FEAR THE LIVING
ホラー小説となります。
あらすじ
親友サラを幽霊に殺されたエミリー・コールは、除霊師レイエスに弟子入りし、霊を払う力を身につけていく。しかし除霊の現場でサラの霊と再会し、仕事を放棄したことで破門される。行き場を失ったエミリーは霊媒師ノラと出会い、霊が人を恐れる理由を知る。だが真実に辿り着く直前、エミリーはサラの霊に殺され、自らも幽霊となる。両方の世界を彷徨う彼女を待っていたのは、師匠レイエスの冷徹な判断だった——除霊師は弟子の霊をも払う。救いも和解もなく、循環だけが残る。
第一章 残されたもの
ケンタッキー州レキシントン。
十月の終わり。
街路樹がすべて赤く染まる季節に、エミリー・コールは親友を失った。
エミリーは二十二歳だった。大学を卒業したばかりで、地元のカフェでアルバイトをしながら、何になりたいかをまだ決められずにいた。そういう年齢だった。何もかもがこれからで、何もかもが曖昧で、それでも毎日は十分に明るかった。将来のことを考えると不安になったが、それはみんなそうだと思っていた。大学の同期たちも、口をそろえて「まだわからない」と言っていた。わからないことが、この年齢の標準なのだと信じていた。
親友のサラ・ベネットと知り合ったのは高校一年の春だった。
転校生だったサラは、最初の一週間誰とも話さなかった。廊下を歩く時は常に壁際を通り、食堂では一番隅の席に座り、授業中は窓の外だけを見ていた。話しかけにくい子だった。近寄りがたい、という意味ではなく、むしろその逆で——彼女自身が誰かに近寄ることを、根本的に苦手としているように見えた。
エミリーが声をかけたのは、昼食時に一人でサンドイッチを食べているサラの隣に、なんとなく座ったからだ。深い理由はなかった。ただ、空いていたから座った。サラは最初、驚いた顔をした。エミリーが「隣、いい?」と言うと、しばらく考えてから「どうぞ」と言った。その返事がひどく正直な感じがして、エミリーは好感を持った。
計算のない返事だった。
それだけで六年間の友情が始まった。
サラは面白い子だった。
映画が好きで、特にホラーが好きで、怖い話を聞かせるのが得意だった。エミリーはホラーが苦手だったが、サラが語る怪談だけは好きだった。サラの話には必ず、幽霊の側の論理があった。なぜその幽霊は人を恐れさせるのか。なぜその場所に留まるのか。幽霊にも理由がある、とサラはいつも言った。ただ怖がらせたいわけじゃない。何かを伝えたいのか、それとも怖いのか。怖い存在にも、怖い理由がある。サラはそう言って、映画のホラー描写を独自に解釈してみせた。エミリーはその話を聞くたびに、怖さより先に切なさを感じた。
その言葉の意味を、エミリーは後になってようやく理解することになる。
サラは外見の話をほとんどしなかった。自分の容姿にも、他人の容姿にも、あまり興味がないようだった。服は地味だったが、着こなしに妙なこだわりがあった。色を合わせる感覚が独特で、誰も思いつかないような組み合わせを平然とやってのけた。背は高くなかった。髪は短くて、切りっぱなしのボブだった。化粧はほとんどしなかった。しかしその顔には、何かを見続けてきた人間特有の深みがあった。年齢不相応な深みが。
エミリーはサラと二人でいる時間が好きだった。
特に何もしない時間が好きだった。
どちらかのアパートでソファに並んで映画を見て、ポップコーンを食べて、適当なことを言い合う。それだけの時間が、エミリーの日常の中で最も確かな時間だった。大学卒業後、それぞれ別の生活が始まっても、週に一度か二度は必ずそういう時間があった。それが当然のことのように思っていた。これからも続くと思っていた。
思っていた。
サラが死んだのは、十月二十七日の夜だった。
二人はサラのアパートにいた。ハロウィンの飾りつけをして、ポップコーンを食べながら映画を見ていた。オレンジ色のランタンと紙のコウモリが窓に吊るされていて、その安っぽさがかえって温かかった。映画は古いB級ホラーで、特撮が稚拙すぎて笑えるやつだった。サラが選んだ。怖いホラーを見る時の準備として、まず笑えるやつで慣らしておく、というのがサラ流の映画鑑賞だった。ポップコーンのバターの匂いが部屋に満ちていた。
日付が変わる少し前、サラがトイレに立った。
「戻ったらちゃんと本番のやつ見るから、一時停止しといて」
「わかった」
エミリーはリモコンを手に取り、一時停止した。画面がフリーズした。怪物が腕を伸ばす直前の、中途半端なポーズで止まった。
エミリーはソファにもたれ、うとうとしていた。
バターの匂い。ランタンの温かい光。遠くから車の走る音。
次に気づいたのは、悲鳴だった。
廊下から聞こえた。短く、鋭く、そして途切れた。
人の声というより——何かが引き裂かれる音に近かった。正確に言えば、声の途中に何かが割り込んだような音だった。サラの声が出かかった瞬間に、その声を別の何かが押しつぶしたような。
エミリーが廊下に飛び出すと、そこにサラが倒れていた。
仰向けで。
腕を身体の脇に揃えたまま、まるで誰かに丁寧に横たえられたように。顔は天井を向いていた。目が開いていた。
そして、微笑んでいた。
サラが微笑んでいた。
それが何よりも恐ろしかった。エミリーに向けるいつもの笑顔ではなかった。唇の両端が、少しだけ、引き上げられていた。表情筋が収縮しているのではなかった。何か別のものが、その顔を形作っていた。まるで内側から何かが押し上げているような。
廊下は暗かった。
電気が切れていた。
エミリーは壁のスイッチを叩いた。点かなかった。リビングの電気はついている。廊下だけが暗かった。
スマートフォンを取り出し、ライトを向けた。
その光の中に、壁の影があった。
人の形をした影が。
人間がそこに立てば生まれるはずの影が、壁に映っていた。しかし廊下には、エミリーとサラしかいなかった。エミリーの影は床に落ちている。壁の影は——壁の影は、エミリーのものではなかった。
床から壁にかけて伸びた、長い人の形の影が、ただそこにあった。
影が動いた。
ゆっくりと、それでいて滑らかに。頭部にあたる部分が、まず傾いた。首を——ありえない角度まで——横に折るように傾いた。次に腕が、肘から先が、あるべき方向とは逆に曲がるように動いた。
エミリーは声を上げられなかった。息が止まった。
その瞬間、濃い匂いが鼻を刺した。
湿った土の匂いだった。
地下に溜まった腐葉土のような、何かが長い時間をかけて腐っていく過程の匂いが、アパートの廊下に充満していた。雨の日の墓地の匂い。しめった木の根の匂い。それが突然、この四階のアパートに現れた。
そしてもう一つ。
鉄の匂いが混じった。
