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雑賀衆(4)[番外編] 鈴木孫一、清須城にいた?

──大坂で消息が途絶えた鈴木孫一が清州城で発見?
──織田信長の足に負傷させた雑賀衆、なぜ織田信雄の家臣団へ?


「雑賀」の文字が記載された墨石/愛知県埋蔵文化財ホームページより引用
「雑賀」の文字が記載された墨石/2012/9投稿者が撮影

愛知県埋蔵文化財センターが説く2つの説

1.「雑賀」 「孫一郎」は人名を示し、織田信雄の有力な奉行人であり、重臣であった雑賀松庵と考えることができる
2.雑賀衆であったとすれば、織田信張を仲立ちとして織田信雄と関係のあった鈴木孫一重秀と考えることができる

愛知県埋蔵文化財センター年報 平成10年度/清須城本丸付近の石垣の墨書/浅井厚視

奇跡の降雨

歴史の真実が、時として天候という偶然の産物によってもたらされることは、考古学において稀に、しかし確実に起こる事象である。愛知県清須市に位置する清須城下町遺跡において、戦国史を揺るがす重大な発見がなされたのも、1998年(平成十年)1月12日の、激しい風雨が吹き荒れる日であった。

当時の発掘調査現場は、五条川の河川改修工事に伴う事前調査として、愛知県埋蔵文化財センターの手によって進められていた。その日は強い雨のため作業が中断され、現場の見回りを行っていた調査員の浅井厚視氏は、風によってめくり上げられたビニールシートの下に、数日前に掘り出されたばかりの石垣石と根石が並んでいるのを目にした。本来、発掘された石材には厚い土汚れが付着しており、その表面を肉眼で詳細に観察することは困難である。しかし、この日の集中豪雨が石の表面をきれいに洗い流していた。

浅井氏がふと目を止めた石材の表面には、黒々と、かつ鮮明に「雑賀」という二文字が浮かび上がっていた。この瞬間こそが、織田信長を最も苦しめた宿敵であり、1585年(天正十三年)の豊臣秀吉による雑賀攻め以降に消息が途絶えていた「雑賀孫一」の足跡が、意外な形で再発見された。この「雑賀」の墨書が発見されたのは、清須城本丸付近の石垣遺構であり、信長の次男である織田信雄が、天正大地震からの復興と自身の権威誇示のために築き上げた、いわゆる「後期清須城」の心臓部であった。

この劇的な発見は、すぐさまメディアの関心を惹きつけた。1998年3月7日、主要な新聞各紙は一斉に「清須城石垣から墨書を発見」という見出しで、この成果を大きく報じた。さらに4月14日には、民間放送局が「解明される清須城」と題した特集番組を放映し、なぜ信長の仇敵であったはずの雑賀衆の名が、その子である信雄の居城に残されているのかという歴史的な謎を提示した。世間の関心は、石山合戦で信長を狙撃し、負傷させたとも伝わる伝説の鉄砲頭、鈴木孫一が清須城にいたのではないかという点に集中したのである。

十九個の石材が語る普請の実態

清須城本丸付近から出土した石垣石および根石は合計43個にのぼるが、そのうち墨書が確認されたのは19個であった。これらの石材はすべて砂岩であり、地質学的分析によれば、揖斐川水系の岐阜県海津郡南濃町あたりで採石される「河戸石(揖斐石)」である可能性が高いとされる。

発掘された墨書石

墨書が記された位置は、石垣として組み合わされた際に外側から見える「正面」ではなく、上面、下面、側面といった、構築後は不可視となる部位に集中している。これは、墨書が装飾や記念碑的な意図ではなく、工事の管理、あるいは石材の流通における識別符牒として機能していたことを示唆している。

  • 4-雑賀-楷書に近い字体-下面-砂岩・根石

  • 6-雑賀-草書体、左側面に「□年」の記述-右側面・左側面-砂岩・根石

  • 8-雑賀-比較的太い筆致-上面-砂岩・根石

  • 9-雑賀、孫一郎、六十五右側面に「孫一郎」「六十五」の連記-上面・右側面-砂岩・根石

  • 13-雑賀-判別可能な二文字-左側面-砂岩・石垣石

  • 16-雑-行書体の力強い一文字-正面-砂岩・石垣石

  • 18-雑-下部に「雑」の文字-下面-砂岩・石垣石

  • 3-いぬかい、ち-平仮名まじりの表記-正面-砂岩・根石

特に注目すべきは9番石である。この石には上面に「雑賀」、右側面に「孫一郎」および「六十五」という文字が記されており、これが特定の個人、すなわち「雑賀(を名字とする)孫一郎」を指し示している可能性もある。この「孫一郎」という通称は、鈴木孫一として知られる鈴木重秀の親族や後継者、あるいは彼自身を指す可能性を秘めている。また、「六十五」という数字については、普請における石材の通し番号、あるいはこの石を納めた、ないしは責任者であった人物の年齢(六十五歳)を指すのではないかという二つの解釈が成立する。

