穴太衆とは異なる播磨国の石垣
──播磨・備前国境における戦国期石垣
──信長以前に花開いた「石垣先進地域」の実像
──信長より早かった、もうひとつの石垣文化
はじめに:信長起源説の再検討
日本城郭史における石垣の導入と発達は、織田信長による天下布武の象徴である岐阜城や安土城の築城を契機とし、続く豊臣秀吉による大坂城や、池田輝政らに代表される近世姫路城の整備へと至る「織豊系城郭」の確立プロセスとして語られることが一般的である。この理解では、それまで「土の城」として構築されていた中世山城が、16世紀後半に織豊権力の主導によって「石垣、天守、瓦」を備えた近世城郭へと脱皮したとされる。
しかし、近年の発掘調査および地表面悉皆調査の進展は、こうした史観に見直しを迫っている。織豊系城郭の先行する15世紀末から16世紀初頭にかけて、山城には石垣が導入されつつあった。その事例群が確認されるのが、西播磨(現在の兵庫県西部)から東備前(現在の岡山県東部)にかけての国境領域である。
この地域に位置する置塩城、感状山城、天神山城、三石城、富田松山城などの戦国期城郭群には、織豊系城郭のそれとは構築思想を異にする、石垣技術が存在していた。こうした自律性は、関東地方における北条氏独自の「顎止め石」技法(八王子城や太田金山城などで検出)や、中国地方における毛利氏領内の「立石」を伴う独特の石積み技法(「石つき之もの共」と呼ばれる石工集団による構築)と同様に、各地で並行して開花した技術系譜のひとつであった。播磨周辺の石垣文化は、織豊権力の覇権が及ぶ以前から、地質の利と在地の職人ネットワーク、そして成熟を遂げていたのである。
播磨・備前国境を貫く戦国石垣の諸相
播磨および備前東部で確認される戦国期の石垣は、画一的な規格に基づくものではなく、各城郭が置かれた状況や局面に適応しながら広がりを見せている。これらの石垣に共通する特質は、自然石をそのまま用いる野面積みを基本としつつも、地山の岩盤を粗割りした「粗割石」を石材としている点にある。
置塩城(兵庫県姫路市)-赤松則房-全城域に50箇所以上分布、土留め、石築地(ツラ合わせ)、見せる大石垣-瓦有(本丸等から散在)-元亀二年〜天正八年頃(1571〜1580)
感状山城(兵庫県相生市)-龍野赤松氏、浦上氏、宇喜多氏-全城域、南〜北曲輪西面(約90mの石塁)、南曲輪群腰曲輪(高さ4.5m高石垣)、隅角部は鈍角(丸み)-瓦無-元亀二年〜天正七年頃(1571〜1579)
天神山城(岡山県和気町)-浦上宗景、宇喜多直家-痩せ尾根の曲輪両側面に二〜三重の石垣、桜馬場南面石垣(高さ約2m、垂直積)-有(コピキA手法の瓦)-享禄五年(1532)〜天正八年頃(宇喜多氏改修期)
三石城(岡山県備前市)-浦上村宗、浦上宗景、宇喜多氏-大手虎口(高さ3m、垂直積、背後に栗石)、本丸内部に建物基壇(二段築造)-有(本丸周辺に散乱)-16世紀後半(1570年代以降、宇喜多氏改修期)
富田松山城(岡山県備前市)-浦上国秀、浦上景行、宇喜多直家-大手(城道西側、高さ2m垂直積、小振りな人頭大の石材)、二の丸天端に列石-瓦有(天正期宇喜多氏改修段階)-天文年間〜天正五年頃(1533〜1577)
この技術の一貫性は明瞭である。いずれの城郭においても、石垣は傾斜を持たせずほぼ「垂直」に積み上げられており、石材と石材の隙間が大きく開いているにもかかわらず、間詰石はほとんど使用されない。その一方で、裏込めには石材を割った際に出る細かなチップ(角礫)が「栗石(裏込石)」として充填されており、透水性と安定性を確保する排水システムが構築されていた。

さらに注目すべきは隅角(コーナー)の処理である。近世城郭の基準である「算木積み」のような長方形の石材を交互に組み合せる構造は見られず、感状山城に示されるように、直角を作らずに緩やかなカーブを描く「丸みを持たせた鈍角(シノギ積)」として処理されている。これは近世城郭の算木積みに比べれば技術的未熟さとみなされがちだが、限られた規格化されていない自然の粗割石を用いて、崩落しやすい高石垣の接合部を安定させるための、構造的解答であったと評価できる。

