#87|偶然みたいな顔で、声をかけてくる人
プリンターへ向かおうと席を立った瞬間だった。
通路の角を曲がったところで、
ちょうどSさんと目が合った。
本当に偶然だったのか、
それとも偶然を装ったのか。
今となっては分からない。
ただ、そのタイミングは妙に出来すぎていた。
「おはようございます。大丈夫ですか?」
いつもと同じ挨拶なのに、
少しだけ声が柔らかく聞こえた。
その一言だけで、
肩に入っていた力がふっと抜ける。
昨日からずっと緊張していたのだと思う。
胸の奥に貼りついていた重たい石が、
ほんの少しだけ動いた気がした。
「昨日、姿が見えなかったから…ちょっと心配してました」
そう言ったあと、
Sさんは周囲をちらりと見た。
そして、少しだけ声を落とした。
まるで内緒話でも始めるみたいに。
「……言いにくいんですけど」
その前置きだけで、
心臓が嫌な音を立てた。
私は昔から、この手の言葉に弱い。
「ちょっといい?」
「あとで話があるんだけど」
「言いにくいんだけど」
その先にある内容が分からない時間が、
いちばん怖い。
Sさんは少し眉を寄せながら続けた。
「昨日の袋詰めの件、部長とYさんが話してたんですよ」
胸の奥で何かが沈む。
やっぱり。
そう思った。
「向きが逆だったみたいでね、って部長が言ってて」
私は無意識に息を止めていた。
「そしたらYさんが、『まあ、派遣さんだし、ひとりに任せたのは、良くなかったわね』って」
その言葉を聞いた瞬間、
不思議なくらい納得してしまった。
ああ、やっぱりそうなんだ。
やっぱり私は期待されていないんだ。
昨日から頭の中で育て続けていた不安に、
ようやく“証拠”が見つかった気がした。
でもSさんは、そこで話を終えなかった。
「俺、それ聞いててちょっとムッとしたんですよ」
その一言に、私は顔を上げた。
「○○さん、ちゃんとやってたじゃないですか」
胸の奥がじんわり熱くなる。
「だから部長には、あれは量が多かっただけで、彼女のせいじゃないですよ、って言っておきました」
救われた。
そう思った。
誰にも何も言われず、
勝手にひとりで沈んでいた私にとって、
その言葉は思った以上に効いた。
たぶん私は、ずっと誰かに
「大丈夫だよ」
と言ってほしかったのだ。
ミスそのものよりも、
見捨てられていないことを確認したかった。
「ありがとうございます……」
声が少し震えた。
自分でも驚くほど素直な声だった。
Sさんは軽く笑った。
「そんなに気にしないでください」
その背中を見送りながら、
胸の奥に残っていた重たい石が、
少しだけ小さくなった気がした。
ガラテイア(ガラテア)
(Galatée) 1880年
85.5×67cm | 油彩・板 | オルセー美術館(パリ)