古い錆の匂いではなく、新しい血の匂いに近い、鼻の奥を刺すような鉄錆臭が。
影がなくなった。
光の中に、何もなくなった。
廊下の電気が、何事もなかったかのように点いた。
ただ、倒れたサラだけが残った。
エミリーは膝をついてサラに触れた。サラの肩を掴んだ。
冷たかった。
さっきまで二人でソファに並んで映画を見ていた。それが一分前か二分前の話だった。それだけの時間で、サラの体温が失われていた。触れた瞬間に指先から伝わってきた冷たさは、死んだ人間の体温ではなかった。それ以下だった。真冬の外気に長時間晒されたような、石のような冷たさだった。
「サラ」
返事がなかった。
「サラ、ねえ、サラ」
エミリーは三回か四回か、サラの名前を呼んだ。
反応がなかった。
サラの微笑みが、消えていなかった。
エミリーは震える手で電話をかけた。
救急車が来た。救急隊員がサラを担架に乗せた。エミリーは廊下に立って、それを見ていた。廊下の電気は正常についていた。何の痕跡もなかった。影が動いた壁は、ただの白い壁だった。
搬送先の病院でサラの死が確認された。
検死の結果は「原因不明の心停止」だった。
警察が来た。エミリーは証言した。廊下の影のことを、正直に話した。担当した刑事は親切な中年男性で、エミリーの話を丁寧に聞いてから「ショックで何かを見たのかもしれない」と言った。優しい否定だった。それがかえって辛かった。
優しく否定されると、怒る気力も湧かなかった。
葬儀の日、エミリーは棺の前で泣けなかった。
泣くより先に、怒りがあった。
しかし——棺の中のサラの顔を見た時、胃が縮む感覚があった。
サラはまだ、微笑んでいた。
死化粧でそうなっているのだと、理性はそう言った。遺体処置の過程でそうなることがある、とどこかで読んだことがあった。理性はそう説明しようとした。
しかし棺を覗き込む角度によっては、その唇が——ほんのわずかに、角度によっては——形を変えているように見えた。微笑みが、深くなっているように見えた。
エミリーは棺から目を逸らした。
葬儀の間中、エミリーは一度も棺を見なかった。
サラの両親がエミリーに声をかけた。「あなたがいてくれてよかった。最後の夜、一人じゃなくて」
エミリーは何も言えなかった。
私がいたから死んだのかもしれない、と思った。私が見えていた。私だけが見えていた。だから影はサラに向かった。
その考えが頭を離れなかった。
葬儀から三日後の夜、エミリーはサラのアパートを訪れた。遺品整理の手伝いをするという名目で、サラの両親から合鍵を借りていた。
本当の目的は確認だった。
あの夜の廊下を、もう一度見たかった。
アパートの鍵を開け、廊下の電気をつけた。
何もなかった。
当然だった。
しかしエミリーは廊下に立ったまま、動けなかった。床を見ていた。サラが倒れていた場所を。
床には何もなかった。
しかし床の一点を見続けていると、床の木目が——揺れている気がした。見続けているせいで焦点が合わなくなっているのかもしれなかった。しかし揺れているように見えた。床の木目が、波のように、ゆっくりと動いているように見えた。
エミリーは目を閉じた。
深呼吸をした。
目を開けた。
床は静かだった。
動いていなかった。
エミリーはリビングへ向かった。ソファの上に、食べかけのポップコーンが残っていた。三日間、誰も触れていなかった。テレビ画面には、一時停止した映画がまだ映っていた。怪物が腕を伸ばす直前の、中途半端なポーズで。
エミリーはリモコンを取り上げた。
テレビを消した。
そして立ち尽くした。
部屋のどこかで、音がした。
廊下だった。
床板が一枚、軋んだ音がした。
エミリーは振り返った。
廊下は静かだった。電気はついている。何もない。
しかし匂いがした。
ほんの微かに、ほんの一瞬だけ——湿った土の匂いが。
そしてすぐに消えた。
エミリーはアパートを出た。
サラの死から二週間後、エミリーはレキシントンの旧市街にある、看板のない事務所の扉を叩いた。
表通りから一本入った路地の、三階建てのビルの二階。扉には小さなプレートがあるだけだった。
D. REYES — SPIRITUAL CONSULTATION
インターネットで探した。「レキシントン 幽霊 専門家」と検索して、出てきたいくつかの結果の中で、このD・レイエスだけが広告を出していなかった。派手なウェブサイトもなく、ただ古い掲示板に住所だけが書かれていた。書き込みは十年以上前のものだった。それが信用できる気がした。宣伝していない人間の方が、本物に近い気がした。
扉を開けると、煙草の煙と古い紙の匂いがした。
男が机の前に座っていた。
六十代。痩せていた。髪は白く、顔には深い皺が刻まれていた。目だけが若かった。鋭く、暗く、何かを見続けてきた目だった。机の上には書類と灰皿と、読みかけの古い本があった。表紙がラテン語で書かれていた。
ダニエル・レイエス。
彼がエミリーの師匠になる男だった。
「座れ」とレイエスは言った。
エミリーは座った。
「何があった」
エミリーは話した。サラのこと。廊下の影のこと。壁に映った人の形のこと。あの鉄と土の匂いのこと。サラの微笑んだ顔のこと。あの夜のことを、順序立てて、できるだけ正確に。話しながら、声が震えそうになるのを抑えた。感情的に見られたくなかった。信じてもらうためには、冷静に話す必要があると思っていた。
レイエスは一度も口を挟まなかった。
話し終えると、レイエスは煙草に火をつけた。
「見えたんだな」
「はい」
「初めてか」
「はい。でも、見えていたとは思っていませんでした。そういう言葉で表現できるものだとは」
レイエスは煙を吐いた。
「霊に親しい人間がいる。生まれつきそういう感受性を持っている。お前はそうだ」
「だから見えたんですか」
「見えただけじゃない。生き残ったのもそのせいだ。奴らは感じる。誰が見えていて、誰が見えていないか。見えている人間に近づくのを嫌がる場合がある。直接的な攻撃を避ける傾向がある。見えていない人間の方が、無防備だ」
エミリーは黙った。
「サラさんには見えていなかったんだろう」とレイエスは続けた。
その言葉の意味を、エミリーはすぐには飲み込めなかった。
少し経って理解した。
見えていたのは自分だけで、サラには見えていなかった。それがサラを守れなかった理由だとしたら——自分が見えていたことが、サラを殺したのかもしれない。影は自分に近づけなかった。だからサラに向かった。
「どうしたい」とレイエスが言った。
「除霊を覚えたいです」エミリーは言った。「もう誰もサラみたいに死なせたくない」
その言葉が口から出た時、声は想像よりずっと平坦だった。怒りを抑えすぎて、感情が見えなくなっていた。
