【短編小説】もうひとつの波音|クロス・オーバー
娘を撮ったはずだった。
けれど、画面の中で私を見ていたのは、知らない女の子だった。
1 ワイキキへ戻る朝
娘にとって、初めてのハワイ旅行だった。
私たち夫婦にとっては、久しぶりのハワイだった。
空港の外に出ると、湿った風が体にまとわりついた。
花の匂いと、車の排気と、どこか遠くにある海の匂いが混じっている。
十歳の美咲は、スーツケースの持ち手に片手をかけて、眠そうな顔のまま言った。
「ここ、ほんとにハワイ?」
「ほんとにハワイだよ」
私はそう答えながら、スマホでタクシーを呼んだ。
その前に、娘のパスポートをもう一度バッグの中で確かめた。
母親になると、ずっと何かを確認している。
パスポートはあるか。
財布はあるか。
飲み物は足りているか。
娘は疲れていないか。
誰かに迷惑をかけていないか。
そうやって確認ばかりしているうちに、自分が何を見たいのか、何を食べたいのか、どこへ行きたいのかは、いつも少し後ろへ下がっていく。
そんなことを考えると、ちょっとわがままを言っているような気がして、すぐにやめていた。
タクシーは空港を出て、ワイキキへ向かった。
窓の外には、見慣れない木々と、乾いた色の建物が流れていく。
高速道路の向こうに、ほんの少しだけ海の青が見えた。
その瞬間、美咲は小さく息を吸った。
「きれい」
その声を聞いて、私は少しほっとした。
娘を連れて海外に来るのは、思っていたより気を張る。
でも、娘が初めて見る景色に驚く顔を見ると、それだけで来てよかったと思える。
夫婦だけで来たときとは、同じ場所でもまるで違う。
守るものが増えると、景色まで変わるんだなと思った。
この旅が、美咲にとって忘れられない思い出になればいい。
そのときは、ただそう思っていた。
2 赤いリボンを結ぶ
宿泊先は、クヒオ通りから少し入ったところにあるコンドミニアムだった。
新しいホテルではない。エレベーターも廊下も、どこか昔のリゾートマンションみたいな空気がある。
けれど部屋は広くて、キッチンもある。
家族で泊まるには、これはこれで助かる。
ラナイへ出ると、街の向こうに少しだけ海が見えた。
美咲は靴も脱がずに窓際へ走った。
「海、見える!」
「少しだけね」
「少しでも海は海だよ」
そう言い切る娘が、少しまぶしかった。
荷物をほどいていると、美咲が小さなポーチを開けた。
中には赤いリボンが入っていた。
それは、日本を出る前に、私の母が渡してくれたものだった。
「これ、持っていきなさい」
母はそう言って、小さな袋を私の手にのせた。
「なに、これ」
「あなたが子どものころ、ハワイで仲良くなった子にもらったリボン」
母は懐かしそうに言った。
「現地の女の子だったと思うよ。名前までは、もう覚えてないけど」
私は袋の中を見た。
赤いリボンだった。
端の方には、小さな白い糸で「R」と刺繍されていた。
R。
私の名前とは関係ない文字だった。
「私、これもらったの?」
「そう。トロリーの中でも、ずっと握っていたのよ」
「全然覚えてない」
「そうよね。小さかったもの」
母は少し笑った。
「でも、なぜか捨てられなくてね。美咲とハワイに行くって聞いて、持っていった方がいい気がしたの」
「どうして?」
「さあ。そこまでは分からないけど」
母は、美咲の方を見た。
「もし嫌じゃなければ、美咲ちゃんにつけてあげたら。ハワイで一回くらい」
その言い方は、何気ないものだった。
でも私は、手の中のリボンから、なぜか目を離せなかった。
「リボン、ほんとにつけるの?」
私が聞くと、美咲は少し顔をしかめた。
「嫌じゃないけど……ちょっと子どもっぽくない?」
「嫌なら無理につけなくていいよ」
「でも、ハワイならいいか」
そう言って、美咲は私の前に座った。
私は娘の髪に、赤いリボンを結んだ。
その瞬間、胸の奥に、短い記憶がよぎった。
熱い歩道。
トロリーのブレーキ音。
誰かの小さな手。
赤い花柄のワンピース。
そして、女の子の声。