墨石(墨書)の定義

城郭の石垣における文字や記号の標記には、墨で書かれた「墨書(ぼくしょ)」と、ノミで彫られた「刻印(こくいん)」の二種類が存在する。清須城で見つかったのはその多くが墨書であり、これは石垣建築の歴史において、天正年間(1573~1592年)という特定の時期の技術的特徴を反映している。

織豊系城郭における識別システムの進化

墨書は、近世城郭の黎明期から発展期にかけて多用された手法である。石垣に使用する膨大な石材を、複数の大名や家臣が分担して調達・加工・蓄積する「割普請(わりぶしん)」において、石材の所有権や担当範囲を明示することは、物流上の混乱を避けるために不可欠であった。

  • 安土城-天正4年(1576)-墨書(伝承含む)-「惟住内九」(丹羽長秀配下)初期的な所有権・担当区分の明示

  • 大坂城-天正11年(1583)-墨書「にし大谷善四郎」、符牒・記号秀吉による急速な築城に伴う管理

  • 清須城-天正14年(1586)-墨書「雑賀」「孫一郎」「いぬかい」-信雄による大改修、有力家臣の分担

  • 名古屋城-慶長15年(1610)-刻印(主)、墨書-複雑な記号、大名紋、地名、人名-天下普請における永続的な責任証明

安土城においては、修理の際に「惟住(丹羽長秀)配下の九口」を意味すると考えられる墨書が見つかっており、これが石垣における墨書の初現的な例とされる。豊臣期の大坂城でも、地下鉄工事などの発掘に際して「にし大谷善四郎」といった人名や符牒的な墨書が確認されており、天下人が進める大規模プロジェクトにおける効率的な管理手法であったことが伺える。

これに対し、江戸時代初期の名古屋城などでは「刻印」が主流となる。これは、石材が遠方の丁場(採石場)から海路を経て運ばれるようになり、輸送中の摩擦や雨露によって消えてしまう墨書よりも、永続的な刻印が求められたためである。清須城の石垣が墨書主体であった事実は、この城が安土・大坂といった天正期の技術体系の中にあり、かつ名古屋城へと至る近世城郭化の過渡期に位置していたことを証明している。

清須城の「近世化」と天正大地震の影響

清須城は、かつて織田信長が尾張統一の拠点とし、桶狭間の戦いへと出陣した城として著名であるが、今回墨書が見つかった石垣は、信長の時代の遺構ではない。それは、信長の次男・信雄の手によって全く新しい姿へと生まれ変わった「後期清須城」の遺産である。

織田信雄による大改修の動機と意義

織田信雄像/絹本著色/總見寺蔵

1586年1月(天正十三年十一月)、近畿から東海を襲った天正大地震は、清須城とその城下町に壊滅的な被害をもたらした。当時の城主であった織田信雄は、この震災からの復興を単なる修理に留めず、自らの権威を天下に示すための巨大プロジェクトへと昇華させた。

この改修により、清須城は中世的な城から、五条川の軟弱な地盤を「胴木(土台木)」で補強した総石垣の城へと変貌を遂げた。本丸には金箔瓦を戴く天守がそびえ、城下町は三重の堀で囲まれた。発掘調査では、石垣の裏込めから「花菱」の金箔瓦が出土しており、信雄が父・信長に勝るとも劣らない豪華絢爛な城郭を目指していたことが裏付けられている。この改修工事の規模とスピードを維持するためには、雑賀松庵のような有能な奉行人と、雑賀衆が持つような高度な土木・軍事技術の導入が考えられる。

雑賀松庵説の分析

愛知県埋蔵文化財センターが提示する二つの有力説のうち、歴史的事実としての確度が高いのは、織田信雄の重臣であった「雑賀松庵(さいか しょうあん)」が石垣普請を担当したとする説である。

織田信雄政権における雑賀松庵の地位

雑賀松庵は、信雄の領国支配において極めて重要な役割を果たした「五奉行」の一人として知られる。天正十三年(1585年)の『織田信雄分限帳』によれば、彼は尾張国中島郡下津(現在の稲沢市)に1000貫、中之庄に500貫、さらに伊勢国に250貫、合計1750貫という破格の知行を有していた。一貫を一石強と換算すれば二千石前後の所領に相当するが、奉行人としての実質的な権限はその数字以上に大きかった。