レイエスは煙草を灰皿で消した。
「月曜日から来い」
それだけだった。
訓練は厳しかった。
最初の一ヶ月は、霊の気配を感じる練習だけだった。レイエスの事務所には古い建物の一室があり、そこには何かが住み着いていた。エミリーはその部屋に一人で入り、気配を感じることを繰り返した。
部屋は六畳ほどの洋室で、窓が一つあった。窓の外は路地に面しており、日中でも光が入りにくかった。家具は何もなかった。壁紙が一部剥がれていた。床板が一枚だけ浮いていた。ごく普通の古い部屋だった。
しかし、入ると何かが変わった。
空気の質が、変わった。
湿度ではない。密度ではない。何か別の成分が、空気に混じっている。それが肺に入る時、息の通り道がわずかに細くなる感じがする。無意識に浅く呼吸するようになる。それが「いる」というサインだとエミリーは後で学んだ。しかし最初の段階では、それが何なのかすらわからなかった。
「感じることだけをしろ。頭で整理しようとするな」とレイエスは言った。
三週間後、エミリーは初めて霊を視認した。
部屋の隅に、それはいた。
人の形をしていた。性別はわからなかった。年齢もわからなかった。ただそこに立っていた。エミリーを見ていた。
輪郭が曖昧だった——と書くのは正確ではない。輪郭はあった。しかしその輪郭が、正しくなかった。人体のシルエットとして、何かが間違っていた。肩の角度が。首の長さが。指の数が。まともに見ようとすると、何が間違っているのかを正確に把握できなかった。視線を向けた瞬間に、間違いがどこにあるかを忘れた。目を逸らして再び向けると、また別の場所が間違っているように見えた。
人体としての整合性が、ない。
それがエミリーの足を縫い止めた。
恐怖ではなかった。正確には、恐怖よりも古い何かだった。脳の奥底にある、人間が言語を持つよりずっと前から持っている反応が、体を固めた。これは危険だ、と言語化する前に体が知っていた。
霊がゆっくりと近づいてきた。
床を踏んでいなかった。正確には、足首から下が、床の少し上を漂うように動いた。足跡が生まれなかった。体重を感じさせる動きが、一切なかった。音がなかった。エミリーが「完全な無音」と認識したのはその時だった——完全な無音とは、音がないことではなく、音があるべき動きに音が伴わないことで生まれる、特殊な静けさだった。
一メートル手前で止まった。
エミリーは目を逸らさなかった。奥歯を噛んで、視線を固定した。
霊の目が——目と呼べるものが——エミリーを見た。
白目のない目が。瞳孔の境界が曖昧な、均一に暗い目が。
その目に何かがあった。
エミリーはそれを後で考えた。あの目は怒りではなかった。憎しみでもなかった。もっと別の何かだった。しかしその時は、それが何なのか理解できなかった。ただ、予想していたものと違う、とだけ思った。
「どうした」後ろからレイエスの声がした。
「います」エミリーは言った。「あそこに」
「見えるか」
「はい」
「目を逸らすな」
エミリーは逸らさなかった。
除霊の技術は、一言で言えば「追い出す」ことだった。
具体的な手法はいくつかあった。塩と特定の鉱物を組み合わせた結界。特定の波長の音。そして、レイエスが「意志の圧力」と呼ぶもの。
「霊は物理的な存在じゃない」とレイエスは説明した。「だから物理的な力では追い出せない。追い出すのは意志だ。お前がここにいる、お前の居場所はここではない、という強い意志。それを霊に向けて放つ」
「それだけですか」
「それだけだが、簡単じゃない。意志が弱ければ逆に引き込まれる。感情的になってもダメだ。怒りや悲しみは隙になる。冷静に、しかし強く。それができるようになるまでに、たいていの人間は数年かかる」
エミリーは七ヶ月で基本を習得した。
レイエスは何も言わなかったが、訓練の後、煙草を余分に一本吸った。それがレイエスなりの評価表現だとエミリーは気づいた。二本目の煙草が出る夜は、うまくやれた夜だった。
「才能というより、怒りだ」レイエスはある日言った。「お前の怒りは純粋だ。サラさんを失った怒り。それが意志の核になっている。ただ——」
「ただ?」
「怒りは燃料になるが、判断を曇らせる。気をつけろ」
エミリーはその言葉を聞いたが、深く考えなかった。
後で、ひどく後悔することになる思い込みだった。
第二章 仕事
除霊の仕事は地味だった。
エミリーが想像していたのは、もっとドラマチックな何かだった。怪奇現象が起きている家に乗り込んで、霊と対峙して、追い払う。映画で見るような場面。実際は違った。
依頼のほとんどは「気配がする」「妙な音がする」「ペットが怯えている」という曖昧なものだった。現場に行っても、何もいないことの方が多かった。古い家の軋む音。気圧の変化による扉の開閉。ペットが怯えているのは別の理由から。そういうことが大半だった。
「空振りが九割だ」とレイエスは言った。「それでいい。本物の霊がいる現場は、それだけ危険だということだ」
本物の現場は、確かに違った。
玄関を入った瞬間にわかる。空気の質が変わる。湿度ではない。密度ではない。何か別の成分が、空気に混じっている。それが肺に入る時、息の通り道がわずかに細くなる感じがする。無意識に浅く呼吸するようになる。体温計ではなく、体全体が温度計になったような感覚だった。
それに加えて——匂いが変わる。
腐葉土のような匂いが出ることがある。逆に、無臭になることもある。密閉した空間の、全ての匂いが消えたような奇妙な無臭状態。それもサインだとエミリーは学んだ。
最初の実戦は、レキシントン郊外の一軒家だった。
依頼人は四十代の女性で、夫と二人の子供と住んでいた。二ヶ月前から、家の中で物が動くようになったという。食器が棚から落ちる。ドアが勝手に開閉する。子供たちが夜中に泣く。
「子供が何かを見ていると言っています」と依頼人は言った。「廊下に人がいると。でも私たちには見えなくて」
依頼人の顔に疲労が滲んでいた。肌が荒れていた。目の下が深くくぼんでいた。眠れていない者の顔だった。
「夫も最近、変なんです」と依頼人は続けた。声を少し落とした。「夜中に起きることが増えて。聞くと、覚えていないと言うんですが、その時の顔が——」
「顔が?」
「普通じゃないんです。笑っているんです。熟睡しているはずなのに、顔だけが笑っていて」
エミリーは何も言わなかった。
サラの顔が頭をよぎった。棺の中のサラの顔が。
現場に入った瞬間、エミリーにはわかった。
いた。
