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TRUST 第3話

第3話「名義」

十日ほど経った、木曜の朝だった。

始業前のオフィスは、まだ半分も埋まっていなかった。窓の外はよく晴れていて、みなとみらいのビル群がガラスの反射で二重に見えた。

あの日、給湯室で聞いた宮田の声は、それからも耳の奥に残っていた。忘れたわけではなかった。ただ、忘れたことにする方が、朝の支度は早く終わった。

パソコンを立ち上げていると、佳奈が横に来た。

「おはようございます」

「おはよう」

「先輩、ちょっといいですか」

「どうした」

「前に助けてもらった見積もりのファイルなんですけど」

「ああ」

「あれ、なんでバックアップ持ってたんですか。あの案件、先輩の担当じゃなかったですよね」

聞き方が、いつもと違った。責める感じではなかった。ただ、知りたがっている目だった。

「念のため、だよ。癖みたいなもんで」

「先輩の共有フォルダって、誰でも見れるんですか」

「見ようと思えば」

「今度、見方教えてもらっていいですか」

前なら気にしなかった質問だった。今朝は、少しだけ引っかかった。

「何に使うんだ」

「勉強です。先輩みたいに、いろいろ気づけるようになりたくて」

「それだけか」

「それだけです」

「疑ってます?」

「疑ってない」

「疑ってるときの顔、してます」

「してない」

佳奈は笑って、自分の席に戻った。笑い方に、含みがあるようにも、ないようにも見えた。パソコンの画面に向き直った佳奈の横顔を、少しだけ見ていた。


十時前、宮田に呼ばれた。

「悪いんだけど、今月の再発行分、お前のアカウントで通しといてくれるか」

「俺のでですか」

「俺、午後から外だから。承認だけ先にしといてほしい」

「宮田さんのアカウントじゃ、駄目なんですか」

「出先からだと二段階認証が面倒でな。お前のなら、席にいるだろ」

机の上に、契約書の束が置かれた。ぱらぱらとめくった。数字を目で追った。

三件目で、手が止まった。

差額、二十万円。

前に見た数字と、同じ額だった。偶然だと思おうとした。でも、数字はただの数字で、それ以上のことは何も言わなかった。

「これ、前のとは別の案件ですよね」

「別だよ。担当も違う」

「金額、たまたま同じですね」

宮田はパソコンから顔を上げなかった。

「そういうこともあるだろ」

「よくあるんですか、こういうの」

「珍しくはない。うちの業界、単位が丸くなりやすいんだよ」

「丸くなるのが、いつも二十万にですか」

「さあな。覚えてない」

理由になっているようで、なっていない答えだった。それ以上は、聞かなかった。

「頼んだぞ。承認だけでいいから」

宮田はそう言って、席を立った。廊下の角を曲がって、姿が見えなくなった。

契約書の束は、机の上にまだ残っていた。持ち上げると、思ったより軽かった。


自分の席に戻って、ログイン画面を開いた。承認ボタンに指を置いたまま、しばらく動かさなかった。

隣の島で、佳奈が誰かと電話していた。声のトーンだけが、たまに高くなった。

俺は承認画面のスクリーンショットを撮った。理由は、自分でもうまく説明できなかった。ただ、残しておきたかった。フォルダを作って、日付だけの名前をつけて、そこに入れた。

