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渇きの果てに…禁断のコンダクター   第27話


アダムスと鹿児島で過ごした日から、一か月近くが過ぎていた。
 
季節は初夏へと向かい、朝の空気は軽くなり、ベランダの植物にも新しい葉が増えている。
 

工場へ通い、家事をこなす
 
――そんな変わらない日常の中で、まゆの心には小さな変化が生まれていた。
 
 
かつて胸を満たしていた
 
「誰かに見つけてほしい」
 
「求めてほしい」
 
という焦りは、少しずつ薄れていた。
 
 
休日の午後、空を見上げながら鹿児島での時間を思い返す。
 

思い出されるのはアダムスとの快楽の時間ではなく、混乱しながらも本音を口にした自分の姿だった。
 

「もっと触れて」
 

その言葉は自分の気持ちを隠さず伝えていた。
 

本当に求めていたのは、自分自身に正直になることだった
 
――そう気づいたまゆは、洗濯物を抱えながらそっと頬を緩ませた。
 


 

部屋へ戻るとスマホが震えた。
 
テーブルの上で画面が光っている。
 

何気なく手に取る。
 
 
アダムスだった。
 
《来月、大阪出張が決まりました》
 
短い文章。
 

その下に続く。
 
《もし都合が合うなら、お会いできますか?》
 
 

まゆは画面を見つめたまま動かなかった。
 

以前なら胸が激しく高鳴っただろう。
 
迷うことなく会いたいと思ったかもしれない。
 
 
けれど今は違う。
 
心は穏やかだった。
 
 
……会いたい。
 
その気持ちはある。
 
 
でも、それだけではない。
 

会うことも選べる。
 
会わないことも選べる。
 
そのどちらも、自分で決めていい。
 
 
窓の外では風が吹いている。
 
遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
 

まゆはスマホを握りしめながら、穏やかな笑みを浮かべた。
 
 
急いで答えを出す必要はない。
 
もう、自分の人生の舵は自分で握っている。
 
その確かな実感だけが、胸の内側にそっと染み渡っていった。
 

 

夕方になり、健一が買い物から帰ってきた。
 
スーパーの袋を提げている。
 
 
開口一番、
 
「卵安かったから買ってきた」
 
思わず笑ってしまう。
 
 「それはよかったね」
 

健一は不思議そうな顔をする。
 
「何笑ってるんだ?」
 
 
「別に」
 
まゆは首を振った。
 
 
とりとめのない会話。
 
なんでもない日常。
 
それが以前より愛おしく感じられる。
 


 
夜。
 
まゆはアダムスからのメッセージをもう一度開いた。
 
ふうっと息を吐く。
 
 
急いで返事をする必要はない。
 
…会うか?
 
……会わないか?
 
………どちらを選んでもいい。
 
その自由が今のまゆにはあった。
 
 

胸の奥でサックスの音が鳴る。
 
それはもう渇きの音ではない。
 
 長い遠回りの末に、
 
ようやく自分の人生の指揮棒を握ったことを知らせる音だった。
 
 

まゆはスマホを伏せる。
 
返事はまだ書かない。
 

もう少しだけ、自分の気持ちを見つめてみようと思った。
 
窓の外には静かな夜が広がっていた。

 


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