出版社が漫画家・小説家の味方とは限らない
個人事業主として創作活動をする作家と、二次制作(メディアミックス)戦略も含め自社利益を図る出版社との関係の複雑さは、かねてから指摘されてきた。
映画化が大ヒットしたのにほとんど金銭的報酬はなかったとか、ドラマ化の脚本に納得がいかず最終的には重大深刻な事案に至ったとか。
更に先般は、出版社が漫画家の非違行為の事後対応に関与したとか、それを伏せたままその漫画家を再起用したとかの報道もあった。
本文では、「マンガワン事件」と「セクシー田中さん事件」を題材に、出版事業の課題を考察したい。
第一に、議論の前提として作家や出版事業の現状を確認しておく。
まず、作家(小説家・漫画家など)が社会性に欠ける変わり者だという評価は、主語が大き過ぎる偏見でしかない。
表現の上手い彼ら自身による自虐的な戯画化も相俟って、そのような認識が通俗的になっている。
しかしこれは、社交的な者も内向的な者もどの業種・会社にも遍在しているという話に過ぎない。
とは言え、学校卒業後すぐに作家を志望し創作活動に専念してきた場合などは、対外折衝や関連法規、更には基本的な実生活ですら不得手な人間も確かに存在する。
そこで若年の作家(で、有能な者)に対しては、作品を寄稿・連載している雑誌の担当編集者が公私に渡り支援することも珍しくない。
仕事部屋の選定や所得の確定申告などの手伝い(あるいは肩代わり)に留まらず、健康・体調管理や家族・恋愛相談に応じる事例も作家自伝で描かれたりする(多少は誇張されているだろうが)。
本来的には、編集者の業務は直接的な創作活動への助力となろうが、その境目はかなり曖昧になっている。
次に、前記とは別に担当とすらあまり関わりたがらない作家もいる。
一般的な会社員や俳優・声優等と違い、作家の仕事は極論ペンと紙があれば足りる。
特に近年は電子機器による遠隔(リモート)での打ち合わせも増えており、理屈の上では「顔や声すら知らない相手から作品の提供を受け、報酬を支払う」という関係性も成り立ち得る。
そこまででないにしても、作家だろうが普通の被雇用者だろうが、委託・雇用側は相手の全てを把握していない。
こちらには良い仕事をしてくれるのだが、実は陰でとんでもない重罪を働いていた、ということも。
特に実名や人相が分かっていなければ、「この作品を書いたのが指名手配犯だった」ことだって察知できない。
そして、作家の私生活や担当との距離感などに関わらず、担当(出版社)は作家利益と会社利益との板挟み・利益相反の問題を抱え易い。
特に実写化等の二次制作に際し、著作人格権と版権利益との間の葛藤がその典型であろう。
第二に、マンガワン事件について。
経緯としては――同誌連載作家の性加害が発覚し、児童買春等で逮捕。同誌は連載を終了させたが、対外的にはこれらの説明を隠蔽した。
逮捕後、被害者との示談交渉に漫画家の担当編集者も加わり、事件秘匿も含めた具体的な提案をおこなった。
示談が決裂し民事訴訟の最中、同誌は別名義にて新連載を開始させた。
これらが報じられると、同誌での他の連載漫画家多数が、作品引き上げを含む非難声明を出した。
その後被害者から版元である小学館への批判は本意でない旨が発信された。また作品引き上げとしていた漫画家のうち、連載を再開した者も何名かいた。――が、概要となる。
これについて、まず雑誌・出版社が経過を表に出さなかったことが批判されている。
重大な非違が発覚した作家の連載中止理由を隠し、更にその点が(社会的だけでなく)法的にも清算されていない状態で新連載を始めたことの社会的責任。
次に担当が示談に関与したことも疑問視された。
担当編集者という立場に過ぎないのに、加害者-被害者という関係性の中で一方的に加害者に与した行動を採って良いのか、という意見も多く見られた。そもそも非弁行為との疑義も。
一方で、衝撃的だった初報への反応として同誌へ最大限の非難を示しておきながら、早々に元通りになった他の連載作家の行動基準を蔑視・嘲笑する者も存在する。