置塩城が示す三系統の石垣
播磨国最大の規模を誇る山城であり、赤松氏の中枢であった置塩城(兵庫県姫路市)には、地表面観察だけで城域全体に50箇所におよぶ石垣遺構が検出されている。これらを子細に分析すると、石垣が単一の防衛用構造物としてではなく、曲輪のゾーニングや政治的意図に応じて使い分けられていたことが窺(うかが)える。
第一の系統は、主郭の切岸裾部や天端周辺に認められる「土留めの石垣」である。これらの石垣は高石垣ではなく、5〜6段程度を局部的に積み上げた簡易な構造を採る。天端いっぱいに石が積まれている箇所はなく、上部に重量のある櫓や高層建築を支えるための土台ではなく、曲輪造成によって切り出された急傾斜地の表土や、マサ土の崩落を防ぐための「実用的土留め」としての役割を担っていた。
第二の系統は、第Ⅱ曲輪群と第Ⅳ曲輪群の間の城道(通路)の側面に配置された、「石築地(いしついじ)」である。この石垣は、切岸に張り付く土留めではなく、上部に土塀を乗せるための強固な「塀の基壇」としての性格を帯びている 。長辺1メートル前後の大振りな粗割石を横長に使い、ほぼ垂直に整然と積み上げられており、石の割れ面を意識的に外側に揃える「ツラ(面)合わせ」が徹底されていた。

この石築地は、遮断線というよりも、城主の居館エリアや政治的交渉が行われる「ハレの空間」へと至る格式高く演出し、境界を画定するための空間デザインであった。これは、15世紀に構築された白山平泉寺の巨大な中世寺院跡で検出された、往来を画定するための「石築地」の構造と酷似しており、中世の寺社建築における境内・坊院区画技術が、そのまま守護大名の居城へと輸入・転用された様子を示している。
第三の系統が、南西曲輪群に代表される「大石垣」である。この石垣には長辺2メートルにおよぶ巨大な自然石が用いられているが、ここは主郭でも、軍事動線たる大手虎口でもない。このような位置にあえて巨石を用いた理由は、置塩城が面する夢前川沿いの街道や、山麓の城下から見上げた際に、この南西斜面が「最も視覚的に際立って見える」ロケーションにあったためである。すなわち、外来者や領民に対して守護の支配力と動員力を視覚的に誇示するための、純粋に政治的・演出的な「見せる石垣」であった。これは、織田信長が永禄十年(1567年)に築いた初期岐阜城の虎口において、山麓から見える位置に長辺2メートル級の巨石を配した構造や、東摂津の佐保栗栖山城における「山麓に見せる巨石積」の思想とも共鳴する。

赤松氏が石垣を渇望した背景
播磨の名門である守護大名・赤松氏が、戦国期の山城にこれほど石垣技術を導入した背景には、「風化した花崗岩」という自然条件と、没落からの復興をかけて自らの「守護権威」を再構築する必要があったという二重の文脈が存在する。
播磨から備前にかけての地域は「花崗岩」および「流紋岩」を基盤とする山岳地帯であり、地山を切り開いて山城を造成する際、急激な課題と恩恵が同時にもたらされた。
表土の脆さと土留めの必然性:この地の花崗岩は地質年代を経る中で風化し、脆く崩れやすい「マサ土(真砂土)」に変化する。マサ土に覆われた斜面を人工的に削平(カット)して曲輪を造成すると、豪雨などによって切岸が崩壊するため、切岸を「石垣」によって被覆・補強することは避けて通れない要請であった。
節理による石材調達の容易さ:一方で、風化に耐えた地底の花崗岩には「節理(割れ目)」と呼ばれる格子状の亀裂が発達している。このため、特殊な採石技術がなくとも、節理に沿って打撃を加えるだけで、1メートルから2メートル程度の直方体に近い「粗割石」を現地で容易に切り出すことができた。すなわち、山を削る造成工事そのものが、同時に石材を生み出す「採石」プロセスを兼ねていたのである。
さらに、播磨の豊かな経済的背景がこの技術開発を支えていた。現在の宍粟市千種や佐用郡など、播磨北部の花崗岩地帯からは、純度の高い「真砂砂鉄(まささてつ)」が産出された。この上質な砂鉄は岡山・備前の名だたる刀匠たちに愛され、この地域一帯に「たたら製鉄」の産業圏を形成した。
たたら製鉄の隆盛は、山林資源の活用、広域の海運・陸運ネットワークの発達、そして何よりも「鉄器(金属製工具)」の豊富さをもたらした。この豊富な金属工具の流通により、石ノミやバチといった石材加工用ツールが広く普及し、地元の職人たちは硬質な花崗岩や、高砂周辺で採掘される「竜山石(凝灰岩)」を荒削りし、石造物や城郭石垣に加工する土木ノウハウを蓄積することができた。

