見出し画像

利神城

  • 別名:雲突城(うんとつじょう)、平福城

  • 所在地:兵庫県佐用郡佐用町平福,播磨国

  • 形式:連郭式山城(標高373mの利神山に築かれた山城)

  • 遺構:石垣、曲輪(郭)、横堀(空堀)、堀切、山麓御殿跡・居館跡

  • 主な城主:所氏、宇喜多氏(宇喜多直家・秀家系)、池田由之・池田氏

  • 指定:2017年国指定史跡

──雲突城の謎を剥ぐ
──池田由之の「虚像」と埋もれた重層的城郭の真実


平福の町を見下ろす「雲突城」

兵庫県佐用郡佐用町平福の背後に聳え立つ標高373.3メートル、比高250メートルの利神山。その峻険な山頂に、東西300メートル、南北500メートルに及ぶ壮大な城郭遺構、利神城(りかんじょう)が眠っている。利神城は別名「雲突城(くもつきじょう)」とも呼ばれ、古くからその威容が人々に語り継がれてきた。

城下から利神城を見上げる/2022/6/投稿者が撮影

この「雲突城」という詩的な名が生まれた背景には、因幡街道の要衝として栄えた平福宿の気候がある。平福は古くから朝霧の名所として知られ、秋から冬にかけての早朝には深い霧が山麓を包み込む。その際、山麓からは山頂の城郭部分のみが雲海を突き抜けるように浮かび上がって見える。この天界にそびえるかのような視覚効果は、街道を行き交う旅人や領民に対し、城主の権威を物理的かつ視覚的に知らしめる装置として機能的であった。

利神城は、単に軍事的な防衛拠点であっただけでなく、因幡街道と佐用川という水陸双方の交通を監視下に置く、支配のモニュメントであったと言える。

ChatGTPが作成した雲突城のイメージイラスト

天守丸から三の丸へ続く壮大な総石垣

利神城の中枢部を形成するのは、山頂部に展開する「天守丸」「本丸」「二の丸」「三の丸」の四つの主要曲輪であり、それらの周囲は総石垣によって防備されている。最高所に位置する天守丸は不等辺五角形の平面形状を持ち、その南西隅には三層天守がそびえ立っていたと考えられている。

天守丸から北方へ一段下がった位置には本丸が南北に細長く配置され、中央部には侵入者の勢いを削ぐための内枡形虎口が構えられている。本丸のさらに一段南側が二の丸であり、天守丸から見て西側の急斜面下方に三の丸が配されている。これらの中枢曲輪群を強固に結ぶのが、二の丸から三の丸にかけて斜面を覆い尽くすように構築された壮大な「石垣長城ライン」である。

利神城:赤色立体地図に投稿者が加筆
  • 天守丸-山頂最高所の不等辺五角形曲輪。南西隅に三層天守を配置。-城郭のシンボルであり、最終防衛拠点。

  • 本丸-天守丸の東側に南北に長く配置。中央に内枡形虎口を構築。-城政の中枢。大規模な枡形による厳重な出入管理。

  • 二の丸-本丸の南側、一段低い位置に配置。複数の小曲輪と接続。-本丸南方の防衛。三の丸方向への連絡路を制御。

  • 三の丸-天守丸の西側急斜面下方に展開。北面中央に大手口虎口を配置。-山麓居館からの登城路を受け入れる、実質的な大手前面防御。

  • 鵜の丸(鴉丸)-本丸の北側に位置する曲輪。-「水の手曲輪(水源地)」としての機能を担ったと推測。

  • 馬場-二の丸の南側、一段下がった尾根続きに配置。先端は二重堀切で処理。-兵馬の集積・訓練、および南側尾根筋からの敵侵入を遮断。

  • 大阪丸-天守丸から北西に延びる尾根上に設けられた曲輪。-山麓のうわがみ門から三の丸へ至る登城路の側面防御。

  • 御殿屋敷跡-西山麓、現在の平福駅北側に位置する政治的・生活空間。-近世平福領主の居館。巨大な「うわがみ門」と石垣を構える。

中世城郭が「土造り(土塁や空堀)」であるのに対し、利神城は近世初頭の石垣技術を取り入れることで、急峻な地形を垂直の障壁へと変貌させた。山麓には「うわがみ門」と呼ばれる枡形虎口を持つ御殿屋敷(居館部)が配置され、ここから山上の中枢部へと続く登城路には竪堀が併走し、側面を大阪丸が掩護するという、山上と山麓が一体となった完成度の高い防御システムが構築されていた。