そのような作家達の是非はともかく、民衆や読者の中には「社会人として未熟な漫画家たちを出版社・雑誌側はしっかりと教導し、不祥事が起こらないようにするべき」との提案もある。
第三に、セクシー田中さん事件について。
こちらも簡述しておくと――原作たる漫画作品の実写ドラマ化に際し、原作者の意向が現場に伝わらないまま制作・放送が進行してしまった。
そのため多くの行き違いの末、原作者の権利として放送終盤の脚本を自ら作成したことが脚本家の反発を招き、SNSを通じた応酬の末に原作者は自殺した。――とまとめられる。
この件に関し、まず原著作者は二次的著作物に対し強い権利を留保している。
ドラマ化等を認める権利は、基本的に原作者が有する(無論、実際には出版社への恩義から不承不承で応じる時もあれば、作家の無知・無関心にかこつけて「良かれと思って」ドラマ化が勝手に決まってしまう時もあるのだろう)。
更にドラマ化するにしても、どのような内容とするかも原作者は強く指示できる。
すなわち、「作品がどのような方途で表現されるか」を原作者は強い立場で決めることができる。
逆に言えば、「原作者も不満はあるだろうけど、ある程度は希望を聞くからこのドラマ化で認めて」と互いに譲歩するものではない。
さりとて二次制作事業者(テレビ局など)側もまた、ある意味では選べる立場にある。
原作者側があれこれ五月蝿いことを言ってくるぐらいなら、他のやり易い作品の話を進めようとテレビ局は考える。
なので原作者はともかく、出版社側が(原作者の意向よりも)自社の版権利益を重視し、テレビ局と半ば結託して原作者を説得することもあり得る(この点、出版社としては利益相反的な立ち位置にもなる)。
次に二次制作者側も、複雑な作業工程を抱えている。
企画主体としてはテレビ局等になるが、脚本や監督、更に撮影・音声・美術関連は外部(系列の制作会社含む)に委託する。
そして出演する俳優・女優の起用もまた、各事務所との調整を要する。
そのため各自(人物だけでなく機材や撮影場所含む)の日程を押さえた段階で、かなり後戻りが難しくなる(多額のキャンセル料など)。
この点、最初の契約段階で原作者と二次制作者との齟齬を埋めておくべきという正論も万能ではない。
そもそも原理的に言って、紙媒体で表現される文字や絵画を、朗読劇・歌劇・実写・アニメ等々によって全く同じ趣旨・技法で表現することはできない。
というより、表現媒体を変えたものが二次制作の本領だとも考えられる。
したがって脚本家や監督、演者の主観がそれぞれの工程で入り込み、良くも悪くも原作者の世界観とズレていく。
更に二次制作側にて意図的に魅せ方を改めることも。センシティブかつ重厚な原作を、ポップで映えるドラマとするなど。
これらは大抵、より広い視聴者層に訴求するためだが、作品意図の維持を重視するのか、売れ線に仕上げてくれれば何でも良いと構えるのかは原作者によっても考えは違う。
どちらにしても原作者の理解が不可欠となるが、ここでも出版社は利益相反に陥り得る。すなわち、出版社は大概視聴数を稼ぐ内容にしてほしいと望むが、原作者はそれ目的で内容改変するなと求めるという背反も充分起こり得る。
この他、作品の二次化に伴う、原作者側と二次制作者側との緊張関係も付記しておきたい。
撮影現場では監督や俳優が自らの才覚と了見で独自解釈を加えようとするのに対し、原作者側が異を唱える場合もあろう。
その時、日陰者の漫画家(や小説家)に対して、プロデューサー・タレント・脚本家という華々しい業界人グループという対比が浮かび上がることもあるかも知れない(少なくとも原作者側の気持ちとして)。
加えて、有名な俳優や分かりやすい物語に惹かれた映画・ドラマ視聴者の存在の大きさが、原作者本人や原作読者との意識の落差を生むこともあろう。
こうした環境では、各自が「私の本当の理解者は何処に」という不安・困惑を強めてしまいかねない。
