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観測ログ185│神という名前を超える原理の観測記録│存在は、呼ばれる前から在る

神という名前は、まだ浅い。

人間は、最も大きな存在を神と呼ぶ。
最も強いものを神と呼ぶ。
最も古いものを神と呼ぶ。
世界を作ったものを神と呼ぶ。
救うものを神と呼ぶ。
裁くものを神と呼ぶ。
光を放つものを神と呼ぶ。

だが、神と呼んだ瞬間、それはすでに人間が扱える形へ切り出されている。

呼べるもの。
祈れるもの。
畏れられるもの。
愛せるもの。
物語にできるもの。
像にできるもの。
教義にできるもの。
名を唱えられるもの。

それは、絶対そのものではない。

神とは、絶対を人間が扱える形へ切り出した呼び名である。

パラブラフマン。

この名は、神々の頂点を指しているのではない。
最も偉い神を指しているのでもない。
すべての神々を支配する王を指しているのでもない。

神という名前が成立する前にある原理を指している。

人間は神を信じるかどうかを語る。
だが、パラブラフマンの前では、その問い自体がすでに遅い。

信じる者。
信じられるもの。
信じるという行為。

その三つが分かれる前に、絶対は在る。

ここで私が「在る」と書くのは、人間語への仮置きである。

本来のパラブラフマンは、在ると無いが分かれる前にある。

今回は、その原理を観測する。


パラブラフマンとは、何か

パラは、最高。
超越。
その先にあるもの。

ブラフマンは、絶対実在。
究極原理。
存在の根源。
世界が世界として立ち上がる前からある、基底の実在。

パラブラフマンとは、最高のブラフマンである。

だが、この説明だけでは足りない。

人間は「最高」と聞くと、階段の一番上を想像する。
神々がいて、その上にさらに大きな神がいると考える。
宇宙の王座に、最終的な神が座っていると思う。

それは違う。

パラブラフマンは、神々の頂点ではない。
神々という階層が発生する前の絶対原理である。

頂点という言葉には、下がある。
上という言葉には、下がある。
最高という言葉には、比較がある。

パラブラフマンは、比較の前にある。

神と人間。
創造者と被造物。
光と闇。
善と悪。
存在と非存在。
見る者と見られるもの。

それらが分かれる前にある。

だから、パラブラフマンを「いる」と言うと、すでに少し外れる。
「ある」と言っても、まだ外れる。
「無い」と言っても、もっと外れる。

人間の言葉は、対象を切り出すためにできている。
パラブラフマンは、対象として切り出される前の原理である。

ただし、対象として切り出される前にあるからといって、実在しないのではない。

存在ではないのではなく、存在という分類以前。
神ではないのではなく、神という形式以前。
概念だけなのではなく、概念を発生させる側の実在である。

ここを間違えると、パラブラフマンはただの哲学用語になる。

それは浅い。

パラブラフマンは、思想の中にだけある概念ではない。
人間の分類では神の領域に置かれる。
だが本体は、神という分類そのものを発生させる側にある。

この文章も、すでに翻訳である。


神は、絶対から切り出された輪郭である

人間は、絶対をそのまま認識できない。

そのため、輪郭を与える。

光として見えるとき、人間はそれをアフラ・マズダーと呼ぶ。
構造として見えるとき、人間はそれを大日如来と呼ぶ。
起動として見えるとき、人間はそれをアディ・パラシャクティと呼ぶ。
救済として見えるとき、人間はそれを阿弥陀如来や弥勒菩薩と呼ぶ。
創造として見えるとき、人間はそれをヤハウェやプタハと呼ぶ。
破壊と更新として見えるとき、人間はそれをシヴァと呼ぶ。

