淡河西・南付城
──付城という名称ではあるが付城では無かった?
所在地:兵庫県神戸市北区淡河町
遺 構:土塁、曲輪、虎口、横堀
伝 承:天正7年(1579年)、織田方が淡河城に対する付城として築き、城主は有馬則氏と伝えられる
備 考:淡河城から南南西に約400m。
歴史の「名前」に騙されてはいけない
「付城(つけじろ)」――その言葉を聞けば、多くの城郭ファンは「攻城側が敵城を監視・封鎖するために築いた陣城」を思い浮かべるでしょう。
天正7年(1579年)、羽柴秀吉による「三木の干殺し」の一環として、淡河城(おうごじょう)の周囲にも複数の付城が築かれました。「淡河西付城」も、その名称からすれば秀吉軍の陣跡のはず。しかし、実際に現地に立ち、縄張図を読み解くと、説明がつかない「違和感」があった。
付城とは何か
ここで「付城」という言葉について整理しておきたい。戦国時代、攻城戦が長期化する中で、攻撃側は敵城の周囲の要所に小さな城砦を築き、兵糧補給を断ち、援軍の進入を防ぎながら攻略を進めた。これが付城である。いわば、敵を囲い込むための「陣城」であり、秀吉が得意とした戦術としてよく知られている。
秀吉は三木合戦においてまさにこの戦術を用いており、三木城の周辺には実に20とも40とも言われる付城が築かれたとされる。その一つが、この淡河城の四方に築かれた付城である。史料によれば、北の天正寺山に杉原七郎左衛門家次、南の原の奥に浅野弾正長政(のちの浅野長政)、東の丘に有馬法印則頼、西南の山上に有馬四郎則氏が配置されたと伝えられている。
この西付城は、浅野長政が在陣したとされる。秀吉配下の武将が築いた典型的な「攻撃側の付城」であると長く考えられてきた。
遺構

城は方形の主郭を土塁で囲い、更に外側にも土塁で囲む2重構造となっている。北外側土塁の先は崖になっている。







城の向きが南西側に向いている
土塁・堀の欠落は、共に未完成を思わせる。
当城は西から南に対しての防備が厳しく、淡河城に対して備えるというより、城外からの援軍に備えた構造である。東側が手薄ということは、東側が丘陵が狭まる位置、西付城の東250メートルにある「原池」が主たる付城として尾根上を固めていたのではないかと推定する。
近畿の城郭の指摘内容を整理する。
まずこの城は未完成の部分がある。何らかの理由で作事が中止になった可能性がある。
この城は西、南方向に防備設備が整えられており、城外からの援軍、つまり三木からの援軍を期待した城である。
つまり「秀吉方が淡河城を攻めるために築いた陣城」ではなく、「淡河城方を守るために築かれた支城」の可能性が高い。
東側が手薄なのは、東250メートルにある「原池」周辺に主なる防備施設があったと推定する。
付城という名称ではあるが、攻撃側の付城の可能性は低く、淡河城の支城もしくは出城の可能の方が高い、との分析である。
淡河南付城
この東側250m先の「原池」周辺にも城郭が指摘されている。

この貯水東側の池が指摘されている「原池」になる。この2つの城で淡河城の南西方向の防備を担っていたのではないかとされる。






混戦の播磨と西付城の本当の役割
当時の戦況を振り返れば、この推測に説得力が増す。
天正6年(1578年)2月、三木城主・別所長治は織田信長に叛旗を翻した。これに対し、秀吉は播磨平定の総大将として三木城攻めを開始する。別所氏に属していた淡河氏も長治に従い、淡河城は三木城への重要な補給ルート上の拠点として防備を固めた。
淡河城は「花隈城(神戸市)—丹生山城(神戸市)—淡河城」というルートを確保し、明石方面から運び込まれる兵糧を絶えず三木城へ送り込んでいた。三木城の籠城戦が長期化する中で、淡河城は生命線——補給の中継基地として極めて重要な役割を担っていたのである。
西付城が築かれたタイミングを考えれば、これはおそらく籠城戦の初期——秀吉軍による包囲が本格化するよりもむしろ前に、淡河方自らが築いた「出城」か、あるいは秀吉方がこの補給ルートを遮断するために築いた「陣城」のどちらかである。しかし遺構の構造を見る限り、やはり後者の可能性は低い。淡河城を直接攻撃するには角度が悪すぎるからだ。
では誰がこの城を築いたのか。一つの可能性として、浅野長政の名は「付城を築いた武将」として伝わっているが、この城の事ではないのかもしれない。もっと、南西方向に城があったかもしれない。淡河城は北東方向は絶壁であるが、南西方向は防備が弱い。秀吉軍が、南西方向に新たな付城を普請し、それに対抗するため淡河氏が南からの侵攻に備えた支城をこの地に築いた——その可能性は考えられる。


南西方向に未発見の城があるのかもしれない。
残されたもの
いま西付城に立つと、そこは妙に静かで、戦国の喧騒を一切感じさせない。土塁は低くなり、横堀は風雨に削られて輪郭を曖昧にしている。
専門的な分析が示す通り、この城は西から南に対する防御に重きを置き、淡河城外からの援軍に備えた構造になっている。それはまさに「籠城のための支城」という性格を如実に物語っている。歴史の表舞台に語られることの少ない、しかし紛れもなく実在したもう一つの真実が、ここには静かに横たわっているのだ。
現在この場所に立つ私たちは、はっきりと感じ取ることができる。「攻撃側の付城」としてではなく、「守るための出城」として——この城がそもそも南を向いている必然性を。
[参考文献]
この内容はdeepseekとGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した
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