原作者と二次制作者との齟齬に話を戻すと、例えば「このように最終話まで撮影してみたので、これで放送してよろしいでしょうか、ダメなら辞めておきます」とテレビ局が申し出ることはあり得ない。
こうした問いかけであれば、確かに「契約段階で、原作者が二次制作の内容を(演技や構成も含め)十全に把握することができた」という要件は満たす。
しかし不承認だった場合、出演料等々の金銭と時間が全て無駄になる。
この仮定は極端だとしても、ではどこまで内容を詰めた(あるいは詰めることができる)時点で、原作者に話を持ち掛けるべきだろうか。
全ての台詞(や地の文・ナレーション)が書き込まれた本番台本を提示できれば、文字だけとはいえその制作意図をかなり読み込める。
これを原作者が受け入れておきながら、実際の放送を見て「構図や表情、声色が思っていたのと違う」と深刻な異議申し立てに発展する蓋然性は少ないだろう。
ただしこれも、「原作者とは契約していないけど、脚本家には有償で本番台本を書かせた」状態が前提となる。
脚本家とて相当の専門職であり芸術性がある以上、原作だけ眺めてプロット・シナリオを文字起こしするわけではない。
起用する俳優や撮影予定現場を想起しながら詰めていくのが通例だと思われる。当然その中には、原作者やプロデューサー、監督との事前協議で定まったイメージも大いに加味されよう。
すなわち「契約段階で本番台本を」という想定もまた現実的でない(脚本家への依頼料が無駄金になりかねないし、そもそもその段階では台本の完成はできない)。
なので結局、原作者に対して初期段階として示せるものは、「プロデューサーが脚本家等に指示する予定の全体イメージや、仮契約した脚本家に書かせたプロット草案」までだろう。
したがって結局は、話し合いながら、あるいは撮影イメージを確認しながら詰めていくしかなく、場合によっては途中での中止・変更も含みとするべきなのかも知れない。
そのため「最初に万全な擦り合わせを済ませるべき」という模範解答というよりも、「現時点で、どの部分・要素で思い違いが起こり得るか」を数え上げておく方が有用に思える(こちらもまた、抽象的な方途になってしまうが)。
第四に、前記までを踏まえた上で、今後のあり方について考えたい。
まず、マンガワン事件関連として、「出版社は作家の公私を掌握・管理しており、またそうあるべき」という認識・規範を見直すべきだと考える。
知っていながら隠した当該事件は論外としても、「そもそも弊社・弊誌は作家さんの人となりすら確認していませんので悪しからず」という姿勢もあってよいのではないか。
マンガ・ドラマ的な仮定になってしまうが、「今まで作家としてやりとりしてきた者が実は代理人に過ぎず、本当に創作してきた者は別に居る」という奇譚はしばしば描かれてきた。
俳優等と異なり、密室での成果物を電子送信するだけで成り立ち得る作家業では、「この人があの仕事をしている」との結び付けは難しい。
言うまでもなく大体は作家の個人性を熟知している(と担当は思い込んでいる)だろうし、私事にまで手助けすることも少なくないのだろう。
そこで非違行為を知った場合は相応の対処責任を伴うべきだが、非違があるかないかを調べ尽くす義務はない。
したがって、「この作家さんが陰で何をしているか本当に知らないので、それを承知で愛読者になるなり映画化企画を持ち掛けてくるなりしてください」と割り切ってもいいと考える。
こうしたことが整理されないまま、単純に「作家が問題行動を起こしたから、その保護者たる出版社も連帯責任がある」かのような言説は短絡ではないか。
前記の関係性も成り立ち得る一方で、出版社の意向として作家に深く干渉する考えもあってよいのだろう。というよりむしろそれが普通だとも言える。
どの社も有望作家を囲い込みたい。
だから平均以下の作家には塩対応で済ませつつ、大作家や将来有望な者に対しては手取り足取り24時間対応で恩義を売る編集者がいてもおかしくない。
