英賀城
別名:岩繋城
所在地:兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町(英賀神社周辺)
形式:水城
遺構:土塁、堀・旧河道・港湾施設の痕跡
主な城主:三木氏、英賀衆(本徳寺)
──消された中世の「海の都市国家」
──羽柴秀吉が徹底破壊した播磨最大・惣構え都市の真相
──中世都市の実像
──英賀城は本当に「城」だったのか
兵庫県姫路市を象徴する姫路城は、近世城郭の到達点として世界的にその名を知られている。しかし、存在感の影で、戦国時代まで播磨地方最大級の繁栄を誇りながら、歴史の表舞台から不自然なほど消し去られた巨大な都市が存在した。それが、現在の姫路市飾磨区英賀東町・西町一帯にかつて存在した「英賀(あが)」である。
一般には「英賀城」と呼ばれ、守護赤松氏の支城、戦国領主三木氏の居城、そして本徳寺(英賀御堂)を擁した寺内町としてのみ語られることが多い。しかし、近年の都市史・考古学的アプローチが明らかにした実態は、中世の「お城」の枠組みを超えている。それは、莫大な水運の富を背景に持ち、高度な自治能力を備えた、堺や博多にも匹敵する「海の都市国家」であった。
国民的作家である司馬遼太郎は、自身の先祖が一向一揆の英賀衆としてこの地に籠城したと語り、その歴史的記憶を大作『播磨灘物語』の原点とした。なぜ羽柴秀吉は、別所氏の三木城を落とした直後、この英賀を急襲し、寺院の解体や住民の強制移住という手段を用いてまで都市を破壊し尽くしたのか。本内容では、最新の研究成果と史料を紐解きながら、中世から近世への転換点に沈んだ「英賀」の真実に迫る。
英賀城は城だったのか:惣構えの巨大都市
歴史ファンにとって「英賀城」という響きは、天守閣や石垣を巡らせた武骨な山城や平城を想像させる。しかし、驚くべきことに、英賀に主郭を中心とする「城郭」が存在した一次史料は存在しない。史料が伝えるのは、一貫して港湾都市や寺内町としての性格ばかりである。

現地に残る土塁や堀状の地形、地籍図、そして「城内」「中町屋敷」「宮ノ内」といった特徴的な小字を分析すると、中世城館の姿ではなく、都市全体を土塁と水堀で囲み込んだ「惣構え(総構え)都市」の姿が浮かび上がる。その規模は東西約1000メートル、南北約800メートルに及び、中世播磨においては破格の防御空間を形成していた。

英賀の立地は、夢前川が瀬戸内海に注ぐ河口に発達した砂堆(さたい)の上にある。砂堆の西側は夢前川の本流、東側は支流の水尾川、北側は底なしの後背湿地に囲まれ、南側は播磨灘に面していた。この天然の要害を利用し、砂堆の北側に土塁を巡らせ、その外側に堀状の溝を掘ることで、都市そのものを巨大な要塞へと変貌させていたのである。



三木氏の記録である『播州英城日記』には、この地が水網に囲まれ、まるで岩を繋ぎ合わせたような強固な守りを見せたことから「岩繋城(いわつなぎじょう)」と称されたことが記されている。都市の防衛ラインには「芝之口」「駒芝口」「井上口」「河下口」「広辻口」「大木口」「北辻口」といった多数の城門(口)が設けられ、それぞれの出入口が警備体制の下に管理されていた。「城主が城内に君臨し、領民が城下町に住む」という近世的な階層構造ではなく、都市に住まう者全員が惣構えの内部に包摂され、共同で都市を守備する、中世的な自立都市の構造があった。




港を核として発展した海の城
英賀がこれほど強大な惣構えを構築できた原動力は、水運の利がもたらす経済力であった。英賀は、古代から中世を通じて瀬戸内海における最重要級の港湾都市(英賀津)として知られていた。
その繁栄ぶりを立証するデータが、東大寺が支配していた兵庫北関(現在の神戸港付近)の関税記録である文安2年(1445年)の『兵庫北関入船納帳』である。同史料を分析すると、英賀の地先に発達した港湾集落「今在家(英賀の今在家)」を籍とする船が、頻繁に兵庫北関に入港していたことがわかる。今在家の船は、播磨の豊かな平野部で収穫された「米」や「赤米」、あるいは瀬戸内海で獲得された「小鰯」などの物資を満載し、京・畿内へとピストン輸送していた。
当時の瀬戸内海における港湾都市としての今在家および英賀浦は、兵庫北関と直接結ばれた有数の流通ハブであった。こうした富の集積と海上支配力ゆえに、播磨国守護であった赤松氏は英賀に代官を派遣し、重要な財政基盤として関与したのである。後期赤松氏が夢前川上流の坂本城や置塩城を本拠としながらも、英賀を死守すべき要衝としたのは、ここが「海を支配するための城(海城)」としての価値を備えていたからに他ならない。