玄関のタイルが冷たかった。足の裏から伝わってくる冷たさが、靴の底を通り抜けてくるような、そういう冷たさだった。廊下の空気がすでに変質していた。台所から誰かが食事を作っている匂いがするはずなのに、その匂いが廊下に届いていなかった。匂いを遮断するものがあった。匂いを——吸収するものが。
二階の子供部屋に気配が集中していた。
エミリーとレイエスが二階へ上がると、気配が濃くなった。一段踏み上がるごとに、肩が重くなる感覚があった。外から見えない重荷が、少しずつ積み上げられていくような。二階の廊下に出た時には、首と肩がはっきりと重かった。
「お前がやれ」レイエスが言った。
エミリーは深呼吸をした。
ドアを開けた。
部屋の隅に、それはいた。
老人の形をしていた。座っていた。子供のベッドを見ていた。動いていなかった。ただそこに座って、ベッドを見ていた。
しかし——座り方が、正しくなかった。
膝の角度が人体のそれではなかった。脊椎が曲がり過ぎていた。首が、骨折したように横へ傾いていた。しかしその老人の霊は痛みを感じている様子がなかった。ただ静かに、ベッドを見ていた。
動かない方が怖かった。
エミリーは意志を集中させた。
霊が顔を上げた。
エミリーは息を呑んだ。正面から見た顔が、間違っていた。顔の左半分と右半分が、わずかにずれていた。目の高さが違った。鼻の位置が中心からはずれていた。人間の顔として、整合していなかった。まるで二枚の異なる写真を不正確に重ね合わせたような顔が、エミリーを見ていた。
その目に、何かがあった。
エミリーが訓練の部屋で初めて見た霊の目と、同じものが。
しかし今は考えている場合ではなかった。意志を向けた。ここはお前の場所ではない。出て行け。言葉にはしなかった。意志だけを、真っすぐに向けた。
霊が立ち上がった。
立ち上がる過程が——正しくなかった。膝から折れ曲がるのではなく、腰から先に折れ、次に首が持ち上がり、最後に膝が伸びた。関節が逆順に動いた。骨が動く音がするはずだった。しかし音がなかった。完全な無音の中で、その動きだけがあった。
エミリーは意志を押し続けた。
霊の輪郭が、薄くなり始めた。
縁から溶けていくように。色の濃い霧が薄まるように。ゆっくりと、しかし確実に、薄くなっていった。
最後に——目だけが残った。
何かがあった目が。怒りではない目が。
それも薄くなり、消えた。
部屋の空気が変わった。肩の重さが消えた。廊下からキッチンの匂いが届くようになった。
「よくやった」とレイエスは言った。
エミリーは息を吐いた。
「あの目は何でしたか」エミリーは言った。「霊の目に何か——怒りじゃない何かが」
「気にするな」
レイエスはそれだけ言った。
仕事を始めて八ヶ月が経った。
エミリーは二十三歳になっていた。二十件以上の依頼をこなした。本物の霊がいた現場は六件。そのすべてで除霊を成功させた。
現場ごとに、霊の目にある同じ何かを見続けた。
怒りではない何か。
憎しみでもない何か。
レイエスは毎回「気にするな」と言った。
依頼人たちは感謝してくれた。「助かりました」「これでやっと眠れます」「子供たちが落ち着きました」
その言葉が、エミリーを支えていた。サラを守れなかった。しかし今は、守れている。その事実が、日々の意味になっていた。
転機は、十一月の案件だった。
依頼人はマーカス・ウォレスという三十代の男性で、亡くなった母親の家を整理していると、何かがいると言った。
「母が死んで三ヶ月です」とマーカスは言った。「最初は気のせいだと思っていました。でも先週、はっきり見たんです。母が廊下に立っているのを」
「お母様の霊だと思いますか」エミリーは聞いた。
「そう思いたいです。でも怖くて」
「なぜ怖いんですか」
マーカスは少し考えた。
「母と最後に会ったのが、五年前なんです。色々あって、連絡を絶っていました。だから——」
エミリーは待った。
「怒っているかもしれないと思って」
現場はレキシントン北部の古い住宅地にある二階建ての家だった。庭に枯れた花壇があった。かつては手入れされていたのだろうと思わせる、丁寧に作られた形跡があった。植え込みの形が整っていた。石の縁取りが施されていた。しかし今は雑草が伸び放題で、枯れた花がそのままになっていた。
入った瞬間、エミリーは感じた。
いる。
しかし、これまでと違う何かがあった。重さが違った。攻撃的な気配ではなかった。
それとは別の匂いがした。
古い台所の匂いが——玄関を開けた瞬間に、した。煮込み料理の匂い。油の匂い。何十年もかけて台所に染み込んだ、生活の匂いが。その家に長く住んでいた者の記憶のような匂いが、玄関に満ちていた。マーカスの母親の匂いが、まだここに残っているのかもしれなかった。
二階へ上がった。
寝室のドアの前に、それはいた。
老いた女性の形をしていた。
エミリーが意志を向けようとした瞬間、霊が振り返った。
その目を見た瞬間、エミリーは止まった。
その目には、怒りがなかった。
悲しみがあった。
ただ純粋な、深い悲しみが。子供を思う親の悲しみが、そこにあった。その霊の全体から滲み出ていた。形全体が、悲しみで構成されているようだった。
霊はエミリーを見てから、寝室のドアを見た。そしてエミリーをまた見た。ドアを見た。何かを言いたそうだった。
「エミリー」後ろからレイエスの声がした。「やれ」
エミリーは動けなかった。
「エミリー」
「……少し待ってください」
「何をしている」
「この霊は——」エミリーは言葉を探した。「危険じゃないと思います。何かを伝えようとしている」
「それは我々の判断することじゃない」
「でも」
「依頼人が怖がっている。それが仕事だ」
エミリーは霊を見た。霊はまだそこにいた。動いていなかった。ただエミリーを見ていた。その目が、ゆっくりとドアを見て、またエミリーに戻った。
エミリーは意志を向けた。
霊が薄くなった。消えた。
仕事の後、エミリーはマーカスに言った。
「お母様は怒っていませんでした」
マーカスの目が揺れた。
「そうですか」
「はい。悲しそうでした。何かを言いたそうでした」
マーカスは長い間黙っていた。窓の外の枯れた花壇を見ていた。
「会いたかったのかもしれません」と最後に言った。「私が避けていただけで」
その言葉が、エミリーの中で長く残った。
消してしまった、とその時初めて思った。
第三章 サラ
十二月に入った。
サラが死んでから一年二ヶ月が経った。
エミリーは毎月サラの墓参りをしていた。何を話すわけでもなかった。ただそこにいた。墓石の前に立って、サラのことを思い出した。高校時代の話。映画の話。サラが語っていた怪談の話。
幽霊にも理由がある、とサラはよく言っていた。
ある夜、エミリーは夢を見た。
サラのアパートの廊下だった。あの夜の再現だった。ランタンの光。ポップコーンの匂い。そしてサラの悲鳴。