政治的観点から見れば、赤松氏は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で将軍・足利義教を暗殺し、幕府軍の討伐を受けて一度は宗家が没落した歴史を持つ。その後、赤松政則の代に神璽復興の功績により守護職に復帰し、白旗城から置塩城へと居城を移した。
政則にとって、失墜した赤松氏の「守護権威」を播磨の内外に示すことは至上命令であった。置塩城の山上には、軍事シェルターではなく、枯山水庭園や金箔を伴う大規模な礎石建物、瓦葺きの本殿が構えられ、将軍を迎えられる格式の高い空間が構築された。この政治的空間を縁取る「垂直の石築地」や「見せる大石垣」は、赤松氏の復興と権力を誇示するビジュアルメディアだったのである。

こうした赤松氏の「石垣への強いこだわり」を示す血脈は、後世にも受け継がれた。赤松一族であり、後に豊臣秀吉に従って但馬竹田城主となった赤松広秀は、土塁の城であった竹田城を、「天空の城」として知られる総石垣造りへと改修している。この事実からも、石垣を権威の象徴として好んだ赤松氏の「城郭思想」の系譜を見出すことができる。

播磨・備前国境ネットワークと領主間抗争
西播磨から東備前にかけて連なる城郭群は、境界をめぐる軍事的抗争の最前線でありながら、同時に高度な「技術情報が流通する巨大なネットワーク」でもあった。この国境地帯における浦上氏、宇喜多氏、そして赤松氏らの衝突と連携が、石垣構築技術の伝播と相互補完的な成熟を促した。
特に三石城、天神山城、感状山城を比較分析すると、これらが防衛思想において結びついた「同一の地域技術文化圏」を形成していたことが鮮明になる。
16世紀前半、播磨・備前の覇権を握った浦上村宗が三石城を本拠として挙兵し、守護・赤松義村と対立した際、この国境周辺は緊迫した戦域となった。三石城の大手虎口に築かれた、高さ約3メートルに達する石垣は、その年代比定をめぐって議論が続いてきた。かつては16世紀前半の浦上村宗の全盛期(永正十五年〜享禄三年:1518〜1530)に構築された先進的な事例とされたが、現在の考古学研究では、本丸内部の建物基壇的な初期石垣を浦上氏段階、それを改修して大堀切を穿ち、虎口を囲い込んだ三の丸先端や大手の石垣を天正期(1570年代以降)の宇喜多氏支配段階とする、二層の技術階層モデルが提示されている。これは、国境の要衝において、新たな領有主が先行世代の石垣を吸収し、さらに高度な防御施設へとバージョンアップしていった実態を示している。

同様の伝播は、浦上宗景の本城であった天神山城や、在地領主の岡氏が拠った感状山城の石垣にも顕著に見出される。天神山城では、痩せ尾根の急斜面に二重・三重の石垣を重ねて遮断線を築いており、感状山城では南〜北曲輪の西面に長さ約90メートル、高さ1.5〜2メートルにわたる長大な垂直の石垣壁面が一直線に構築されている。