松庵は、信雄が南伊勢を領有していた天正三年の頃から奉行人として活動しており、軍事よりもむしろ行政、知行割、寺社支配といった「家政のプロフェッショナル」としての性格が強い。また、1584年の小牧・長久手の戦い後の講和に際し、羽柴秀吉が信雄に要求した人質六人の重臣の中に松庵の名が含まれていることは、彼が信雄政権の屋台骨であったことを如実に示している。

石垣の「雑賀」という墨書が、普請における担当区画(割普請)を示すものであれば、奉行人である松庵が自身の責任範囲である石材に署名をしたと考えるのは、行政実務の観点から見て合理的である。しかし、この説には一つのミッシングリンクが存在する。九番石に記された「孫一郎」という通称が、松庵のものであったという記録が現在のところ見当たらない点である。

鈴木孫一重秀と「孫一郎」の謎

もう一つの説、すなわち「鈴木孫一(重秀)」本人が清須城にいたとする仮説は、戦国史のロマンを掻き立てるだけでなく、当時の政治情勢の空白を埋める可能性を秘めている。

鈴木孫一の足跡と大坂以降の動向

太平記英勇傳 鈴木孫市/落合芳幾画

鈴木孫一重秀は、石山合戦において本願寺側の主力として織田信長を十年にわたって苦しめた。しかし、天正十年(1582年)の直前には、信長の従兄弟である織田信張の仲介により、信長に接近し、土橋氏を滅ぼすなどの行動を見せている。信長にとっての宿敵は、晩年には織田政権の一部に取り込まれたのである。

本能寺の変後、孫一は一時的に消息をくらますが、1585年(天正十三年)の秀吉による雑賀攻めの際には秀吉側に帰順し、雑賀衆の案内役を務めたとされる。問題はその後である。秀吉による紀州平定後、孫一は大坂に移ったとされるが、そこでの具体的な活動記録は乏しく、多くの歴史家が「消息不明」として扱ってきた。

もし、1586年の清須城大改修において、石垣に「雑賀」「孫一郎」の名が記されたのであれば、彼は大坂を離れ、織田信雄の元に身を寄せていたことになる。信雄の領国である尾張・伊勢は、海路を通じて紀州と密接に関係しており、雑賀衆の残党や技術者が信雄の下へ流れていくルートは物理的にも十分に存在した。

「孫一郎」と「六十五」の記述が示唆するもの

九番石の「孫一郎」が鈴木重秀を指すのか、それともその一族を指すのかについては、慎重な検討を要する。鈴木氏の系譜において「孫一」は世襲名としての性格を持つが、個別の通称として「孫一郎」を用いる例は他にも見られる。例えば、小田原攻めの陣立書には「鈴木孫一郎」の名が見え、これは後の水戸藩家老・鈴木重朝であると考えられている。

また、「六十五」という数字が年齢であるとすれば、1586年時点で65歳の人物ということになる。石山合戦の最盛期に三十代から四十代であった重秀の年齢としては、整合性が取れる数字である。これは、隠居間近、あるいは技術顧問的な立場となった伝説の狙撃手が、かつての宿敵の子である信雄のために、その高度な土木知識(雑賀衆は城郭建築にも通じていた)を提供していた姿を想起させる。

雑賀衆の役割と「お手伝い普請」の可能性

なぜ、織田信雄は雑賀衆を、あるいはその名を冠する奉行を重用したのか。そこには、軍事技術の独占と、政治的な保護という二つの側面があった。

高度技術集団としての雑賀衆

Googleの画像作成AI、ナノバナナが作成した割普請のイメージイラスト

雑賀衆は単に鉄砲に長けた傭兵集団ではない。彼らは火薬の調合、鉄砲の鋳造、そしてそれらを防衛に活かすための城郭築城術において、当時日本で最高水準の技術を保持していた。信雄が行った清須城の改修は、五条川という湿地帯に巨大な石垣を築くという難工事であり、雑賀衆が持つような、水際での土木作業や、地盤改良(シガラミや角杭の使用)の知見は極めて価値が高かったはずである。

発掘調査で見つかった「大鍬」や、竹を編んだ「シガラミ」を伴う杭列は、大坂城下町期と同時期の技法であり、当時の最先端技術が清須に投入されていたことを示している 。雑賀衆の一部が、技術集団として信雄に雇われ、石垣普請の現場監督的な役割を果たしていた可能性は否定できない。