「Kaho, wait」
私は手を止めた。
「きつい?」
美咲が振り返る。
「ううん。大丈夫」
私はリボンの形を整えた。
子どものころ、私は一度ハワイへ来ている。
けれど、その記憶はひどく曖昧だった。
海で遊んだこと。
トロリーに乗ったこと。
それから、現地の女の子と少しだけ仲良くなったこと。
覚えているのは、それくらいだった。
名前は、思い出せなかった。
3 変わってしまった海
翌朝、私たちは早く目が覚めた。
時差のせいか、美咲はまだ外が薄暗いうちから元気だった。
ホテルを出て、クヒオ通りからワイキキビーチへ向かう。
街は、夜とは別の顔をしていた。
清掃車の音。
まだ開いていない店の前を歩く観光客。
ジョギングする人。
サーフボードを抱えて、裸足で横断歩道を渡る人。
ビーチ沿いのKAIコーヒーで、私はコーヒーを買い、美咲には軽いサンドイッチを買った。
「海を見ながら食べよう」
「朝から海って、ぜいたくだね」
十歳の娘は、ときどき私より大人びた言葉を使う。
でも、海が見えた瞬間、その顔はちゃんと子どもに戻った。
ワイキキビーチには、朝の光が細かく散っていた。
遠くにはダイヤモンドヘッドが見える。
波は、記憶にあるより少し高かった。
「前に来たときと、少し違うね」
夫が言った。
「うん。浜も変わった気がする」
昔、夫婦で来たときには、いつも座る場所があった。
海に近すぎず、でも波の音はちゃんと聞こえる場所。
そこから少し歩くと、浅いところに小さな魚が見えた。
けれど、その場所はもうなかった。
砂浜は広く見えるのに、どこか人工的に整えられた白さがあった。
波打ち際の形も、記憶とは違う。
魚たちは見えなかった。
その代わり、美咲が突然叫んだ。
「お母さん、見て!」
少し沖の方に、黒っぽい丸い影が浮かんだ。
ウミガメだった。
ゆっくり顔を出し、また海の中へ戻っていく。
「すごい。ほんとにいるんだ」
美咲は目を輝かせていた。
そのあと、美咲がふと言った。
「ねえ、あの子、ずっとここにいるの?」
私は振り返った。
波打ち際には、サーフボードを抱えた人と、散歩をしている老夫婦がいるだけだった。
子どもの姿はなかった。
「どの子?」
美咲は少し黙ってから、海へ目を戻した。
「ううん。なんでもない」
その言い方が、妙に大人びていた。
昼には、ビーチ沿いのマクドナルドに寄った。
美咲はメニューを見上げながら、少し迷っていた。
「キッズセットにするの?」
夫が聞くと、美咲はむっとした顔をした。
「別に、子どもだからじゃないよ。おもちゃ、ちょっと見たいだけ」
「はいはい」
私は笑いながら、キッズセットとコーヒーを注文した。
紙袋を持って、海辺のベンチへ向かう。
観光地の食事としては、特別でも何でもない。
でも、ワイキキの海を見ながら食べるだけで、いつものハンバーガーが少し違うものになる。
美咲はおもちゃを一度だけ確認して、すぐ袋へ戻した。
「どう?」
「日本と違う!」
そう言いながら、口元はゆるんでいた。
私はスマホを構えた。
海を背景に、赤いリボンをつけた美咲が、ポテトを一本持って笑っている。
ほんの少し大人ぶった顔をしていた。
でも海を見ると、やっぱり十歳の子どもだった。
目をきらっとさせて、砂浜の方へ駆けていった。
「美咲、こっち向いて」
「撮るの?」
「一枚だけ」
美咲は少し面倒くさそうな顔をしたあと、赤いリボンを揺らして笑った。
私はシャッターを押した。
その写真を見たとき、しばらく何も言えなかった。
スマホの画面の中に、美咲は写っていなかった。
写っていたのは、白い砂浜と、朝の光を跳ね返す海。
そして、美咲が立っていたはずの場所にいる、ひとりの女の子だった。
白いワンピースを着た、美咲と同じくらいの年の女の子。
その子は海を見ていなかった。
カメラを見ていたのでもなかった。
私の方を見ていた。
まるで、ずっと前から私を知っているみたいに。
私は画面を指で広げた。
何度も見た。
見間違いであってほしかった。