承認ボタンを押した。数字が確定していく音が、パソコンの中でだけ鳴った気がした。


昼、休憩スペースで美雪と会った。窓際の席が、今日は珍しく空いていた。

「珍しいね、先に来てるの」

「たまには」

美雪はサラダの蓋を開けながら、俺の顔を見た。

「佳奈ちゃん、最近なんか変わった?」

「変わった、とは」

「いろいろ聞いて回ってるらしいよ。共有フォルダのこととか、承認の流れとか」

「勉強熱心なだけだろ」

「かもね」

「かもね、で済ませるの、お前もだよな」

「済ませてないだろ」

「済ませてるよ、いつも」

美雪はフォークでレタスを刺した。刺しただけで、しばらく食べなかった。

「宮田さん、また何か頼んできた?」

「アカウント貸してくれって」

「貸すの?」

「断る理由がない」

「そういうとこだよね、お前」

フォークを置いて、美雪が続けた。

「お前ってさ、昔からそういうやつだよな」

「そういうって」

「頼まれたら、断らない。理由も聞かない。ただ、やる」

以前、似たようなことを言われたことがあった。優しい、という言葉だった。今日のそれは、少し違う響きだった。褒めているのか、見透かしているのか、判断がつかなかった。

「悪いことか」

「悪くはない。ただ、便利だよね、周りから見たら」

美雪はそれ以上言わず、レタスを口に運んだ。俺は何も言わなかった。窓の外で、観覧車がゆっくり回っていた。

美雪がトレイを片付けに立った。

「大丈夫?」

戻ってくるなり、そう聞かれた。

「何が」

「さあ、なんとなく」

「変な質問だな」

「そう?」

美雪は笑って、自分の分のゴミをまとめた。


午後、席を外して戻ると、ブラウザが開きっぱなしになっていた。共有フォルダの更新履歴の画面だった。自分で開いた覚えはなかった。

振り返ると、少し離れた席で佳奈が電話をしていた。手元にメモ帳があった。

電話を切った佳奈が、こっちに気づいた。

「あ、すみません、ちょっと借りてました」

「何を調べてた」

「別に、大したことじゃないです」

「大したことじゃないのに、履歴まで見るのか」

佳奈は一瞬、言葉に詰まった。

「先輩の仕事のやり方、勉強になるので」

さっきの「勉強です」と、同じ言葉だった。二度目は、少し早口だった。

「見て、何かわかったか」

「まだ、これからです」

「そうか」

「はい」

「鍵、前からかけてたか」

「さあ、どうでしょう」

佳奈は自分の席に戻った。メモ帳を、机の一番下の引き出しにしまうのが見えた。鍵をかける音がした。


夜になって、みんなが帰ったあと、前の案件のファイルをもう一度開いた。二十万円の欄を、並べて見比べた。

書式が、同じだった。ずれ方の癖まで、同じだった。

誰にも言わなかった。写真だけ、フォルダに増えていった。


その夜、泉から電話が来た。

「今度、転職の面接あってさ」

「どこ」

「まだ言えない。近い業界とだけ」

「近いって、うちの」

「そういうわけじゃない。まあ、隣接ってやつ」

泉の声は軽かった。俺は椅子の背にもたれた。

「そういえばさ」と泉が言った。「こないだ、あの人に偶然会った」

「あの人」

「言ってなかったっけ。前に話したって言った、あの人」

心臓の音が、少しだけ大きく聞こえた。

「誰だよ、それ」

「言わないって決めてる。悪い」

「決めてるのはお前だろ」

「だから、悪いって言ってる」

沈黙があった。電話の向こうで、泉が何かを飲む音がした。

「元気そうだった、その人」

「そうか」

「うん。それだけ」

俺はそれに、何も返さなかった。

「まあ、それでもいいと思うよ、俺は」

何が、とは聞かなかった。泉も、それ以上は言わなかった。

「じゃあな」

「ああ」

電話が切れた。通話時間だけが、履歴に残っていた。


部屋の明かりは点けたままだった。パソコンをもう一度開いた。日付だけのフォルダに、今日の分の画像が並んでいた。二十万円の書類が、二枚。

誰にも見せるつもりはなかった。ただ、消すつもりもなかった。

窓の外で、最終電車が近くの高架を渡っていく音がした。

朝、忘れたことにしたはずのものが、今は名前のついたフォルダになって、机の中に増えていた。

ログイン履歴を、もう一度だけ確認した。今日の日付と、自分の名前だけが並んでいた。宮田の名前は、どこにもなかった。

俺は画面を閉じた。フォルダのアイコンだけが、デスクトップの隅に残っていた。

明日も、宮田は同じ顔で「頼んだぞ」と言うはずだった。断る理由は、今夜もまだ、見つかっていなかった。

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