本徳寺は都市の中心ではなかった?
従来の通説では、16世紀初頭に本願寺実如の息男である実円がこの地に下向し、英賀本徳寺(英賀御堂)を建立したことで寺内町が形成され、都市としての英賀が本格的に立ち上がったと説明されてきた。
しかし、近年の地割調査や考古学的知見は、この発展プロセスに疑義を呈している。都市の空間構造を観察すると、町場形成の物理的な中心は、本徳寺が置かれた「御坊」ではなく、「中町屋敷」と「市場前」の間に位置する「湊(みなと)」の船溜まりであったことが判明している。


この事実から、以下のような新たな都市発展モデルが導き出される。
【従来の通説(寺内町先行説)-新たな仮説(港湾市場先行説)】
第1段階-一向宗(真宗)の播磨進出と実円の庵建立-天然の良港・砂堆を活かした今在家・英賀浦の港町形成
第2段階-英賀本徳寺(御坊)の造立(1515年頃)-港に隣接した「市場」の形成と物資の集積、経済的発展
第3段階-寺院を中心とした門前町・寺内町の整備-膨張する都市共同体の上に、本願寺勢力(実円)が合流・進出
第4段階-三木氏が寺内町を擁護する城を築城-信仰による精神的団結を加え、自立的な「惣構え都市」へと進化
すなわち、英賀は宗教的な動機によってゼロから建設された寺内町ではなく、卓越した水運インフラを持つ港町として自律的に発展した土壌があり、その巨大な市場と富を背景に、後発として一向宗本徳寺を包摂したのである。本徳寺の側にとっても、播磨における真宗布教の一大拠点を確立するためには、英賀が持つ海上ネットワークと経済力が不可欠であった。
七家合議制と職人集団のネットワーク
本徳寺の合流を経て、英賀は一寺院の支配下にある門前町の枠組みを遥かに超えた「都市国家」としての統治システムを構築していく。
都市内部には、港や巨大な市場、一向宗の本拠たる御坊だけでなく、伊勢殿や市場屋敷の北側に武士の居住区があり、さらには専門技能を持つ瓦工人に代表される職人集団が混在していた。この独自の社会を支えたのが、自治体制である。
英賀を運営していたのは、大名権力ではなく、共同体の代表である「老衆(おとなしゅう)」や「中老衆(ちゅうろうしゅう)」と呼ばれた市民層であった。彼らは一向宗の門徒として信仰的な紐帯(阿弥陀信仰)を共通の精神基盤としつつ、都市の意思決定を自らの手で行っていた。
軍事的なリーダーを務めた英賀城主の三木氏は、四国・伊予国の守護である河野氏の直系を自負する名門であった。康暦2年(1380年)に讃岐国から飾東郡へ移り、恋の浜城主を経て嘉吉3年(1443年)に通武が英賀に入部して以来、代々の城主が地域共同体と結びついてきた。三木一族は、城内に居館を構えた「四本家」(市庭家、井上家、土井家、堀内家)と「三連家」(山崎家、薮内家、町之坪家)に分かれ、この「七家」による合議制によって英賀の街を民主的に切り盛りしていたとされる。この集団指導体制は、戦国大名の一元的な領国支配に抗う「都市国家」の姿であった。