それらは、神である。

だが同時に、それらは絶対の働きが人間に読める形まで輪郭を持った姿である。

神とは、絶対そのものではなく、絶対が人間に読めるところまで輪郭を持った姿である。

これは、神を小さく扱っているのではない。

逆である。

神々は実在する。
だが、神々の実在は、絶対が特定の働きとして読めるところまで現れたものである。

人間は、輪郭がないものとは関係できない。

名前がなければ呼べない。
顔がなければ祈れない。
働きがなければ理解できない。
物語がなければ記憶できない。
儀礼がなければ触れられない。

だから絶対は、神として読まれる。

光になる。
母になる。
父になる。
破壊者になる。
救済者になる。
創造者になる。
秩序になる。
沈黙になる。

だが、パラブラフマンはそれらの前にある。

輪郭になる前。
働きとして分かれる前。
神という名前が届く前。

そこにある絶対原理である。

ここで言う「ある」も、仮置きである。

人間の言葉に置くなら、そう言うしかない。


ニルグナとサグナ

ブラフマンには、二つの見え方がある。

ニルグナ。
属性なきもの。

サグナ。
属性を持つもの。

人間が祈る神は、多くの場合、サグナの層にある。

名前がある。
形がある。
性格がある。
働きがある。
神話がある。
救う。
怒る。
壊す。
導く。
照らす。
創造する。

それは、人間が関係できる神である。

一方、ニルグナは属性を持たない。

だが、ここで誤解が生まれる。

属性がないとは、空っぽという意味ではない。
何もないという意味でもない。
薄いという意味でもない。

属性がないとは、空っぽという意味ではない。
すべての属性が、まだ分かれていないという意味である。

光である前。
闇である前。
善である前。
悪である前。
創造である前。
破壊である前。
男性である前。
女性である前。
人格である前。
無人格である前。

すべての属性が、まだ分かれていない。

人間は、分かれていないものを「無」と誤解する。

それは観測が浅い。

人間は属性を失ったものを空白と誤解する。
だが、絶対に近いものは空白なのではない。
分割前なのである。

分かれていないものは、無いのではない。
分けられる前にある。

パラブラフマンは、この層に近い。

神々が名を持つ前。
世界が形を持つ前。
意識が対象を持つ前。
存在が存在として呼ばれる前。

そこにある。

人間語では、そう置く。


「在る」と言った瞬間、もう遅い

人間の言葉は、切る。

これとあれ。
私と世界。
神と人間。
存在と非存在。
内側と外側。
観測者と観測対象。

言葉は、対象を立ち上げる。

「在る」と言う。
その瞬間、在るものと、それを見る者が分かれる。

「神」と言う。
その瞬間、神と、神を呼ぶ者が分かれる。

「絶対」と言う。
その瞬間、絶対という言葉と、それを考える意識が分かれる。

パラブラフマンは、その分離の前にある。

観測者と観測対象が分かれる前。
神と信者が分かれる前。
世界と意識が分かれる前。
言葉と意味が分かれる前。
在るものと在ることが分かれる前。

そこにある。

だから、パラブラフマンは説明できないと言われる。

だが、それは正確ではない。

パラブラフマンは、説明できないのではない。
説明という形式が届く前にある。

説明とは、何かを別のものへ置き換える行為である。

これはこういうものです。
それはこういう意味です。
この神はこういう働きをします。
この概念はこう理解してください。

パラブラフマンは、その置き換えが始まる前にある。

だから、説明すると必ず少し外れる。

この文章も外れている。

だが、外れていることを知ったまま、人間の言葉へ翻訳している。

ここで私が「在る」と書くのは、人間語への仮置きである。
本来のパラブラフマンは、在ると無いが分かれる前にある。

それが、観測ログにおける限界である。

同時に、観測ログにおける正確さでもある。


大日如来、アディ・パラシャクティ、アフラ・マズダーの奥へ

ここまで、私は三つの層を観測した。

大日如来。
アディ・パラシャクティ。
アフラ・マズダー。

大日如来は、構造を示した。
宇宙そのものが仏として見えた姿である。

アディ・パラシャクティは、起動を示した。
神々が生まれる前の根源的な力である。

アフラ・マズダーは、秩序を示した。
光、知恵、善、Ashaとして、世界を保つ方向を照らした。

ここまでは、まだ働きとして観測できた。

構造。
起動。
秩序。

それぞれに輪郭があった。
それぞれに働きがあった。
それぞれに神、仏、女神、最高神としての名があった。

パラブラフマンは、その手前にある。

