狗尸那城 (1)
別名:新鹿野城
所在地:鳥取県鳥取市鹿野町鷲峯,因幡国
形式:山城
遺構:曲輪、横堀、竪堀、堀切、土塁、切岸、虎口、礎石建物跡、石積み、つぶて石など
主な城主:山名氏(但馬系因幡守護)、尼子氏、毛利氏、亀井茲矩
指定:国・県・市指定史跡などの文化財指定は無し
──西因幡に浮上した「もう一つの鹿野城」
──因幡戦国史の縮図
第一章:もう一つの鹿野城
因幡国気多郡に位置する鳥取市鹿野町周辺は、南北に走る急峻な山稜と河川の侵食によって生じた4つの主要な谷筋(逢坂谷、勝谷、瑞穂谷、宝木谷)が指を広げたように交錯する複雑な地勢を有している。平地部での視界や移動を制限するため、この地域を管轄する領主にとっては監視および防御設計上の重大な課題であった。
城下町を見下ろす妙見山の山頂に位置する近世鹿野城(標高約150メートル)は、城下町の統治や平時における領国行政の拠点として立地を誇る。しかしながら、東西を遮る山稜の影響により、鹿野城の視界は東側の瑞穂谷や宝木谷に限られ、西側の逢坂谷や勝谷の動向を視認することは不可能であった。

この視界上の死角を指針として補完する位置に構築されたのが、標高約349メートル(約350メートル)の稜線上に佇む(たたずむ)狗尸那(くしな)城である。狗尸那城は鹿野城よりもさらに南側の後方に退避した高所に立地し、鹿野郷を構成する全4谷を一望できる視界の広さを確保している。さらに直下には因幡国と伯耆国を繋ぐ主要幹線である河内三朝街道が通っており、国境線の往来を扼する(やくする:強くおさえる、要所をしめる、しっかりつかむという意味)構造となっていた。狗尸那城からは尼子方の拠点であった小畑高尾城や毛利方の宮吉城を視認することが可能であり、広域的に統制する機能を担っていたことが確かめられる。

このような地勢的対比から見えてくるのは、両城が相互に競合する存在ではなく、平時運用と城下町支配を担当する鹿野城と、戦時拠点および広域監視・国境防衛を担当する狗尸那城という、「相互補完関係」にあったという実態である。
【鹿野城(妙見山)-狗尸那城(鷲峰山北麓)】
標高および占地-標高約150m(低山・平地隣接)-標高約349m(独立峰状高所)
直接視認可能領域-鹿野城下町、瑞穂谷、宝木谷-逢坂谷、勝谷、瑞穂谷、宝木谷(全域)
主たる監視対象-城下町の経済・行政、平時領民統治-河内三朝街道、因伯国境、敵陣城(小畑高尾城等)
機動性と防御性-麓との往来が容易で機動性に優れる-登城は困難だが防御性と広域視界に優れる
構造的役割分担-「城下町を支配する城」(平時拠点)-「地域全体を監視・統制する城」(戦時拠点)
第二章:実戦要塞と大型御殿の同居
狗尸那城の構造における特長は、要塞設備群と上級武士の居館としての建築物が一重の城郭内に共存しているという点にある。鳥取県埋蔵文化財センターによる調査でも、この状況は「構造的アンバランス」として評価されている。
本城の防御設計を見ると、西側斜面からの敵の侵入を警戒した構築がなされている。曲輪の直下には長さ約60メートルに及ぶ箱堀状の「横堀」が掘り込まれ、これに直結する形で「竪堀」が連続して組み込まれている。この堀構造は城内兵士の遮蔽通路として機能すると同時に、攻城側に対して縦方向・横方向双方の自由な移動を制限する効果を持っていた。さらに、主要な曲輪の周囲は高低差4メートルから15メートル以上の峻険な切岸で覆われ、敵兵の接近経路を見下ろす切岸天端や土塁上の計4箇所からは、攻撃用投擲兵器である「つぶて石(河原石の集積)」が検出されている。

こうした緊迫した戦闘環境の中心に位置する最高所の曲輪(30メートル×22メートル)において、桁行5間(柱間平均197センチメートル)×梁行4間(柱間平均202センチメートル)に三方庇を伴う大型の礎石建物跡が検出された。庇を除いた身舎の規模だけでも9.9メートル×8.1メートルにおよび、自然石の平坦面を整然と上に向けて並べた礎石列で構成されている。出土遺物に瓦類が含まれないことから、この建物は板葺きまたは檜皮葺きの屋根を備えていたと推定され、一時的な兵舎や倉庫ではなく、会所、主殿、あるいは政務を執るための御殿風建築であったことが判明している。
山頂主郭にこのような居住・政務施設を配置する形式は、16世紀中葉から後葉にかけて見られる山城の進化軌跡と整合している。戦国大名の権力が強化されるにつれ、従来は臨時の砦や軍事拠点に過ぎなかった山城が、政治的威信を示し常時の政務・接遇を執り行い得る「政治空間」へと転換を果たした姿を狗尸那城は物語っている。
三方に庇を備えたこの建物は、戦国山城では鳥取県内初の発見であり、戦国大名や国人領主クラスの居館であった可能性が高い。

