渇きの果てに…禁断のコンダクター 第27話
アダムスと鹿児島で過ごした日から、一か月近くが過ぎていた。
季節は初夏へと向かい、朝の空気は軽くなり、ベランダの植物にも新しい葉が増えている。
工場へ通い、家事をこなす
――そんな変わらない日常の中で、まゆの心には小さな変化が生まれていた。
かつて胸を満たしていた
「誰かに見つけてほしい」
「求めてほしい」
という焦りは、少しずつ薄れていた。
休日の午後、空を見上げながら鹿児島での時間を思い返す。
思い出されるのはアダムスとの快楽の時間ではなく、混乱しながらも本音を口にした自分の姿だった。
「もっと触れて」
その言葉は自分の気持ちを隠さず伝えていた。
本当に求めていたのは、自分自身に正直になることだった
――そう気づいたまゆは、洗濯物を抱えながらそっと頬を緩ませた。
*
部屋へ戻るとスマホが震えた。
テーブルの上で画面が光っている。
何気なく手に取る。
アダムスだった。
《来月、大阪出張が決まりました》
短い文章。
その下に続く。
《もし都合が合うなら、お会いできますか?》
まゆは画面を見つめたまま動かなかった。
以前なら胸が激しく高鳴っただろう。
迷うことなく会いたいと思ったかもしれない。
けれど今は違う。
心は穏やかだった。
……会いたい。
その気持ちはある。
でも、それだけではない。
会うことも選べる。
会わないことも選べる。
そのどちらも、自分で決めていい。
窓の外では風が吹いている。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
まゆはスマホを握りしめながら、穏やかな笑みを浮かべた。
急いで答えを出す必要はない。
もう、自分の人生の舵は自分で握っている。
その確かな実感だけが、胸の内側にそっと染み渡っていった。
*
夕方になり、健一が買い物から帰ってきた。
スーパーの袋を提げている。
開口一番、
「卵安かったから買ってきた」
思わず笑ってしまう。
「それはよかったね」
健一は不思議そうな顔をする。
「何笑ってるんだ?」
「別に」
まゆは首を振った。
とりとめのない会話。
なんでもない日常。
それが以前より愛おしく感じられる。
*
夜。
まゆはアダムスからのメッセージをもう一度開いた。
ふうっと息を吐く。
急いで返事をする必要はない。
…会うか?
……会わないか?
………どちらを選んでもいい。
その自由が今のまゆにはあった。
胸の奥でサックスの音が鳴る。
それはもう渇きの音ではない。
長い遠回りの末に、
ようやく自分の人生の指揮棒を握ったことを知らせる音だった。
まゆはスマホを伏せる。
返事はまだ書かない。
もう少しだけ、自分の気持ちを見つめてみようと思った。
窓の外には静かな夜が広がっていた。