利神城天守台跡/2022/6/投稿者が撮影
利神城石垣隅部/2022/6/投稿者が撮影
利神城から城下方面/2022/6/投稿者が撮影

倭城と利神城の関係

利神城の構造を中世から近世への過渡期という視点で分析する際、避けて通れないのが、16世紀末の豊臣政権による「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」において朝鮮半島南岸に築かれた「倭城(わじょう)」との類似性である。

倭城は、急峻な山頂に本城(石垣で囲まれた本丸や天守)を置き、そこから山腹斜面、さらには山麓の港湾や居館に向けて斜面を遮断する「登り石垣」や石垣ラインを特徴とする。これは、海からの補給線を維持しつつ、背後の明・朝鮮連合軍の陸上攻撃をシャットアウトするための実戦的な構造であった。代表的な倭城である「順天倭城」の築城には、まさにこの利神城をのちに領有する宇喜多氏の当主・宇喜多秀家が関与していた。

順天倭城の石垣/ウキペディアより引用

利神城において、天守丸から二の丸、そして西側の三の丸へと下る急斜面に築かれた、あの「石垣長城ライン」や、山上の中枢部と山麓の「うわがみ門」を有する御殿屋敷を竪堀や登城路で連結する設計は、山頂の軍事拠点と麓を一体化させる倭城の縄張りである。

特に、加藤嘉明が朝鮮半島での築城経験(安骨浦城など)を日本に持ち帰り、伊予松山城に「登り石垣」を導入したように、宇喜多秀家あるいはその技術的配下にあった石工集団が、朝鮮半島での経験を通じて得た最新の「斜面防備・集約型城郭」のノウハウを、播磨西端の要衝である利神山の普請に投入した可能性は、遺構の類似性から示唆される。

従来説――池田由之が築いた近世山城

大正15年に編纂された『佐用郡誌』をはじめとする従来の通説において、現在見られる総石垣の利神城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後に播磨に入封した池田輝政の甥、池田出羽守由之(よしゆき)が、一から大加修を施して築き上げた「近世山城」であるとされてきた。

この「由之築城説」に付随して語られるのが、有名な「釜須坂(かますざか)の伝説」である 。由之は平福領主として入封すると、5年の歳月を費やして山上に三重の天守をそびえ立たせ、山麓の居館を贅を尽くした壮麗なものに改修した。ある時、本城である姫路城から池田輝政が利神城へ向けて出立した。輝政が播磨と美作の国境近くにある釜須坂を越えた際、前方に突如として現れた利神城の三重天守と総石垣の、壮大で美しい威容に驚愕した。輝政は「これほどまでの城を築くとは、由之に謀叛(異図)の心あり」と疑念を抱き、入城することなく引き返してしまった。その後、輝政の命によって慶長10年(1605)頃に天守は破壊され、由之自身も慶長12年(1607)に米子へと退去させられたという物語である。

池田輝政像/鳥取県立博物蔵

この伝説は、安永8年(1779)に執筆された古城記『播州佐用郡平福古城山由来』がソースとなっており、江戸時代中期以降、近世山城の終焉と領主交代を説明するためのプロットとして定着していた。

しかし、石垣と瓦は由之以前の存在を示していた

近年の考古学的調査と城郭研究の進展は、この劇的な「池田由之一代築城説」を物的証拠によって瓦解させることとなった。

1990年代に城郭談話会が実施した縄張りおよび遺構調査(『播磨利神城』1993年)において、山上に散乱する多数の「瓦」が分析された。その結果、出土した瓦片の中に、天正11年(1583)以前の古い成形技法で作られた「コビキA手法」の平瓦が多数含まれていることが判明したのである。コビキA手法とは、瓦を粘土から剥ぎ取る際に布を用いず、木型に粘土を叩きつける織豊期極初期に見られる手法である。これにより、池田由之が慶長6年(1601)に入封する20年近くも前の天正年間(織豊期)において、利神山頂には瓦葺き建物が存在していた事実が確定した。

利神城の瓦/2022/6/投稿者が撮影

さらに、石垣そのものの技法的な新旧差異も、この知見を裏付けている。天守丸の北面の一部や馬場の一角に使用されている石垣は、石材の選定(火成岩と水成岩の不混和性)や、角石・角脇石の配置、噛み合わせの編年分類において、天正年間(1580年代)の構築手法を示している。