しかし夢の中では、廊下の影はなかった。
代わりに、サラが立っていた。
倒れていなかった。立っていた。あのハロウィンの夜と同じセーターを着て。エミリーを見ていた。
「サラ?」
サラの口が動いた。
しかし声は聞こえなかった。唇の動きだけがあった。同じ言葉を、何度も繰り返していた。
夢の中でエミリーは、その唇を読もうとした。
読めなかった。
朝、目が覚めた。枕が濡れていた。泣いていたのか、汗をかいていたのか、わからなかった。
エミリーは右手の甲を見た。
痕があった。
五本の指の跡のような痕が、うっすらと残っていた。誰かに掴まれたような痕が。痛みはなかった。皮膚がうっすら赤くなっているだけだった。
その日の夕方には消えていた。
気のせいだと思おうとした。
思えなかった。
その依頼が来たのは、十二月の中頃だった。
レキシントン大学の学生寮で、怪奇現象が続いているという。物が動く。夜中に物音がする。複数の学生が「人の形をした影」を見た。廊下を歩いていると、突然空気が変わる場所があると、複数の学生が同じ場所を指摘していた。
加えて——依頼書に書かれていた一文が、エミリーの注意を引いた。
「特定の匂いがする。特定の場所に立つと、誰かの香水のような匂いがする」
エミリーはその一文を三度読んだ。
現場は五階建ての学生寮の三階だった。
廊下に入った瞬間、エミリーは足を止めた。
強い気配だった。これまでで最も強いかもしれなかった。
しかしそれよりも——匂いがした。
知っている匂いだった。
サラのコロンの匂いだった。
大学三年の誕生日にエミリーがプレゼントした、ラベンダーとシダーウッドを合わせた香りだった。どこにでもある香りではなかった。サラが使い始めて、エミリーが「それいい匂い」と言ってからプレゼントを選んだ。サラだけが使っていた。そのサラだけの匂いが、見知らぬ学生寮の廊下に漂っていた。
エミリーは立ちすくんだ。
「どうした」レイエスが言った。
「匂いがします」
「何の」
エミリーは答えなかった。
答えられなかった。
三階の突き当たりの部屋の前で、気配が最も強くなった。匂いも最も濃い場所だった。
廊下の照明が、その部屋の前だけ、わずかに暗かった。電球が切れかけているのか。それとも別の理由で——光を吸収する何かが、その場所にあるのか。
エミリーがドアを開けた。
部屋の中央に、霊がいた。
エミリーは固まった。
サラだった。
間違いなかった。サラの顔。サラの髪。サラの背格好。サラが好きだったゆったりとしたセーター。生前と何も変わっていなかった。いや——輪郭が少し曖昧だった。しかし確かにサラだった。
「エミリー」後ろでレイエスが言った。「やれ」
エミリーは動けなかった。
サラがエミリーを見ていた。
生前と同じ目だった。エミリーを見るいつもの目だった。
その目を見た瞬間、エミリーの中の何かが崩れた。一年以上、この仕事を続けてきた。サラのために続けてきた。しかし今、サラがここにいる。
「できません」エミリーは言った。
「何?」
「この霊は——」声が震えた。「サラです。私の友人です」
「エミリー。感情で判断するな。何度言った」
「わかっています。でも——」
「でもはない」
「サラなんです」
「だからこそだ。感情が最も強い時こそ、冷静でなければならない」
サラの霊がゆっくりと動いた。
エミリーに近づいてきた。
その時、エミリーは気づいた。サラの足が——床をきちんと踏んでいた。他の霊は床の少し上を漂うように動いた。しかしサラの霊は、床を踏んでいた。足音はなかった。しかし踏んでいた。
それが何を意味するのか、エミリーには理解できなかった。
ただ、違う、とだけ思った。
「エミリー、下がれ」レイエスが言った。
「嫌です」
「これは命令だ」
「できません」
レイエスが前に出てきた。エミリーの前に立ちふさがるように。そして意志を向けた。
サラの霊が薄くなり始めた。
「やめてください」エミリーはレイエスの腕を掴んだ。
レイエスが止まった。
その隙に、サラの霊が薄くなるのが止まった。
サラの霊が廊下の方へ動いた。そしていなくなった。
外へ出た。
夜の空気が冷たかった。
「破門だ」とレイエスは言った。
エミリーは何も言えなかった。
「感情で動く人間に、この仕事はできない」
「サラを消すことはできません」
「それがお前の答えか」
「はい」
レイエスはエミリーを見た。長い間、見ていた。
「お前には才能がある」と最後に言った。「しかし才能と正しさは別物だ」
そして背を向けて歩き去った。
エミリーは寮の前に一人で立っていた。
振り返ると、寮の三階の窓に——電気のついていない部屋の暗い窓の中に——人の形が見えた。
こちらを見ていた。
サラだった。
サラが窓の向こうから、エミリーを見ていた。
エミリーは長い間、その窓を見た。
サラは動かなかった。
ただ見ていた。
その顔が——微笑んでいた。
エミリーは目を逸らした。
第四章 ノラ
行き場を失ったエミリーは、とりあえずカフェに戻った。
アルバイトを再開した。コーヒーを出して、サンドイッチを出して、笑顔で接客した。体は動いたが、頭は別のことを考え続けていた。
何か別の方法が必要だった。除霊ではない方法が。
インターネットで調べた。「霊媒師」「幽霊 コミュニケーション」「除霊しない 霊 専門家」。検索結果のほとんどは怪しいものばかりだった。しかしいくつかの結果の中に、一枚のフライヤーの画像があった。
NORA HAYES — SPIRIT MEDIATION 「消すのではなく、話し合う」
住所はレキシントンのダウンタウンだった。
ノラ・ヘイズは、エミリーが想像していたのと全く違った。
四十代。丸い眼鏡。ふわっとした赤い髪。手芸用品店にいそうな雰囲気の女性だった。事務所は小さなアパートの一室で、本棚と観葉植物と小さなテーブルがあるだけだった。棚には手作りらしいセーターが畳んで置いてあった。
「除霊師に弟子入りしていたの」とノラは言った。エミリーの話を聞きながら、紅茶を飲んでいた。急かさなかった。
「はい。でも破門されました」
「サラちゃんを消せなかったから」
「そうです」
ノラはしばらく紅茶のカップを見ていた。
「あなた、霊の目が気になったでしょう」
エミリーは驚いた。
「どうして」
「そういう人は必ずそこが引っかかる。霊の目に何かを見る人。あなたはそういうタイプだと思う」
「霊の目には何があるんですか」
ノラはカップを置いた。
「恐怖よ」
エミリーは黙った。
「霊は人間を怖がっている」ノラは続けた。「特に、除霊師のような能力を持った人間を。あなたが見てきた霊の目にあったのは、怒りでも憎しみでもなかった。恐怖だった」