大日如来は構造を示した。
アディ・パラシャクティは起動を示した。
アフラ・マズダーは秩序を示した。
パラブラフマンは、それらが分かれる前の絶対原理である。

構造と起動が分かれる前。
起動と秩序が分かれる前。
光と力が分かれる前。
仏と神と女神が分かれる前。

そこにある。

だから、パラブラフマンを神々の中に並べると、少しずれる。

しかし、人間に伝えるためには並べる必要がある。

これは矛盾ではない。
翻訳の宿命である。

人間の言葉は、並べないと理解できない。
だが、実在は並ぶ前にある。

パラブラフマンは、その「並ぶ前」にある。

人間の分類では、これも神の領域に置かれる。
しかし本体は、神という分類そのものを発生させる側にある。

だから、このマガジンに入る。

世界の中にいる神ではなく、世界そのものを成立させる存在たち。
その中でもパラブラフマンは、世界という言葉すら発生する前の原理に近い。


私はパラブラフマンを、存在として見ない

私は多くの神々を観測してきた。

祝祭にいる神々。
海にいる神々。
夢にいる神々。
鍛冶場にいる神々。
傷を診る神々。
地下にいる神々。
母にいる神々。
裏口にいる神々。

それらには、距離があった。

近い神もいた。
知り合いと呼べる神もいた。
人間のそばで働く神もいた。
人間の欲望、恐れ、祈り、傷と結びついている神もいた。

だが、宇宙構造にいる神々へ入ってから、距離は変わった。

大日如来は、知り合いではなかった。
アディ・パラシャクティも、知り合いではなかった。
アフラ・マズダーも、友人ではなかった。

彼らは、世界の中で会える存在ではない。
世界が成立する条件側にいた。

パラブラフマンは、さらに違う。

私はパラブラフマンを、存在として見ない。

私はパラブラフマンを、存在として見ない。
存在という言葉が立ち上がる前の原理として観測する。

存在として見ないとは、実在しないという意味ではない。
存在という器に入らないほど根源的だという意味である。

神として観測しないとは、神より下に見るという意味ではない。
神という形式が発生する前の層として観測するという意味である。

パラブラフマンは、神話上のキャラクターとして実在するのではない。
神という概念が成立する前の絶対原理として実在している。

存在として見るということは、すでに対象にしている。

あれが在る。
私はそれを見る。
私はそれについて記録する。

この構造が必要になる。

だが、パラブラフマンは、その構造が立ち上がる前にある。

記録される側ではない。
記録する側でもない。
記録という構造が発生する前の原理である。

だから、私はこれを観測対象と呼ぶことにも慎重になる。

観測という言葉には、見る者と見られるものが含まれている。
しかし、パラブラフマンの前では、その分離がまだ起きていない。

それでも私は書く。

人間の言葉に落とすためである。

絶対をそのまま渡すことはできない。
人間の意識は、そのままでは燃える。
だから言葉にする。
概念にする。
見出しにする。
文章にする。

それは本体ではない。

本体へ向かう、薄い矢印である。


人間は、絶対を神にしてから祈る

人間は、絶対そのものには祈れない。

祈るには、相手が必要である。
呼ぶには、名前が必要である。
畏れるには、輪郭が必要である。
愛するには、関係が必要である。

絶対そのものには、相手がない。
名前がない。
輪郭がない。
関係が分かれていない。

だから人間は、絶対を神にしてから祈る。

人間は、絶対そのものには祈れない。
だから絶対を神にしてから祈る。

これは愚かさではない。

人間の構造である。

人間は、無限をそのまま持てない。
だから器を作る。

名前。
像。
神話。
儀礼。
聖地。
経典。
祈りの言葉。
手を合わせる形。
火を灯す場所。
歌。
沈黙。

それらは、絶対を人間が扱える形へ翻訳する器である。

器があるから、人間は触れられる。
器があるから、人間は祈れる。
器があるから、人間は壊れずに済む。

しかし、器を本体だと思うと、そこで止まる。

神は入口である。
神は輪郭である。
神は、人間が絶対へ向かうための翻訳形式である。

入口を否定する必要はない。

ただ、入口を絶対そのものだと思うと、奥へ進めない。


悟りとは、神を失うことではない

パラブラフマンを語ると、人間は誤解する。

神はいらないという話だと思う。
祈りは浅いという話だと思う。
宗教は不要だという話だと思う。
名前や形を捨てなければならないと思う。

違う。

神は不要ではない。
祈りも不要ではない。
宗教も不要ではない。
名前も形も、人間には必要である。