織田信張による仲介のメカニズム

鈴木孫一と織田家を繋いだキーマンは、織田信張(津田信張)である。信張は信長の従兄弟であり、紀伊方面の軍政を委ねられていた。彼は孫一と個人的な信頼関係を築いており、信長死後、信張自身が信雄の有力家臣となったことで、そのコネクションが信雄政権へと引き継がれた。

雑賀衆にとって、秀吉という強大すぎる中央集権勢力に完全に飲み込まれるよりは、形式的には豊臣政権下にあるものの、独立性を保とうとする「織田信長の後継者」である信雄の下に身を寄せる方が、集団のアイデンティティを保つ上で有利であったとも推測できる。

山本孫一郎と平井孫一郎の影

「孫一郎」という墨書に対し、雑賀松庵説、鈴木重秀説以外にも検討すべき人物が存在する。

山本孫一郎という実在

『織田信雄分限帳』には、そのものズバリ「山本孫一郎」という名の家臣が記載されている。彼は尾張国愛知郡押切郷に210貫の知行地を持っており、この押切は現在の名古屋市西区、清須城からほど近い場所に位置する。

もし九番石の「雑賀」と「孫一郎」が、名字と通称の連記ではなく、別々の意味(例えば、雑賀グループが石を運び、山本孫一郎がそれを受け取った、あるいはその逆)を持つのであれば、この山本氏が普請に関わっていた可能性は高い。しかし、石垣の標記において名字と通称を分けて書くのは、同一人物を指す場合の一般的な様式であるため、山本孫一郎が「雑賀」を称していたか、あるいは雑賀出身であったかどうかが焦点となる。

平井孫一郎と紀州の絆

和歌山市平井の蓮乗寺にある「平井孫一郎」の墓は、雑賀孫一の正体の一つとして語られる。1584年の小牧・長久手の戦いにおいて、和泉・紀伊方面から秀吉の背後を脅かし、信雄・家康連合軍を支援した雑賀衆の指導者こそが、この「鈴木孫一郎(平井氏)」であったとされる説がある。この場合、信雄にとって孫一郎は「共に秀吉と戦った戦友」であり、戦後に彼を清須に招き、厚遇したという筋書きも、歴史的な文脈としては極めて自然である。

まとめ

清須城本丸付近の石垣から発見された「雑賀」「孫一郎」の墨書は、一見すると単なる建設記録に過ぎないが、その背景には、戦国乱世が終わりを告げ、巨大な官僚的組織による城郭建築へと移行していく劇的な転換期が凝縮されている。

結論的考察

  1. 時期の特定:墨書の存在は、この石垣が天正十四年(1586年)の織田信雄による清須城大改修期のものであることを考古学的に証明した。これは、天正大地震からの復興という歴史的事実と合致する。

  2. 管理システムの解明:石垣の不可視部分に書かれた「雑賀」や「孫一郎」といった墨書は、大規模な割普請における石材の所有権と責任の所在を明示する「タグ」として機能していた。

  3. 雑賀松庵と鈴木孫一の接点:奉行人として工事を統括した「雑賀松庵」説と、技術顧問あるいは客将として存在した「鈴木孫一(重秀)」説は、必ずしも排他的ではない。雑賀衆という技術集団を背景に持つ奉行人、あるいはその逆という形での「雑賀」ブランドの活用が、信雄政権下で行われていた可能性がある。

  4. 信雄政権の独自性:信長、秀吉という二大巨頭に挟まれ、歴史の脇役として扱われがちな織田信雄が、実は雑賀衆のような高度な専門家集団を抱え、金箔瓦を戴く最先端の城郭を築き上げていた事実は、再評価されるべきである。

清須城の墨書が投げかけた謎は、まだ完全には解明されていない。

1998年の雨が洗い流したのは、石を覆っていた土だけではなかった。それは、勝者の歴史の陰に隠れ、消息を絶ったはずの敗者たちが、新たな主君の下でその技術と誇りを石垣に刻み込み、しぶとく生き抜いていたという、逞しき戦国の人々の生存戦略であったかもしれない。清須城石垣墨書は、今後も戦国末期の政治・技術史を解き明かす、雄弁な「物言わぬ証人」であり続けるだろう。

私は、この墨石(墨書)の実物を見たことがあります。これを見た時、大きな興奮を覚えました。現在大きくは2つの説が有力ではないかと考えられています。ひとつは「雑賀松庵」説、もう一つは「鈴木孫一(重秀)」説です。皆様は「雑賀」の名が入った墨石(墨書)どのようにお考えになるでしょうか。ぜひご意見をコメント欄に記載して下さい。

この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した

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