけられたみたいな感覚。

その火種の正体は、
午前中に聞いたSさんの言葉だった。
「○○さん、ちゃんとやってたじゃないですか」
「俺は見てましたよ」
その言葉が、
私の中の弱い部分をそっと撫でていく。
不安が頭をもたげるたび、
Sさんの顔が浮かぶ。
声が浮かぶ。
あの少し落としたトーンが、胸の奥で静かに響く。

私は気づいていた。

自分がいま、
彼の優しさに寄りかかろうとしていることを。
誰かの理解に救いを求めること。
誰かの言葉に体重を預けること。
本来なら警戒すべきことなのに、
今の私にはそれがひどく魅力的に見えた。
疲れている人間は、
優しさに弱い。
そして私は、思っていた以上に疲れていた。

定時のチャイムが鳴った。
営業部の空気が少しだけ緩む。
パソコンを閉じる音、椅子を引く音、
誰かの雑談。
一日の終わり特有のゆるい空気が流れ始める。
ふと、私のデスクの横に影が落ちた。
顔を上げる前に分かった。
あの香りだ。
少し甘くて、清潔感のあるウッディな香り。
「……ずっと気にしてたみたいだったから」
責めるでもなく、
励ますでもなく、
ただ事実を確認するみたいな声。
私は思わず顔を上げた。

Sさんは少しだけ身をかがめて、私を見ていた。

その視線が苦手だった。
優しいから。
優しい人の視線は、ときどき残酷だ。
見ないふりをしてほしい部分まで見透かされている気がする。
「帰り、少し歩きませんか?」
「気晴らしにコーヒーでも」
あまりにも自然だった。
断る理由が思いつかないくらい自然だった。
むしろ、ひとりで帰るほうが怖かった。
家に帰れば、またぐるぐると考えてしまう。
考えなくていい時間が欲しかった。
誰かに「大丈夫」と言ってほしかった。
「……はい」
気づけば返事をしていた。

自分でも驚くほど素直な声だった。
私は何を求めているんだろう。
その問いは、喉の奥で静かに揺れたまま、
言葉にならなかった。

ギュスターヴ・モロー (1826-1898)
《オイディプスとスフィンクス》
1864年 油彩・キャンヴァス
206.4x104.7cm
メトロポリタン美術館、ニューヨーク

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