利神城の虎口/2022/6/投稿者が撮影

さらに『佐用郡誌』が「由之が贅を凝らした別荘」と断じた山麓の「口長谷構(別所構)」についても、平成4年度(1992)に実施された発掘調査によって、出土した遺物の大半が15世紀後半から16世紀後半のものであることが実証された。17世紀初頭に入封した由之がここで奢侈(しゃし)に耽った(ふけった)ことを示す高級陶磁器などは出土せず、この伝承自体が後世の創作、あるいは誤認であったことが証明されている。

創築者は別所氏ではなく内海氏だったのか

利神城の起源をめぐる歴史言説もまた、再検討の波に洗われている。

通説では、貞和5年(1349年、南朝の正平4年)に、播磨の守護大名・赤松氏の一族である別所五郎左衛門敦範(あつのり)が、白旗城の北辺防衛ラインを構築するために利神山頂に城を築いたとされてきた。敦範はこの時、山麓の「別所構(殿町)」に居館を置き、そこから番城山(標高300メートル)を経由して山頂に至るルートを旧大手道としたと伝えられる。

しかし、中世史料である『赤松家播備作城記』を紐解くと、これとは異なる創築者の名が浮かび上がる 。

平福、利神山城 佐用郡江川庄 内海修理(藤原姓熱田ノ大宮司ノ末孫初築之元弘年中居城)、別所日向守(再営之居城)……

赤松家播備作城記

ここには、元弘年間(1331〜1334年)の段階で、すでに「内海修理(うつみしゅり)」が利神山城を「初築」して居城としており、その後に別所氏がそれを「再営(再構築)」したと明記されている。この内海修理とは、『太平記』に登場する南朝方の有力武士、内海十郎範秀(巻32「神南山合戦」)や内海修理亮光範(巻34「桔梗一揆」)と同族、あるいは近い人物であると考えられる。鎌倉末期から南北朝の動乱期において、佐用郡江川庄を支配していた地元国人の内海氏こそが、利神山に最初の城砦を築いた主役であった可能性は高い。

また、後継となった別所氏の認識についても、歴史的な混同が存在した。利神城主となった佐用別所氏は、のちに織田信長・羽柴秀吉に頑強に抵抗して三木城で滅亡した「三木別所氏(赤松惣領家被官)」とは系統を異にしている。佐用別所氏は、惣領家と対立していた「赤松七条家」の被官であった。赤松七条家は、嘉吉の乱(1441)の際に惣領家を攻めた山名方に与した系統であり、通説はこれら二つの別所氏の系譜を混同し、一様に赤松忠臣としての物語の中に回収してしまっていたのである。

宇喜多氏時代の城主「服部勘助」は実在したのか

天正6年(1578)、羽柴秀吉の中国地方進攻に際し、利神城は尼子勝久・山中幸盛らの軍勢によって攻略され落城した。その後の混乱期を経て、利神城を支配したのは、毛利方に属し、後に豊臣政権下で台頭した備前の戦国大名・宇喜多氏であった。

通説では、天正8年(1580)に播磨国の一部を領有した宇喜多秀家(あるいは直家)が、家臣の「服部勘助(服部勘介)」を利神城に入れ、赤穂・佐用の二郡を支配させたとされてきた。服部勘助は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで宇喜多氏が西軍に属して敗北し改易されるまで、この地を統治し続けたとされる。

宇喜多秀家像/市原寿一筆/岡山城蔵)

しかし、宇喜多氏の家臣団の陣容や知行高を克明に記録した一級史料である『浮田家分限帳』の全頁を精査しても、「服部勘助」という名の人物、あるいはそれに該当すると思われる同姓の有力家臣は一人として見当たらない。

この事実は、宇喜多期における利神城支配のあり方に謎を提示する。なぜ実在の確認できない「服部勘助」という名が城主として定着したのだろうか。宇喜多氏の重臣であった明石全登や戸川達安といった面々は、お家騒動(宇喜多騒動)や関ヶ原の戦いののちに他家へと仕官、あるいは流浪しており、敗者としての宇喜多氏の統治記憶が江戸時代を通じて曖昧化される過程で、現地で「服部勘助」なる架空の、あるいは身分の低い代理城代の名前へとすり替わった可能性がある。

しかし、実在が疑わしい城主の名とは対照的に、山上の「天正期の石垣」と「コビキA手法の瓦」は、この時代に大規模な石垣普請と瓦葺き建物の造営が行われていた事実を、まぎれもなく証明している。