天正八年の水攻め、裏切り、そして都市の消滅
英賀の「都市国家」としての独立性は、天下統一を目指す織田信長や、その配下である羽柴秀吉にとって障壁となった。
英賀の最後の主である三木通秋は、信長と大坂本願寺による「石山合戦」において大坂へ兵を送り、毛利氏と結んで本願寺への兵糧支援を継続し、さらには隣接する別所長治の三木城に対しても執拗に援軍を差し向けるなど、反信長・反秀吉の姿勢を崩さなかった。
天正8年(1580年)2月、別所氏の三木城が落城すると、秀吉は返す刀で英賀への総攻撃を開始する。秀吉の弟である羽柴秀長が総大将として英賀の東方に聳える山崎山(後の「おれが天下山」)に陣を敷き、陸海双方から巨大な惣構えを包囲した。
英賀一向一揆を率いる三木通秋と、通秋の18歳の実子・安明は抵抗し、戦いはおおむね城門付近の小競り合いに終始する膠着状態となった。そこで秀吉は、夢前川を堰き止めて周囲の防塁や堀に水を流し込む「水攻め」を採用した。この水攻めは、後の備中高松城の戦いで見せる大規模な水攻めのプロトタイプ(原型)であった。

しかし、堅牢な惣構えと海からの補給に支えられた英賀を力攻めで落とすことは容易ではなかった。秀吉が用いたのは、知行を餌にした調略であった。秀吉は、河下口(みなと付近)の警備を担っていた三木与一兵衛ら5人の守備兵に対し、「50石の朱印状(知行)」を約束して寝返らせることに成功した。この内通によって夜間に小舟で城内へ潜入した秀吉軍は一気に火を放ち、2月13日、140年余りに及ぶ繁栄を誇った英賀は落城した。
『英賀日記』の記録によれば、この戦いでの死者は英賀側2,750人、秀吉軍700人余りという、凄惨を極めるものであった。通秋・安明父子は命からがら海路から九州(筑紫)へと落ち延びた。のちに天正10年(1582年)、秀吉によって罪を許された父子は英賀の旧地に戻り、先祖の姓である「河野氏」を名乗って郷士頭(農民)として生き延びることとなる。
英賀を制圧した秀吉が下した戦後処理は、単なる城の破却に留まらなかった。それは、英賀という都市自体の存在を抹殺する「都市の解体」であった。
第一に、英賀の精神的支柱であった本徳寺(英賀御堂)を解体し、英賀から一里余り離れた亀山の地(現在の姫路市亀山)へと強制移転させた。この時、近在の同行衆・門徒たちが総出で立ち並び、瓦を1枚ずつ手渡しで英賀から亀山まで運んだという。これにより、1582年(天正10年)には移転が実質的に完了した。
第二に、英賀に居住していた商人や熟練の職人、百姓らをすべて捕らえ、新たに築城を進めていた姫路城下へ強制移住させた。彼らを住まわせたのが、現在の姫路城下西側に位置する「龍野町」である。秀吉は天正8年12月にこの龍野町へ向けて「楽市」の制札を下し、都市としての経済活動を近世大名の管理下へと組み込んだのである。さらに、2月19日には自ら長浜にて茶会を催すなど、播磨平定後の支配権を内外に誇示した。
まとめ:中世の終焉と近世の夜明けを告げる歴史的転換点
単なる軍事拠点としての城攻めであれば、城主を降伏させ、城郭を破却するだけで十分だったはずである。なぜ秀吉は、寺院の強制移転や住民の強制移住、そして市場の略奪・移植という「都市国家の破壊」にまで踏み切ったのか。
その答えは、秀吉が恐れたものが「英賀という城」ではなく、独自の経済網と一向宗の信仰に支えられた「英賀という中世の自治共同体(惣)」そのものであったからに他ならない。これは、信長や秀吉が石山本願寺や伊勢長島に対して一歩も譲らず、その自治組織を解体した歴史的プロセスと軌を一にしている。


英賀の消滅は、一地方の城の陥落を意味するものではなかった。それは、港湾都市が有していた「自治の特権」や、寺内町が誇った「世俗権力からの独立性」、そして「地域共同体の自立性」が否定され、代わって、近世城下町(姫路)を中心とする兵農分離と専制的な大名支配の時代が幕を開けたことを告げる大転換点であった。
現在、英賀神社の境内に残るわずかな土塁や、街角に点在する「本丸跡」「市庭館跡」などの寂しげな石碑は、この地に存在した「海の都市国家」の最期の叫びを伝えている。姫路城という壮麗な近世の光の影には、こうして解体され、飲み込まれていった中世の自由都市・英賀の歴史が、今も深く眠っているのである。
この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した
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