そしてこうした関係性が、「創作業に直接関わる事柄を支援するべき」という建前がなし崩しになっていく温床でもあるのだろう。
次に、セクシー田中さん事件関連として、二次制作での留意事項を明確にするべきと考える。
部分的には既に第三の後半で書いたが、契約時に作家が全てを見通した上で署名することはできない。
そのため契約時点、脚本等の仮策定時点、出演者や撮影場所が固まった時期での本番用台本完成時点など、段階的に制作イメージを絞り込んでいきつつ、その都度原作者との認識共有を図るといった工程を経なければならないことを事前に理解する必要がある。
その上で実務的な手順として考えると、二次制作表現で枢要なのは本番用台本及びそれの元となる脚本と思われるので、原作者との(仮)契約後速やかに脚本家にも話を持ち掛け、構想案を充分に交わした上でそれ以降の手続きに移ることが望ましいのだろう。
(逆に言えば、「このタレントやこのロケ地はイメージと違うので全部ナシにして」と言ってくる場合はほぼないと考えられる。)
最後に、出版社の利益相反関連として、作家個人の著作権等の擁護・主張を確保するため、出版社から独立した「クリエイター権利擁護連絡会」のような団体を創設することが考えられる。
漫画家・小説家に限らず、著作権法を含めた各種法律及び関連する権利・義務に明るくない者は多い。
無論、市民社会ないし法治国家の建前としては、義務教育を経た各自が、自身の生業に関わる法規ぐらいは熟知しているべきとされる。
しかし現実には難しいからこそ、弁護士の需要がある。
更に作家の場合、担当編集者と個人的な人間関係を形成しているため、明確な契約書もないまま、連載・出版・アニメ化・グッズ展開・海外進出など、自分が得なのか損なのかよく分からないまま(そしてそれを聞きづらいまま)重要な事態が進んでいく。
この辺りはプロ野球の年俸交渉代理人の必要性とも似通っており、情実から離れた協議を望む作家もいるだろう。
以上を踏まえ、弁護士など著作権法に詳しい専門家が、前記のような原著作物の公表・出版や二次的著作物の許諾・権益に関し、必要に応じて助言や交渉をおこなう仕組みがあってもいいのではないだろうか。
ただし注意点もある。
まず一つに、業界慣行に頓着しないまま法律や権利だけを振りかざしても、依頼人たる作家の立場が悪くなる。そのため検察官や裁判官然とした振る舞いでなく、(円満に進めたい等)作家の願意を的確に言語化する技能が求められる。
また二つに、一般の弁護士と異なり、この構想では業界・対象者が限られている。ゆえに一名の代理人が複数の作家を受け持つことも想定される。
分野や雑誌、映画化時期が同じような作品・作家同士は当然に競合関係にあるが、そうした作家を同一の弁護士が担当して良いのかという疑問が生じる。
更に三つに、代理人となるのは主に弁護士資格者となろうが、若手ないし貯金の少ない作家が弁護士を雇えるのかという難しさもある。
実務的には、同連絡会の役割として、基礎的な助言等は多人数向けの講習や簡易応答で済ませ、作家からの法的相談は弁護士補助者等の事務員が受け持ち、映画化など経済規模の大きい案件や、定例顧問料を支払えるほどの著名作家などの場合は弁護士が専属するなど、段階を分けた対応になるだろうか。
この他四つに、いずれにしてもこの構想は創作業に関わる法的な権利を代弁するものであって、作家個人の私生活まで介助するものではない旨は明らかにしておくべきだろう。
言うまでもなく、顧問契約まで交わせば民事・刑事上の争訟も含めて当該弁護士に処理させることもあろうが、同連絡会に所属する又は斡旋される代理人(弁護士等)の本業は、著作権法等に係る助言となる。
以上、第一から第四まで検討をおこなった。
あらゆる場面で法律だの権利意識だのを充溢させるべきかどうかはまた考えどころではあるが、前世紀的な「作家と雑誌の関係性」だけでは不具合が顕著になってきた以上、一定の見直しを進めていくしかないのだろう。