でも、やっぱりそこに写っているのは、美咲ではなかった。
そのとき、背中の方から声がした。
「お母さん、どうしたの?」
振り返ると、美咲はそこにいた。
赤いリボンを髪に結んだまま、手には紙袋から取り出したポテトを持っている。
ちゃんと息をしている。
ちゃんと笑っている。
なのに、写真の中にだけ、違う子がいる。
こういうとき、人は意外と叫ばないものなんだと思う。
私はただ、スマホを胸の前で伏せた。
美咲が消えたわけではない。
たぶん、写真だけが、私の知らないどこかを写してしまった。
その考えが浮かんだ瞬間、背中の奥が少し冷たくなった。
でも、その日の夜、同じような写真がもう一枚増えた。
ロイヤルハワイアンセンターの裏を通り抜ける、サーフボードの道。
そこには、カラフルな板が壁のように並んでいて、木陰が揺れていた。美咲はその道を気に入った。
「ここ、秘密基地みたい」
「ここ、お父さんもお母さんも好きな道なの」
「お母さん、写真撮って」
私はスマホを構えた。
赤いリボンをつけた美咲が、サーフボードの道で笑っている。
シャッターを押した。
その写真の中でも、美咲ではない女の子が写っていた。
白いワンピースを着て、じっと私を見ていた。
私はその夜、ほとんど眠れなかった。
4 レイナのブログ
翌日の夕方、私たちはインターナショナルマーケットプレイスのあたりを歩いた。
以前来たときから、ずいぶんきれいになった。
歩きやすい。明るい。店も見やすい。
観光客には、今の方がずっと便利なのだと思う。
それでも私は、昔の少し雑然とした空気を思い出していた。
小さな店が並び、人の声が重なって、何を売っているのか一目では分からないような感じ。
蒸し暑さと甘い匂いと、安っぽい土産物の色。
あのごちゃごちゃした感じを、私は少し好きだった。
「お母さん?」
美咲が私を見上げた。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてた」
「疲れた?」
「少しだけ」
本当は疲れていたのではない。
懐かしさの中に、自分のものではない記憶が混ざっている気がした。
私たちはワイキキマーケットでアヒポキを買った。
夫は「ホテルでのんびり食べるのが一番落ち着く」と言い、美咲はポキの入った容器をのぞき込んだ。
「これ、マグロ?」
「そう。たぶん好きだと思う」
「ほんとぉ?」
「絶対好きだよ」
ホテルへ戻り、ラナイでアヒポキを食べた。
夕方の風が少し涼しかった。遠くから車の音と、誰かの笑い声が聞こえる。
美咲は最初こそ警戒していたけれど、一口食べると目を丸くした。
「これ、おいしい」
「でしょ」
「明日も買おう」
こういう何でもない会話が、あとから妙にはっきり残る。
大きな出来事よりも、こういう小さな声の方が、案外ずっと残る。
美咲が眠ったあと、私はベッドの端に座って、スマホを開いた。
検索窓に、ゆっくり打ち込んだ。
ワイキキ アラモアナ トロリー 赤いリボン。
自分でも、何を探しているのか分からなかった。
いくつかの旅行記や古い掲示板のようなページに混じって、古い個人ブログの転載らしきページが出てきた。
書いている人の名前は、レイナ。
ハワイで育った女性の、昔の思い出を書いた短い文章だった。
そこには、1993年にワイキキで日本から来た女の子と遊んだ、と書かれていた。
ワイキキビーチ。
砂の城。
貝殻。
アラモアナへ行くトロリー。
その日、女の子は家族と一緒にアラモアナへ行く予定だった。
けれど、トロリーに乗り遅れた。
次のトロリーまでのあいだ、二人はもう少しだけ遊んだ。
でも、楽しくなって、結局ずっと遊んでいた。
だから、トロリーには夜になってから乗った。
住所を書いた紙を渡し合い、日本に帰ってからも手紙を書いた。
レイナが最初に覚えた日本語は、「またね」だった。
最後に、こう書かれていた。
その日本人の女の子に、私はお気に入りの赤いリボンを渡したかった。
とても気に入ってくれたから。
次に会った時に渡すんだ!