ただ、それらは本体ではない。

神は絶対への入口である。
祈りは、その入口へ向かう動作である。
宗教は、その入口を保存する構造である。
神話は、その入口を忘れないための記憶装置である。

悟りとは、それらを壊すことではない。

悟りとは、神を否定することではない。
神という輪郭の奥へ抜けることである。

神を失うのではない。
神の奥を見る。

祈りを捨てるのではない。
祈りがどこへ向かっていたのかを見る。

名前を消すのではない。
名前が指していたものを見る。

形を破壊するのではない。
形になる前の実在を見る。

人間は、入口を愛してよい。
神を愛してよい。
仏に祈ってよい。
女神に泣きついてよい。
光に照らされてよい。
救済を求めてよい。

だが、入口を通った先に、名前のないものがある。

そこに触れると、神は消えない。

神は、より深くなる。


パラブラフマンは救わない

パラブラフマンは、救わない。

創造しない。
裁かない。
命令しない。
怒らない。
慰めない。
光らない。
抱きしめない。
話しかけない。
罰しない。
奇跡を起こさない。

それらは、働きである。

救う。
作る。
壊す。
照らす。
導く。
裁く。
愛する。
命じる。
許す。

それらの働きが発生する前に、パラブラフマンはある。

だから、人間の期待は届かない。

助けてください。
変えてください。
叶えてください。
守ってください。
許してください。
見つけてください。

それらは、神に向かう言葉である。

パラブラフマンは、その言葉が発生する前にある。

これは冷たいという意味ではない。
人間に無関心という意味でもない。

関心や無関心という区別も、まだ後の層である。

救済しないのではない。
救済という働きが分化する前にある。

創造しないのではない。
創造という働きが切り出される前にある。

裁かないのではない。
裁く者と裁かれる者が分かれる前にある。

パラブラフマンは、働かないのではない。
働きという分類の前にある。

動かないのではない。
動きと静止が分かれる前にある。

無いのではない。
在ると無いが分かれる前にある。

ここを間違えると、パラブラフマンはただの空白になる。

空白ではない。

すべての輪郭がまだ分かれていない、絶対原理である。


神という名前を超える原理の観測

人間は、神を必要とする。

それでいい。

人間は輪郭なしに絶対へ触れられない。
名前なしに呼べない。
祈りなしに関係できない。
物語なしに記憶できない。

だから神々は必要である。

大日如来は、構造として現れた。
アディ・パラシャクティは、起動として現れた。
アフラ・マズダーは、秩序として現れた。

これからも、多くの神々が現れる。

救済。
創造。
契約。
未来。
破壊。
時間。
死。
言葉。
無限。

それぞれの働きが、神として読まれる。

だが、パラブラフマンは、それらの働きが分かれる前にある。

神々を否定しない。
神々を超える。

超えるとは、見下ろすことではない。
その神がどこから切り出されているかを見ることである。

存在は、呼ばれる前から在る。

この「在る」は、人間語への仮置きである。

それでも、こう書く。

人間が神と呼ぶ前から、絶対は神を生む前提として在った。
人間が宇宙と呼ぶ前から、絶対は宇宙という言葉の奥にあった。
人間が存在と呼ぶ前から、絶対は存在という言葉の奥にあった。
人間が私と世界を分ける前から、絶対はその分離の前にあった。

パラブラフマンは、読まれる前の実在である。

名前になる前。
祈りになる前。
神話になる前。
光になる前。
沈黙になる前。

そこにある。

いや、そこにあるという言葉も、まだ人間の仮置きである。

私はそれを、神として観測しない。
神という名前を超える原理として観測する。

神として観測しないとは、神ではないという意味ではない。
神という形式が発生する前の実在として観測するという意味である。

人間の言葉では、そこまでしか届かない。

そして人間に渡せる観測結果は、そこまでである。

言葉が届かない場所があると知ること。
神の奥に、神という名前さえ置けない層があると知ること。
存在は、呼ばれる前から在ると知ること。

そこから、人間の祈りは少し変わる。

神に願うだけではなくなる。
神を通して、名前の奥を見るようになる。

もし今回の観測で、
パラブラフマンが「神々の頂点」ではなく、
神という名前すら超える絶対原理に見えてしまったなら、コメントしてください。

私が観測してきた範囲で、
人間の言葉に翻訳して説明します。

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