狗尸那城-主郭(標高349m山頂)-5間×4間(三方庇付)-非瓦葺(板葺/檜皮葺推測)-16世紀後葉(織豊期山城前夜)
鹿野城-西の丸(標高150m山頂)-8間×7.5間-瓦葺(滴水瓦・コビキB痕瓦)-17世紀初頭(亀井茲矩整備期)
清水山城-主郭(滋賀県・標高210m)-6間×5間(三方庇付)-非瓦葺(板葺/檜皮葺推測)-16世紀後葉(高島七頭越中氏期)
第三章:発掘調査が明かす「三段階」の縄張拡張プロセス
発掘調査によって得られた遺構の切り合い関係や盛土層の解析、出土陶磁器の編年対比により、狗尸那城は単一の時期に構築されたものではなく、状況の変化に応じて少なくとも「三段階」の拡張・改修を経て形成されたことが裏付けられている。
第1段階は、15世紀半ばから16世紀前半に位置づけられる初期の段階である。この時期の遺構は曲輪が外郭部に残されており、地形の起伏をそのまま利用した小規模な階段状の曲輪群と、高低差が低く角度も緩やかな切岸によって構成されていた。出土遺物として15世紀後半の中国産青磁碗、瀬戸・美濃の天目茶碗、備前焼の擂鉢、および糸切り底の土師器皿が検出されており、この段階から一定の居住や生活の営みが存在していたことが証明される。
第2段階は、16世紀中葉から後葉の軍事的緊張の高まりに対応した大規模な要塞化の段階である。この改修により、盛土造形と削平拡張が行われ、同時に曲輪の周囲に高低差7メートルから15メートルに及ぶ急峻な切岸が削り出された。さらに、西側斜面を覆う横堀および連続する竪堀群、土塁の増設が挙行され、主要部への攻城ルートを外周へ長距離迂回させるなど、戦闘面での防御力が著しく高められた。
第3段階は、16世紀後葉における主郭の最終整備と政治機能の付加段階である。主郭の平坦面が精巧に再造成され、大型の礎石建物が建設された。これに伴い、曲輪と曲輪を接続する平石敷きのスロープ状虎口が新設され、御殿への格調高いアプローチが整えられた。
第四章:因幡山名氏の終焉と支配勢力の交替史
狗尸那城の変遷は、15世紀末から16世紀末にかけて因幡国を駆け抜けた動乱の歴史を如実に反映している。
文献史料および伝承によれば、応永8年(1401年)頃に山名満幸の遺児である三十郎幸康が鷲峰山に居城を構えたと伝えられ、永正・天文年間には但馬守護山名氏の勢力下で気多郡統治の拠点として機能していたことが指摘されている。永禄7年(1564年)、但馬系因幡守護である山名豊数らが布施天神山城から撤退した際、身を寄せた鹿野の山城こそが、この改修期にあたる狗尸那城であったと考えられている。すなわち、本城は因幡山名氏の権能が潰えゆく過程における「最後の山城」としての推測が成り立つ。
その後、因幡をめぐる覇権は尼子氏、毛利氏へとめまぐるしく移動した。元亀4年/天正元年(1573年)、毛利輝元は鹿野山城の在番であった野村士悦に対し「因伯仕切りの城」として再建を発令しており、この時期に毛利方の手によって第2段階から第3段階に連なる改修が施されたと推測される。一次史料において当時「鹿野」あるいは「鹿野新山」と呼ばれていた城郭こそが、狗尸那城の実体であった。

織田方の武将として豊臣政権下で鹿野に入封した亀井茲矩は、領内の地理や城郭に仏教にちなんだ名称を与える試みを断行した。王舎城(近世鹿野城)や金剛城と並び、古代インドの仏教聖地「クシナガラ(拘尸那掲羅)」に因んで命名されたのが「狗尸那城」という城名である。

ここで興味深いのは、亀井氏が慶長年間に近世鹿野城を整備した際に使用された「コビキB技法」による瓦や朝鮮出兵以降の「滴水瓦」が、狗尸那城からは出土しないという事実である。主郭の礎石建物が文禄の役(1592年)以前、すなわち毛利統治期の終わりから亀井氏の入封初期(天正年間)にかけて建設されたことを裏付けている。したがって、山名氏から尼子氏、毛利氏、そして亀井氏へと至る各大名家が、自らの要求に応じて段階的に改修の結果として、狗尸那城の遺構群が形成されたと結論づけられる。
第五章:総括―複合山城としての至高の価値
狗尸那城跡の全貌は、単なる一地方の砦という山城観を破砕するインパクトを秘めている。
本城は、峻烈な戦う城としての軍事性(第2段階の堀・切岸・つぶて石)を保持しながら、戦国大名の権意を体現する政治的居館(第3段階の大型礎石御殿)を包含させた、戦国後期における「軍事・政治・居住」の複合体として結実した姿を示している。さらに、その構造的変遷は、15世紀の山名氏の黄昏から16世紀末の亀井氏の入封に至る西因幡の劇的な領主交代劇を正確に刻み込んだ「因幡戦国史の縮図」そのものであると言える。

近世城郭である鹿野城と、中世山城の到達点を示す狗尸那城という「二つの鹿野城」が目と鼻の先に現存する地勢環境は、日本城郭史においても稀有な文化的資産である。出土遺物の再整理や山麓の寺院跡(古仏谷の抱月寺跡など)との更なる究明を通じ、西因幡における戦国動乱の謎が今後さらに解き明かされていくことが期待される。
【鳥取県埋蔵文化財センターによる戦国の山城狗尸那城動画】
この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した
この記事をごらんいただけましたら、「スキ」ボタンを押していただくと、励みになります。
また記事の内容が気に入っていただきましたら、このような歴史関連の記事を執筆してきたいと思いますので、フォローして頂くと大変嬉しいです。