感状山城は、豊富な出土遺物(中国産陶磁器、高級茶器、備前焼など)から、かつては山岳寺院として利用されていた可能性や、龍野赤松氏、さらには浦上氏や宇喜多氏の支配下で、国境最前線の政治・軍事・文化拠点として改修された経緯を持つ。感状山城の南曲輪群二段目腰曲輪にそびえる高さ4.5メートルの高石垣は、戦国期の山城が到達し得た、土留めの域を超えた「防衛用総石垣」としての極致を示している。
これらの国境城郭が共有する、
地山の岩盤をその場で粗割りして石材とする工法
垂直に積み上げる技術的意図
隅角部をなだらかなカーブ(鈍角)で収める「丸み」の技法
石を切り出す過程で副産物として生じる細かなチップを、そのまま背面に「裏込栗石」として再利用する合理性
特定の覇権大名の命令によって一から導入されたのではなく、国境をまたぐ石工職人集団の往来や、攻防戦を通じた技術の相互観察によって蓄積された「地域技術」として機能していたのである。
独自に成熟した一系統としての歴史的評価
これら播磨・備前の戦国石垣は、近世織豊系石垣に見られる「算木積み」や「明瞭な法面(傾斜角)の設計」、「規格化された割石・打込接ぎ」を伴わないことから、長く「近世城郭に至る前の未熟な過渡期のもの」と過小評価される傾向にあった。しかし、中世山城の土木構造における「実用的適応」という観点に立てば、この評価は事実に即していない。
当時の播磨における石垣構築の目的は、天守や巨大な多門櫓、城壁といった「数千から数万トンに及ぶ高層超重量建造物」を支持することではなかった。当時の要請は、脆い風化花崗岩の切岸崩落を防ぎ、山上の限られた平坦地を画定し、城外や山麓に対して領主の威光を誇示する、という機能要件に絞られていた。
この目的において、余計な手間をかけずに地山から容易に切り出せる粗割石を用い、背面に裏込栗石を敷き詰めることで、豪雨時でも土砂崩れを起こさない「排水性に極めて優れた垂直積みの石垣」を構築する技術は、戦国期の環境において合理化され、「自律的で成熟した一系統」であったと捉えるべきである。
この独自の技術系統が、新時代の規格である「織豊系城郭技術」と衝突する画期となったのが、天正八年(1580年)前後の羽柴秀吉による播磨侵攻と平定、およびそれに伴う「播磨一国破城(城割り)」であった。
「羽柴秀吉播磨九城城割り覚」(一柳文書)には、破却対象の筆頭として「置塩之御城之事」が挙げられている 。
国中城わるへき覚
一、置塩之御城之事、小野木清次、山崎四郎右衛門
秀吉によって破却が命じられた播磨の主要9城は、以下の通りである 。
置塩城(赤松氏の本城、播磨最大規模の山城)
御着城(小寺氏の居城、姫路東方の要衝)
高砂城(播磨南部の臨海拠点)
神吉城(東播磨の重要拠点)
阿閉城(播磨南西部の臨海城郭)
梶原古城(別所氏に関連する要害)
明石城(東播磨の国境・交通の要衝)
平野城(播磨中部の地域拠点)
東条城(東播磨北部の山城)
この「播磨一国破城」において、小野木清次や山崎四郎右衛門といった秀吉の奉行人が現地を監査し、城郭を無力化させた。この段階で置塩城の城主であった赤松則房はすでに織田信長・羽柴秀吉に恭順し、その軍門に下っていたが、置塩城の技術に信長の影響は一切見出せない。置塩城の石垣は、信長の影響を受けないまま、播磨の自律的技術の極致として完成し、そして廃城の時を迎えたのである。
廃城後、置塩城の主要な木材や石垣の石材、瓦などの部材は、秀吉が改修を進める新たな拠点・姫路城へと一持ち去られ、再利用された。しかし、この段階における秀吉の姫路城の石垣は、出隅に算木積みを多用し、壁面に傾斜(反り)を持たせて重量級の櫓を支えるという、定形化された「織豊系石垣」であり、置塩城の工法とは明らかに異なっていた。

このことは、地域の石積み技術だけでは、新時代の「天守や高石垣」といった巨大な建築負荷を支えることが不可能であった。宇喜多氏や毛利氏が天正後半以降に築いた撫川城、常山城、金川城、岡山城、広島城において、地元の技術を捨て、姫路城や大坂城と同様の織豊系高石垣を一斉に導入した事実が、そのパラダイムシフトを物語っている。
しかし、播磨の技術は決して歴史の闇に埋没したわけではない。戦国期を通じて播磨や備前東部で「大量の石材を現地調達し、急速にほぼ垂直に立ち上げ、高い排水性能を維持する」という経験を蓄積した大勢の在地職人や石工たちは、秀吉による大坂城築城や姫路城の度重なる大改築に動員された。彼らは中央の「織豊系城郭技術」のシステマチックな力学設計を吸収・融合させることで、近世日本の一流の「石工集団」へと進化していったのである。戦国期に播磨で開花した石積みの経験値こそが、近世日本の誇る高石垣技術の揺り籠(ベースプラットフォーム)を形成したといっても過言ではない。
結論:播磨は「石垣先進地域」であったか
以上の検討から、播磨国および備前東部は、織豊大名の主導による城郭の近代化を待つまでもなく、日本列島において早い段階から石垣構築技術を創出し、実用性と調和させていた「石垣先進地域」の一つであったと結論づけられる。
この地域が果たした役割は、信長の登場を待つだけの未熟な前史(過渡期)ではない。風化した花崗岩(マサ土)がもたらす急傾斜の地すべりという土木的危機に立ち向かうため、節理の恩恵を活用して地山から石材を切り出し、金属工具を多用して垂直かつ美しくツラを合わせた石垣を構築する、という完成形態であった。そして、嘉吉の乱からの名誉ある復興を目指した守護・赤松氏の政治的演出の情熱(「見せる大石垣」や「石築地」の創出)が、この技術を単なる土留めの補強から、建築空間のシンボルへと引き上げる推進力となった。
中世の伝統的な寺社造営技術をルーツとし、播磨・備前国境を越える戦国領主間ネットワークを通じて共有・洗練されたこの技術は、やがて豊臣政権という巨大な国家規格に呑み込まれながらも、大坂城や姫路城といった世界に誇る近世城郭の現場を支える職人技術へと血肉化され、継承されていった。置塩城や感状山城の急峻な山上に、今なお風雨を耐え忍んで屹立する垂直の戦国石垣群は、織豊系城郭前夜にこの播磨の地で開花した、名もなき石工たちと守護大名たちの技術的誇りと覇気の記念碑なのである。
この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した
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