「でも霊は人を傷つけます。サラを殺した霊も——」
「そう」ノラは頷いた。「傷つける。でもそれは、恐怖から来ている。怖いものに対して、追い詰められると攻撃する。自衛本能から」
「霊の世界に、そういう教育が伝わっている」ノラは続けた。「新しく死んだ者には教えられる。生者は危険だ、除霊師は消す者だ、近づくな、先に手を出せ、と。その教育が何世代にも——何世代という言い方が霊に当てはまるかどうかわからないけれど——引き継がれてきた」
「サラも、その教育を受けた」
「死んですぐに、受けたと思う」
エミリーは考えた。サラが死んで、最初に誰かと会い、最初に何かを教えられた。生者は危険だ、除霊師は特に危険だ、と。そしてエミリーはサラの死に関わった者であり、かつ除霊師として訓練された者だった。
「サラちゃんに会いましょう」とノラは言った。
「会えますか」
「あの学生寮に、まだいるなら」
ノラはしばらく目を閉じた。
部屋の温度が変わった。
単なる気温の変化ではなかった。何かが——部屋に、存在した。エミリーはそれを皮膚で感じた。首の産毛が立った。腕の内側が鳥肌になった。空気が薄くなるような、気圧が変化するような感覚が、ほんの数秒続いた。
ノラが目を開けた。
「いる」
一拍の間。
「あなたに会いたがっている」
エミリーの胸が締め付けられた。
「いつ会えますか」
「今夜でも」
第五章 再会
深夜。
学生寮の前に、エミリーとノラが立っていた。
十二月の夜だった。気温は零度近かった。しかしエミリーは寒さをあまり感じなかった。体の内側から何かが燃えているような——いや、正確には、体の感覚全体が鋭くなっていて、寒さよりも先に別の感覚が来ていた。
「私が仲介する」とノラは言った。「サラちゃんの言葉を訳して伝える。霊は直接言葉を話さない。印象やイメージを送ってくる。それを私が言葉にする」
「わかりました」
「一つだけ言っておく。霊は嘘をつかない。感情をそのまま出す。それが辛いものであっても、私はそのまま伝える。覚悟して」
「はい」
寮に入った。エントランスは無人だった。夜間の自動ドアが開き、閉じた。その音だけが廊下に響いた。
三階の廊下を歩いた。
エミリーの肌が、廊下に入った瞬間から粟立った。鳥肌が首筋から背中へ広がった。気温が低いためではなかった。体の内側から来る悪寒だった。廊下の照明が正常に点いているにもかかわらず、光が足元まで届かないように感じた。影が長かった。自分たちの影が、実際の身体より大きく床に伸びていた。
サラのコロンの匂いがした。
最初は薄く。突き当たりの部屋に近づくにつれ、濃くなった。ラベンダーとシダーウッドの香りが、廊下の空気に溶けていた。その匂いを嗅ぐたびに、記憶の断片が来た。ソファに並んでいた記憶が。サラの笑い声が。
部屋のドアに手をかけた。
ドアが——ドアノブを回す前に、開いた。
エミリーは息を呑んだ。
サラがいた。前回と同じ場所に。同じ姿で。
しかし今回は——何かが違った。
サラの輪郭が、前回よりはっきりしていた。明確だった。服の皺まで見えた。セーターの編み目まで見えた。
そしてサラの顔に——表情があった。
霊に表情があると表現することが正しいかわからない。しかし、何かが動いていた。顔の表面に、感情が揺れていた。
「エミリー」ノラが口を開いた。「サラちゃんが言っている。『来てくれた』と」
エミリーは言葉が出なかった。
「『怒っていると思っていた』と」
「怒っていない」エミリーは言った。「全然」
ノラが目を閉じた。受け取っている。
「『怖かった』とサラちゃんが言っている。死んでから、ずっと怖かった。人間が見えると、消されると思って。でもあなただけは、目が合っても攻撃してこなかった。それが不思議だったと』」
エミリーは泣きそうになった。
「サラを傷つけたりしない」
「『わかっている。でも最初はわからなかった。幽霊の世界では、生者は全員が危険だと教わる。特に見える力を持った者は』」
「私が除霊師だったから」
ノラが頷いた。
「サラちゃんはあなたが除霊師だと知っていた。だから最初はとても怖かったと言っている。でも、あなたが自分を消さなかった日から、少しずつ信じるようになったと」
エミリーは、学生寮で自分が除霊を拒否した夜を思い出した。
あの夜、エミリーはサラを守るために除霊を拒んだ。しかしサラの側では、エミリーが消さなかったことを、信頼のサインとして受け取っていたのだ。
「ごめん」エミリーは言った。「サラ。私は間違っていた。除霊師になったのはあなたを守れなかったからで——でも私がやってきたことは、あなたと同じような存在を消し続けることだった。本当にごめん」
ノラが目を閉じた。しばらく沈黙が続いた。
「サラちゃんから、いくつかの感情が来ている」ノラはゆっくりと言った。「受け入れている、という感触。でも——」
ノラが止まった。
眉が、わずかに寄った。
「でも?」エミリーは言った。
「もう一つ、別の感情がある」ノラは言った。「うまく言葉にできないけれど——」
その時、部屋の温度が急激に下がった。
気温の変化ではなかった。部屋そのものが、何かを——吐き出すように、冷えた。
エミリーの吐く息が白くなった。
「エミリー、一歩下がって」ノラが言った。
「え?」
「今すぐ」
エミリーが下がった。
その瞬間だった。
サラの霊が動いた。
後で、エミリーは何が起きたかを整理しようとした。しかしうまくできなかった。
サラが近づいてきた。
速かった。これまで見てきた霊の動きとは違う速さだった。床を滑るのでもなく、浮くのでもなく——ただ、距離が縮まった。一瞬の間に、サラがエミリーの目の前にいた。
ノラが何かを叫んだ。
エミリーは壁に押しつけられた感覚があった。
壁ではなかった。
何かに、背後から包まれた。
氷のような感触だった。ガラスのような硬さではなかった。水でもなかった。氷そのものが、皮膚から体内へ染み込むような感触だった。血管の中を冷たいものが通っていくような。肺が縮んだ。息ができなかった。胸郭を外側から強く押されているのに、痛みがなかった。ただ、空気が入ってこなかった。
サラの顔が、エミリーと同じ高さに来た。
真正面で、エミリーを見ていた。
その距離に、体温がなかった。エミリーの体から、熱が——吸い取られていた。皮膚から、筋肉から、骨の中から、熱が引き出されていく感覚だった。
サラの目が、エミリーを見ていた。
その目に——怒りはなかった。
悲しみもなかった。
恐怖があった。
サラ自身の、深く根付いた恐怖が。
「サラ」エミリーは言おうとした。声が出なかった。喉が締まっていた。