利神城は複数の時代が重なった「重層的城郭」

これらの知見を統合すると、利神城は「池田由之が一代で完成させた近世山城」ではなく、複数の異なる権力とその時代の意志が地層のように積み重なった「重層的城郭」として再定義されるべきである。

  • 第1層:中世山城期-14世紀前半(元弘年間〜南北朝期)/ 内海氏・佐用別所氏-山頂部の限定的な土塁・堀切。南麓の「別所構」居館、番城山旧大手道-『赤松家播備作城記』、『太平記』の記述。別所構跡からの15〜16世紀遺物

  • 第2層:織豊期(宇喜多期)-16世紀末(天正8年〜慶長5年頃)/ 宇喜多秀家-天守丸北面の一部石垣、馬場の基礎石垣、山頂の初期瓦葺き建物-角石・角脇石の天正期技法。コビキA手法の平瓦(天正11年以前製造)

  • 第3層:近世初期(池田期)-17世紀初頭(慶長6年〜寛永8年)/ 池田由之・長政・良正院・輝興-三重天守の造営(のち破却)、本丸・二の丸・三の丸の総石垣化、山麓「御殿屋敷・うわがみ門」-発達した算木積み石垣。池田家の「揚羽蝶紋」・「貝紋」鬼瓦

利神城の魅力は、その景観の美しさだけではない 。元弘年間に地元国人が築いた土造りの砦から、宇喜多氏が倭城改修ノウハウを投影したであろう織豊期の初期石垣城郭、そして池田氏による完成された算木積み石垣と、戦国から近世へと至る日本の土木・城郭建築の進化のすべてが、利神山という一つの空間に積層し保存されている点にある。

利神城の曲輪跡/2022/6/投稿者が撮影

なぜ壮大な城は短期間で役目を終えたのか

これほどまでに壮大な「重層的城郭」が、なぜ完成からわずか四半世紀ほどの短期間でその役目を終え、歴史の表舞台から退場することになったのだろうか。その背景には、関ヶ原の戦い直後における「西国地政学の劇的な変化」が存在していた。

まず、池田由之の人物像について再検討する必要がある。従来説では「野心に走り、身の程知らずな豪奢な城を築いて輝政の不興を買った」とされる由之だが、由之の業績を記録した『奉公書』によれば、彼は池田家中において高い地位を占め、備前下津井城や伯耆米子城の普請、さらには駿府城や名古屋城の天下普請にも派遣された、当代随一の「国家レベルの築城エンジニア」であった。

由之が利神城において実施した天守造営と総石垣の大改修は、彼の私的な野心の産物などではなく、伯父である池田輝政の防衛戦略に基づいていた。関ヶ原の直後、利神城のすぐ西側に位置する備前・美作には、豊臣恩顧の小早川秀秋が51万石で入封していた。いつ不測の事態(豊臣方による逆襲や一揆)が勃発するか分からない状況において、西国から京都へ至る因幡街道の喉元を扼する(やくする:強くおさえる、しっかりつかむ、要所を占める)利神城を「絶対に抜かれない難攻不落の巨大要塞」へと仕立て上げることは、池田家ひいては徳川家にとって重要な軍事ミッションであった。

しかし、この過度の緊張状態はあっけなく解消されることとなる。

利神城の曲輪跡/2022/6/投稿者が撮影

慶長7年(1602)、小早川秀秋が無嗣のまま急死し、小早川家が除封(改易)されたのである。これに伴い、備前・美作の地は池田輝政の実子である池田忠継(のちに池田忠雄)らが相続することとなった。播磨と備前の国境は「敵対勢力との最前線」から「池田一門の絶対的な内海支配域」へと一瞬にして変貌したのである。

この段階で、利神城が持っていた最前線要塞としての存在意義は消失した。軍事力(三重の天守や総石垣)の維持は、同盟大名や幕府から警戒を招くだけの足枷となりかねない。輝政が天守の破却を命じたとされるのは、由之への猜疑心ではなく、変化に即応した「実利的な軍縮政策」であったと考えるのが、歴史記述として妥当である。その後、寛永8年(1631)に最後の城主となった松平輝興が赤穂へ転封となったことで、この巨大要塞は放棄され、平福は城下町から平穏な宿場町へとその姿を変えたのである。

