天才とバカは紙一重、本能のまま『好き』を追求せよ!
赤塚不二夫の『天才バカボン』は、やはり”天才”だ!
最近、私は子どもの頃の無邪気な青春を味わうためにはどうしたらいいだろう?と真剣に考えていた。その事柄のせいで思考はどんどんメビウスの輪のように循環していた。
note(ブログ)に何を書けばいいだろう?自分だけのどんな凄い答えを展開しよう?などといったくだらない妄想(自己満)に浸っていた。
今日何気なく見つけた言葉があった。

『いい文章を書く秘訣は考える事じゃない、まず書き始めることだ。』
このお盆休み、家族で東京のホテルに泊まった。私は8日と9日にイベントに参加する予定だったので、後日合流する両親と兄の3人より早く東京に来ていた。
イベント内容は両日ともインクルーシブデザインを世の中に広めるためのプロジェクト・事例紹介・ワークショップであった。
1日目は、奈良県を拠点とする障害者福祉施設の一般財団法人たんぽぽの家が主催するワークショップで『Art for Well-being セミナー&ワークショップ ダンス×ケア×テクノロジーがひらく、時間の層に触れる旅』、2022年夏にALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断を受けた体奏家の新井英夫氏とジャワ舞踊家の佐久間新氏らがテクノロジーとダンスxケアを組み合わせ、身体表現、障害があるからこそのデジタルによる拡張を実験的に行うワークショップである。
当日、会場で間地かで見ていた私は正直、「人間」とは、時空や身体感覚を超越して、溢れ出す生命の源を表現できるのか、と訳の分からない、興奮した感覚に襲われた。ALSの当事者である新井氏は病状を半分楽しんで、身体で語っているようだった。
私がよく聞くALSの当事者は、病状の進行と毎日毎秒戦って、それゆえの日々の単調さ、周囲との時間の流れ違いに対する怒りを耳にする。身体障害を持つ同じ当事者として、進行性のやり切れない憎しみは感覚で理解できる。
一方で、新井氏は自身の身体、ミクロスケールで病態を気さくに話してくれた。映像などで記録として、自由が利いていた頃のものがあるという残酷さをも飲み込んで現在(いま)の大事さを語ってくれた。
それはダンス表現者特有の考えなのかもしれない。だが、それが一番、障害の有無に関わらず、幸福な状態なのだろう。
彼は気管切開手術をしているため、いつも「淡」と戦っている。
しかし、それすらも表現の一部で、淡も毎日、掃き出すと様子が違う、生きているのだ、「淡は私の一部で身体を表現している、『害』ではない。」と、自分の中にあった既成概念が一気に崩れた。
掃き出す、アウトプットとは、心身を和らげる効果があるのかもしれない。
未知の世界への感動と興奮も治まらないまま、会場の初対面の人と前半後半でよくわからない”カオス”な遊びをさせられた。大の大人が半強制的に皆の目の前で、子どものようにおもちゃ的な道具で「遊ぶ」のだ。
たんぽぽの家は、毎度のながら理解はしているものの、大人特有の抵抗感が最初にある。我々はいつの間にか、本当の意味での遊び心、意味のないことへの喜びを成長するとともに忘れているのだろう。
現代美術家でグラフィックデザイナー、イラストレーターの横尾忠則氏がYouTubeラジオで『意味を求めすぎる現代人は、皆、物事を自分の学んだ知識で、無意識に白黒分別したがっている。』ということを訴えていた。
同時に対処法として、『考えるな。ある意識的なアルツハイマー、認知症的な世界で、世の中を見ればいいんじゃないかな。』とラジオパーソナリティの質問に回答していた。
映画『小説家を見つけたら』の一部シーンを載せたのは、2日目の出来事が大きな要因となっている。大学院卒業後に博士課程のため個人で活動を続けていた時に出会った先生がいる。
いつもお世話になっていて、2日目のイベントは彼からの紹介だった、東京の済生会病院で行われたインクルーシブデザイン事例紹介、ワークショップ&交流プログラム、
そこではアイデア商品などの事例紹介を聞いた後に4人組のテーブルに分かれ、アイデアを即興で出し合い、付箋に書き並べてディスカッションするという流れだった。
アイディア出しの議論がはじまり、みんなでどんどん出たアイディアの付箋が並べられ、20分、30分と刻一刻と時間は過ぎていく。
何も出ない私は(このままじゃヤバい)と想い絶ち、恥じらいを捨て、全く関係ない「朝、メニューを考えるのがだるい」というおそらくテーマから外れたメモを書いた。(周りは驚いていたが)
そして、次にテーマに沿って書いた1枚の箇条書きの付箋が採用された。
やはりいいアイデア、文章というのは、何も考えずに一旦、掃き出し、そこから思考し、再構築する必要があるのかもしれない。『天才バカボン』の「これでいいのだ!」は、色んな意味で正しい、たんぽぽの家の新井氏や現代アーティストの横尾氏のように意味や考えることを捨ててみて、生きねばと思わせられた。
おまけだが、東京でお高い中華を食べたが、京都の自宅のアパートに帰ったら王将が食べたくなり、テイクアウトした。なんだかんだ言って、身体に王将の味が良いのだろう。

バカボンのパパのセリフ
「これでいいのだ!」
舌バカになっているのだ。周りにもよく言われている。でも、それが良い、それで良い、良いものには切りがない、上も下も、だから真ん中だけ見て、猪突猛進すれば良いのだ。
何でもそうだが、自分と他人を比べる必要はない。ルッキズムなどもその手のものだ。自分は自分の中にいる相手だけを見れば、自身の「好き」とは何かを追求できる。
ホテルに泊まっていたとき、NHKで特集ドラマが放送されていた『手塚治虫の戦争』で、高良健吾が手塚役で主演する。1970年代のどん底にいる手塚が描いた漫画作品、『紙の砦』で主人公・大寒鉄郎(16歳)は、いつ戦争に巻き込まれ、明日もわからない状況でがむしゃらに漫画を描き続けるのだった。当時の戦争体験を漫画に残すというストーリーで、手塚(高良演、70年)と漫画に投影された大寒鉄郎(自分自身)が時を超えて交差するという展開であった。
当時、戦争が激化し、日本が終戦直後の時系列で物語は進む。原田琥之佑演じる鉄朗は、戦時中にも関わらず、黙々と漫画を創作するため、それを見た教官や周囲の大人の心に毒された同級生らは、手塚少年をあざ笑ったり、大切な原稿を目の前でゴミ同然のように扱うのだった。
それでも書き続けられたのは、漫画を読んで「おもしろい!」と言ってくれる友達や「好き」を追求させてくれる母親の存在からだった。
偉業を成そうが、成さないが、がむしゃらに全力で「好き」をとことん追求する、これが大事なのだろう。
また、頭にある大小関係なく、一旦掃き出さなければアイデアは出ないのだと、私は身をもって痛感した。
