【短編小説】彼女と僕と、時々、変な日本語|中国から来たリンちゃん
第一章 新品の家電のような少女
僕が総合商社で営業部の社員として働いていた頃、その子はアルバイトとして雨の日にやってきた。
「はじめまして、リンです。今日からお世話になります」
つぶらな瞳と、マニュアルを読み上げるような丁寧な日本語。中国の大学で日本語を専攻していたリンちゃんは、教科書では学べない生きた日本語を覚えようと、毎日アニメやドラマを見て勉強していると自己紹介で話してくれた。間違いはないのだけれど、どことなく違和感がある。まるで新品の家電が、まだ人間に慣れていないような、そんな不思議な距離感があった。
僕は新人教育も担当していたので、リンちゃんの指導役を任された。営業部の事務業務を中心に、電話対応から資料作成まで、幅広い業務を教えることになった。
初日の午後、お客様からの電話を受けたリンちゃんが、真剣な表情でメモを取りながら言った。
「はい、承知いたしました。かしこまりました。それでは、ご希望に沿うよう、馬車馬のごとく努めさせていただきます!」
受話器を置いた彼女を見つめる僕の視線に気づいて、リンちゃんは不安そうに首をかしげた。
「先輩、何か間違いましたか?」
「いや、間違いじゃないけど……馬車馬のごとく、って、どこで覚えたの?」
「日本のドラマで、熱心に働く時に使うと聞きました!だめでしたか?」
彼女の目が丸くなる。その純粋な困惑に、僕は思わず笑ってしまった。
「だめじゃないよ。ただ、ちょっと意外だっただけ」
その日から、僕らの間では「今日のリンちゃんの日本語は?」が密かな合言葉になった。彼女が新しい日本語を使うたびに、僕と他の同僚は顔を見合わせてニヤニヤする。当のリンちゃんは真剣な顔をしているのが、また愛らしかった。
初めて彼女と一緒に残業した夜、疲れ果てた僕が「リンちゃん、頑張れよ!」と励ましたつもりで言うと、彼女は振り返ってにっこり笑って「お前もな!」と返してきた。その瞬間、僕と他の同僚は顔を見合わせて爆笑してしまった。日本語としては完璧だったが、まさか先輩に向かって「お前もな!」と言い放つとは。リンちゃんは僕らが笑っている理由がわからず、きょとんとした表情を浮かべていた。
後で聞いてみると、大学の日本人男子学生の友達が、仲間同士で励まし合う時によく使っていたのだという。彼女にとっては、自然な励ましの言葉だったのだ。
第二章 努力の天才(三ヶ月後)
リンちゃんは、僕が今まで出会った中で最も努力家だった。「できないのはイヤ」という彼女の気概は、時給千円のアルバイトという立場を軽々と超えていた。
新しい業務を教えると、僕が説明し終わるか終わらないかのうちに、もう彼女は要点を把握している。まるで高性能なスキャナがデータを取り込むかのように、瞬時に新しい知識を吸収していくのだ。
他の日本人アルバイトの子たちも真面目なのだが、リンちゃんの前では霞んでしまう。いつの間にか、新しい業務はまずリンちゃんがマスターし、それをリンちゃんが「これはこうするんですよ」と僕ら正社員に教えてくれる、という逆転現象が当たり前になっていた。
最初は物珍しさで見ていた同僚たちも、リンちゃんの真摯な姿勢に影響を受け、自分たちも頑張ろうという気持ちになっていった。
僕は心の中でいつも「日本人若者、頑張れよ!」と思っていたけれど、リンちゃんがあまりにも完璧にこなすので、その言葉はいつも喉の奥に引っ込んでいた。悔しさ半分、感心半分で、複雑な気持ちを抱えていた。
第三章 システムの魔術師(半年後)
そんな彼女の能力を決定づけたのは、部署に新しい基幹システムが導入された時のことだった。
マニュアルの厚さは電話帳並み。読んだ僕らも「うわー」と頭を抱えるレベルの複雑さだった。ところがリンちゃんは、休憩時間にマニュアルを隅から隅まで読み込み、翌日にはもうスムーズに操作している。しかも、「このボタンを押すと、こういうエラーが出やすいから注意してくださいね」なんて、僕らが気づかなかった点まで把握している始末。
「先輩、今日のお客様の件ですが、こういう提案はいかがでしょうか」
完璧な敬語なのに、どこかまだ教科書的な響きがあったが、その提案内容は的確で、僕は彼女の成長を実感した。日本語の自然さはまだ発展途上だったが、仕事への理解度は既に僕らを上回っていた。
「リンちゃん、実は未来から来たロボットなんじゃないか?」
同僚の田中君が真剣な顔で呟いた時、僕らは全員で頷いた。
第四章 おかしな敬語と、心の距離(八ヶ月後)
リンちゃんの日本語力が上がっていくにつれて、面白いエピソードも増えた。
ある日、僕がちょっと体調を崩していた時のことだ。
「先輩、どうかご無理なさらないでください。先輩の体調不良は、私の胃をキリキリさせます」
真剣な顔で言われた時は、思わず吹き出してしまった。「胃がキリキリ」は比喩表現として合っているのだけれど、まさかこんなシチュエーションで使うとは。その言葉のチョイスが、ちょっとズレているのに妙に心に響く、彼女らしい魅力だった。
彼女が日本のアニメやドラマから日本語を学んでいることは知っていたが、ある日、社内での会話で、なぜか語尾に「〜である!」とか「〜なのだ!」とか、時代劇に出てくるような言葉遣いをし始めたことがあった。
「この資料は大変重要なのである!」
僕らはキョトンとしていたが、リンちゃんは得意げだった。
「今日のドラマで、かっこいい侍が使っていたので!」
キラキラした目で言うリンちゃんに、僕らは笑いを堪えるのが大変だった。
「リンちゃん、お客様の前では普通に話そうね」
先輩の佐藤さんが優しく注意すると、リンちゃんは素直に頷いた。
第五章 さようなら、不思議な日本語(一年後)
一年後、彼女とのお別れの日がやってきた。
すっかり日本語が上達した彼女は、見違えるような「日本人らしい」流暢な日本語を話していた。もう「馬車馬のごとく」なんて言わないし、「胃がキリキリ」で僕の体調を心配することもない。時代劇口調で話すこともなくなった。
少し寂しくもあったが、彼女の成長を間近で見ることができたのは、僕にとってかけがえのない経験だった。
「先輩、本当にありがとうございました。ここで働けて、たくさんのことを学びました。日本の文化も、もっと知ることができました」
深々と頭を下げたリンちゃん。その日本語は完璧で、もうあの頃のぎこちなさは微塵もなかった。
でも、僕の心の中には、時々不思議な日本語を操りながら、目をキラキラさせて新しいことを吸収していたリンちゃんが、ずっと生き続けている。
そして、僕は今でも心の中で思うのだ。
「リンちゃん、頑張れよ!」と。
きっと、あの時彼女が屈託なく言った「お前もな」という言葉が、今も僕の心に響いているのだろう。リンちゃんが教えてくれたのは、日本語の面白さだけじゃなかった。頑張ることの大切さ、そして、励まし合うことの素晴らしさだったのかもしれない。あの時の「お前もな」は、今でも僕を励まし続けている。
彼女が残していった「不思議な日本語」は、今も僕の心の中で、小さな光として輝き続けている。言葉は完璧である必要はない。大切なのは、その言葉に込められた想いなのだから。そして時々、僕は思い出すのだ。あの夜、疲れた僕に向かって屈託なく「お前もな!」と言い放った彼女の笑顔を。
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