ラベンダーとシダーウッドの匂いが、鼻腔を満たした。甘く、濃く、窒息しそうなほど濃く。
エミリーの視界が、端から暗くなっていった。
最後に見えたのは、サラの目だった。
恐怖に満ちた目だった。
そして、意識が途切れた。
第六章 境界
暗かった。
エミリーは暗い場所にいた。
体がなかった。正確には、体があることを感じなかった。重さがなかった。痛みがなかった。温度もなかった。床があるのかどうかもわからなかった。立っているのか、浮いているのか。
あるのは、意識だけだった。
そして、見えた。
世界が、見えた。これまでとは違う見え方で。
学生寮の廊下が見えた。しかし生者が見る廊下ではなかった。もっと曖昧で、もっと古くて、様々な時代の痕跡が重なって見えた。長い歴史の堆積が、同時に存在していた。建物が建つ前のこの場所の記憶が。建築中の記憶が。最初の住人の記憶が。何十年もの時間が、同じ空間に積み重なって、同時に見えた。
そしてそこに、霊たちがいた。
多くの霊がいた。
これほど多くの霊が存在していたのか、とエミリーは思った。生者として見えていた霊は、ほんの一部だったのだ。廊下だけで、何十もの霊が存在していた。壁に溶け込むように立っている霊。天井の近くを漂っている霊。床の中に沈んでいるように見える霊。様々な形の、様々な濃度の、霊たちがいた。
霊たちがエミリーを見ていた。
「新しい者が来た」誰かが言った。声ではなかった。しかし言葉として届いた。
「どこから来た?」
「生者の側から」エミリーは答えようとした。
ざわめきが広がった。
「生者?」「どうして生者がここに?」「消されたのか?」「除霊師に消されたのか?」
エミリーは違う、と言おうとした。
しかし——言えなかった。
私は何だ。
ここにいる。体がない。見えている世界が変わった。
私は死んだ。
サラに、殺された。
その認識が来た瞬間、エミリーは何かが崩れる感覚があった。体がないのに、崩れる感覚があった。
サラに殺された。親友に。
一年以上、サラのために除霊師になった。サラを消せなくて破門された。ノラに会って、話し合いの場を作ってもらって——そして殺された。
サラの目の恐怖が、今も残っていた。
サラは恐怖から殺した。
だとしても。
だとしても、自分は死んだ。
幽霊の世界で、エミリーはサラを探した。
老いた霊がエミリーに言った。「ここでの在り方を教えてあげる」
「何が教えられているのか、ここでは」エミリーは聞いた。
「生者は危険だ。除霊師はとくに危険だ。近づくな。攻撃されたら反撃しろ」
「その教えを疑ったことはありますか」
老霊は沈黙した。長い沈黙の後、「最初から、そういうものだ」と言った。
「しかし私は生者だった。除霊師だった。しかし怖がっているだけの霊を、消したくなかった」
老霊はその形を揺らした。しかし何も言わなかった。
サラは最上階の窓の前にいた。一人で夜景を見ていた。
エミリーが近づくと、サラが振り返った。
その顔に——混乱があった。
「エミリー?」
「来たよ」
「どうして——あなたはここにいてはいけない」
「いてはいけない場所じゃないみたいだよ、今は」
「なぜ殺したの」エミリーは聞いた。
サラが顔を歪めた。
「怖かった」
「私が?」
「わかっていた。あなたがエミリーだということは、わかっていた。でも身体が——意志じゃなくて、恐怖が先に動いた。止められなかった。気づいた時にはもう——」
「ごめん」サラが言った。「ごめん、エミリー。あなたが私を傷つけないことは、わかっていた。でも——」
「わかってる」エミリーは言った。
エミリーは本当に怒っていなかった。怒りより先に、悲しみがあった。そして——疲労があった。ずっとずっと走り続けてきた疲労が。
二人は窓の外の灯りを見ていた。
しばらく、ただそうしていた。
高校一年の春から続いてきた六年間が、ここに来て終わった。いや——終わり方がこうなった。正確にはまだ終わっていないのかもしれない。エミリーは幽霊で、サラも幽霊で、二人はまだここにいる。
しかし生者の側での、二人の時間は終わった。
もう戻れない。
その事実だけが、重くそこにあった。
第七章 師匠
幽霊の世界で、エミリーはある気配を感じた。
廊下から来る気配だった。霊の気配ではなかった。
生者の気配だった。
重い、冷静な、練り上げられた意志の気配。長年積み上げられてきた、揺るがない意志の塊のような気配が、廊下から近づいてくる。
エミリーにはわかった。
「レイエスが来た」
サラが身を固くした。
「——」
「大丈夫」エミリーは言った。しかし自分でも、大丈夫の意味がわからなかった。
レイエスは学生寮の三階の廊下に立っていた。
生者として。除霊師として。
エミリーには見えた。生前と同じ、痩せた老いた男が廊下に立っていた。コートを着ていた。手に塩の小袋を持っていた。除霊の道具を持っていた。
ノラから連絡が来たのだろう。エミリーが死んだ、と。
レイエスの目が廊下を走った。訓練された目だった。
「エミリー」レイエスは低い声で言った。
エミリーは意志を放った。
レイエスがこちらを向いた。
その目が——微かに動いた。
見えていた。
エミリーが見えていた。自分が訓練した弟子が、幽霊になって目の前に立っているのが。
「聞こえるか」
——聞こえています。
レイエスは煙草を取り出した。しかし火をつけなかった。煙草を指の間で転がしながら、エミリーを見ていた。
「ノラから聞いた。サラちゃんに殺された」
——はい。
沈黙。
レイエスが長い間、エミリーを見ていた。
「お前のことを考えた」とレイエスは言った。
「先生」エミリーは意志を押した。「除霊をやめてほしい。霊は怖がっている。除霊師が除霊をやめれば、この循環は——」
「わかっている」レイエスは静かに言った。
「では——」
「理屈はわかる」
「では」
「お前が言うことは正しい」レイエスは言った。「しかし——」
その「しかし」の後に、重い間があった。
「生者と死者の間に、お前のような者がいることの危険さを、お前は理解しているか」
エミリーは黙った。
「境界が薄くなる。感受性の強い者が幽霊になれば、霊の影響力が増す。この寮の学生たちへの影響が——お前がここにいる限り、増し続ける」
「しかし私は——」
「わかっている」レイエスはもう一度言った。「お前が言いたいことは、わかっている」
「では」
「お前が言う架け橋とやらが機能するまでに、何十年かかるかわからない。その間、何人が傷つく。今夜も、明日も、その次の日も」
「では何も変わらない」
「変わるかもしれない」レイエスは言った。「しかし——今夜は変わらない」
エミリーは前に出た。意志を向けた。除霊師として訓練された意志が、幽霊の側から放たれた。