崩落する石垣と、現在進む保存整備

廃城から約400年、利神城は今、大自然の侵食という新たな脅威に直面している。

利神城の石垣/2022/6/投稿者が撮影

平成29年(2017)に国の史跡に指定されたものの、山上の石垣や斜面は、度重なる集中豪雨や地震、さらには樹木の繁茂と野生動物(シカなど)の踏み荒らしによって崩落の危機に晒されている。かつては観光地としてメンテナンスされていた山上の石垣群も、現在では崩落の危険性が高いため、一般の立ち入りは無許可では禁止される事態となった。

この危機に対抗すべく、佐用町教育委員会は令和元年度(2019)に「保存活用計画」を策定し、段階的かつ科学的な保存整備事業を本格化させている。

  • 緊急応急措置-危険性が高い箇所の一時的な倒壊・土砂流出防止。-石垣表面を覆う「高強度防護ネット」の展開、不安定法面への「植生土嚢」の設置。

  • 科学的調査と可視化-石垣の孕み(変形)や地盤変状の精密監視・解析。-三次元航空レーザー計測を用いた「赤色立体図」の生成、大手枡形・本丸虎口の変状マッピング。

  • 樹木制御と獣害対策-石垣崩壊の原因となる植物の根の進入およびシカ等の進入防止。-樹木の計画的な伐採、周辺部への「防護柵(ネット)」の敷設。

  • 制限付き一般公開-保存修復と歴史観光の調和を目指す試験的公開。-「佐用山城ガイド協会」の公式ガイド同伴時のみ、天守丸までの特別登山許可枠を設定。

進捗状況は『利神城かわら版』を通じて定期的に広く公開されており、直近の第10号(2024年1月15日発行)では、最先端の「赤色立体図(三次元レーザー計測)」を用いて、石垣の孕み(変形)や不安定斜面の正確な位置が科学的にマッピングされ、大手枡形虎口や本丸虎口における具体的な変状石垣の状況がリポートされている。

【佐用町公式ホームページ:利神城かわら版】

また「閉じ込めて保存する」だけでなく、地域活性化団体やコワーキング、古民家ホテル「NIPPONIA 平福宿場町」および酒蔵レストラン「kumotsuki」の展開など、山麓の宿場町の町並み保存と山上の利神城を一体とした総合的な歴史観光整備プロジェクトもクラウドファンディング等を通じて進められている。

利神城の矢穴跡/2022/6/投稿者が撮影
利神城城下にある佐用川/2022/6/投稿者が撮影

結論――利神城は「池田由之の城」だけではない

霧の中に浮かぶ「雲突城」こと利神城の石垣を前にするとき、私たちはその圧倒的な佇まいに言葉を失う。しかし、その石垣の一面、出土した瓦の一片には、これまで歴史の陰に埋もれてきた人々の息吹が何重にも記憶されている。

本内容における考察が明らかにしたのは、利神城が決して「池田由之という一人の野心的な近世領主が一代で完成させ、そして散らせた城」という神話には収まらない、ダイナミックな歴史の「多重露光」であるという真実である。

それは、南北朝期に山陰と播磨を結ぶ江川庄を支配した地元国人・内海氏の土造りの砦から始まり、三木別所氏とは異なる運命をたどった佐用別所氏の興亡、そして朝鮮半島の激戦地で実戦的に磨き上げられた「倭城」の技術が逆輸入されて積層した宇喜多期の天正石垣普請、そして最後に、ポスト関ヶ原の冷徹な西国地政学の中で、仮想敵国・小早川氏への巨大な防壁として池田由之が施した、究極の近世山城への進化と早期の軍縮に至る、200年以上にわたる「構築と改修のドラマ」そのものに他ならない。

伝承のヴェールを一枚ずつ剥ぎ取ることによって見えてくるこの「重層的城郭」の実像こそ、利神城が現代の城郭ファン、そして歴史愛好家を惹きつけてやまない真のロマンなのである。崩落の危機と闘いながら、現代の最新技術によって次代へと守り継がれようとしているこの「天空の城」は、歴史のステレオタイプを乗り越え、過去と対話するための、貴重な歴史の生ける教科書として、今も平福の町を静かに見下ろしている。

この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した

  • この記事をご覧いただけましたら、見ましたよ!という訪問記念として「スキ」ボタンを押していただくと、励みになります。

  • また記事の内容が気に入っていただきましたら、このような歴史関連の記事を執筆していきたいと思いますので、執筆者フォローして頂くと大変嬉しいです。

いいなと思ったら応援しよう!