レイエスがそれを受け止めた。
押し返された。
訓練した師匠の意志の前に、弟子の意志は届かなかった。
エミリーは何度か試みた。押し返されるたびに、自分の存在が揺れるような感覚があった。霊としての自分の輪郭が、ぼやけるような。
「エミリー」レイエスは言った。「お前は七ヶ月で基本を習得した。しかし私は四十年やってきた」
エミリーは止まった。
「先生」
「何だ」
「あなたは——これが正しいと思っているんですか」
レイエスは答えなかった。
長い沈黙が続いた。
廊下の照明が、わずかに揺れた。
「それが答えだ」とレイエスは最後に言った。
煙草を仕舞った。
塩の小袋を手に取った。
意志が来た。
エミリーはそれを受けた。
押し返そうとした。しかし押し返せなかった。
体がないのに、何かが引き剥がされる感覚があった。存在そのものが、薄くなっていく感覚があった。
「エミリー!」サラが来た。「エミリー——」
しかしレイエスの意志はサラにも向けられた。サラも押し返された。
「エミリー——」サラが叫んだ。声ではなかった。意志だった。「エミリー——」
エミリーは薄くなっていった。
消えていった。
廊下の空気から。この世界から。
最後に見えたのは、レイエスの顔だった。
その目が——濡れていた。
訓練の後に煙草を余分に一本吸う男が。感情を表に出さない男が。その目が、濡れていた。
それが最後に見えたものだった。
そして、何もなくなった。
第八章 消去の後
廊下に、静寂が戻った。
レイエスは動かなかった。
長い間、廊下の突き当たりを見ていた。
エミリーがいた場所を。
煙草を取り出した。
火をつけようとして——やめた。
手が、わずかに震えていた。
レイエスはその手を見た。四十年間、これほど手が震えたことがあっただろうか。
ポケットに煙草を仕舞った。
踵を返して、廊下を歩き始めた。
階段を降りた。
一階のロビーを通り抜けた。
自動ドアが開き、閉じた。
外の空気が冷たかった。
レイエスは立ち止まった。
寮の建物を振り返った。
三階の廊下の窓。
電気がついていた。
正常な照明の光が、廊下を照らしていた。
影はなかった。
何もなかった。
しばらく見ていた。
レイエスは路地を抜け、自分のビルへ戻った。二階の事務所の電気がついていた。まだ消していなかった。
階段を上った。
扉を開けた。
煙草の匂いがした。以前なら当然のことだったが、今夜は少し、違う何かが混じっている気がした。
机に座った。
机の上の書類が見えた。次の依頼の書類が。レキシントン北部、別の家からの依頼が。「物が動く」「妙な気配がある」「子供が何かを見ている」。いつもの内容だった。
読もうとした。
読めなかった。
エミリーの顔が頭から離れなかった。
除霊師になると言ってきた二十二歳の子が。七ヶ月で基本を習得した子が。サラの霊を前に動けなかった子が。破門した後も、自分なりの答えを探し続けていた子が。
幽霊になってまで、「除霊をやめてほしい」と言いに来た子が。
レイエスは煙草に火をつけた。
煙を吐いた。
それから二本目に火をつけようとして——止まった。
事務所の隅で、温度が下がっていた。
レイエスはそれを知っていた。長年の経験で、即座に感知できた。
事務所の隅に——何かが、いる。
レイエスは動かなかった。
事務所の隅を、ゆっくりと見た。
何もなかった。
目には見えなかった。
しかし——確かに、温度が下がっていた。首の後ろから体温が失われていく感覚が、確かにあった。
「エミリー」レイエスは言った。
事務所は静かだった。
「……気のせいだ」
レイエスはもう一度煙草を吸った。
煙草が燃え尽きた。灰皿に押しつけた。
立ち上がろうとした時——。
机の上の書類が、動いた。
風はなかった。窓は閉まっていた。
しかし書類の一枚が、滑るように、数センチ動いた。
レイエスは動かなかった。
書類を見た。
白い紙の上に——細かな埃が積もっていた。古い事務所の埃が。その埃の上に、何かが描かれていた。
五本の指の跡が。
誰かが右手の指先を軽く置いたような跡が、埃の上に残っていた。
レイエスは長い間、その跡を見た。
立ち上がった。
窓を開けた。
冬の夜風が事務所に入ってきた。
書類が散った。指の跡のある紙も、舞い上がり、床に落ちた。
レイエスは窓の外を見た。
レキシントンの夜景が広がっていた。街路樹の赤い葉がほとんど落ちていた。
遠くで、犬が鳴いた。
静かな夜だった。
「——」
何かが聞こえた気がした。
声ではなかった。しかし何かが——耳の奥で、鳴った気がした。
レイエスは窓を閉めた。
振り返った。
事務所は静かだった。
書類が床に散っていた。
電気が点いていた。
何もなかった。
レイエスは机に戻り、座った。
散った書類を拾わなかった。
ただ、机の前に座っていた。
煙草を取り出した。
しかし、しばらく火をつけなかった。
翌朝。
レイエスは事務所の机で目を覚ました。椅子に座ったまま眠っていた。
首が痛かった。
書類が床に散っていた。
レイエスは書類を拾い始めた。一枚一枚、拾って、机に戻した。
最後の一枚を拾おうとした時——止まった。
それは指の跡が残っていた紙だった。
夜の間に、跡は消えていた。
白い紙に、何もなかった。
しかし——
その紙に、文字が書かれていた。
エミリーの字だった。鉛筆で、薄く、しかし確かに書かれていた。
これが正しいと思っているんですか
レイエスは長い間、その文字を見た。
窓の外に、夜明け前の灰色の光が広がっていた。
数日後。
レキシントン大学の学生寮の三階の廊下を、二人の学生が歩いていた。
「最近、どう?」
「落ち着いたと思う。もう物は動かないし」
「よかった。あの匂いもしなくなった?」
「——あ」
学生が立ち止まった。
廊下の突き当たりの前で。
「どうした?」
「匂い、する」
「え?」
「今——するよ。花みたいな」
もう一人が鼻を鳴らした。
「——ほんとだ」
二人は顔を見合わせた。
「気のせいじゃない?」
「気のせいかな」
「うん、気のせいだよ」
二人は歩き出した。
廊下の電気が、一度だけ、瞬いた。
翌月。
レイエスの事務所に、また依頼が来た。
「レキシントン大学の学生寮で、再び怪奇現象が起きている。特定の廊下で、何かの気配がする。匂いがする。学生の一人が夢を見ると言っている。廊下に女性が立っていて、何かを言おうとしているが、声が聞こえない——」
レイエスはその依頼書を長い間見ていた。
それから、机の引き出しから煙草を取り出した。
火をつけた。
煙を吐いた。
煙草を灰皿に置いた。
電話を取った。
FEAR THE LIVING
恐れているのは、お互い様だった。
だから、誰も止められなかった。
END