そこまで読んで、私は画面を見つめた。
こんなことが、どこかで本当にあったのかもしれない。
そう思った。
でも、私とは関係ない。
そう思おうとした。
私は子どものころ、たしかにハワイへ来たことがある。
赤いリボンも、ハワイから持ち帰ったものと母から聞いた。
けれど、レイナという名前に覚えはなかった。
誰かと手紙を書き合った記憶もない。
それなのに、文章を読み進めるたびに、胸の奥が少しだけ温かくなっていった。
知らない話のはずなのに、どこか懐かしかった。
他の記事も、いくつか読んだ。
そこには、今も手紙のやり取りや、写真のやり取りが続いているような文章があった。
私はスマホを閉じた。
手の中の赤いリボンだけが、妙にはっきりと目に残っていた。
5 カイルアの風
翌日、気分を変えようとカイルアへ行った。
ワイキキから少し離れるだけで、空気がやわらかくなる気がした。
自転車を借りて、ビーチまで走る。
美咲は最初こわがっていた。
「車、近くない?」
「ゆっくり行こう」
少し走ると、風を受けた美咲の顔が変わった。
「お母さん、ハワイの道って、気持ちいいね」
その顔を見て、私は少し安心した。
カイルアビーチは、ワイキキとは違う白さだった。
観光地のまぶしさではなく、もっと静かで、生活に近い明るさがある。
砂は細かく、海は淡い色をしていた。
美咲はしばらく何も言わず、海を見ていた。
「どうしたの?」
「ワイキキより静か」
「こっちの方が好き?」
「どっちも好き」
十歳らしい、きっぱりしない正直さだった。
帰りにホールフーズマーケットへ寄り、テイクアウトを買った。
紙の容器に入った惣菜と果物を持って、公園で食べた。
そのあと、マラサダを買った。
紙袋を開けた瞬間、甘い匂いがふわっと広がった。美咲は一口食べて、黙った。
「どう?」
「……ほっぺ落ちる」
頬に砂糖をつけたまま、本当にそんな顔をしていた。
私はその頬を指で拭った。
美咲は少し嫌そうにした。
「もう、自分でできる」
「はいはい」
娘はもう小さな子ではない。
でも、完全に大人でもない。
そのあいだの時間は、思っていたより短いのかもしれない。
私は急に、この旅行が終わるのが惜しくなった。
私はこの子の母親として、ちゃんとここにいるのだろうか。
この子の成長を、ちゃんと見ているのだろうか。
それとも、確認すべきことに追われるふりをして、大事なものを見逃しているのだろうか。
そんなことを思った。
ワイキキに戻った夜、美咲がベッドの上で言った。
「お母さん、明日、トロリーに乗るの?」
私は水のボトルを持ったまま、手を止めた。
「うん。アラモアナに行くからね」
「トロリー、久しぶり?」
「久しぶりだよ」
「お母さん、ハワイでトロリー乗ったことあるんでしょ?」
「あるよ。便利だからね」
美咲はそれ以上、何も聞かなかった。
そのまま、すぐに眠ってしまった。
部屋の中には、エアコンの低い音だけが残った。
私は、椅子の背にかけてある赤いリボンを見た。
あれを見ていると、どうしてか胸の奥が落ち着かなかった。
6 もうひとつの午後
翌朝、私は美咲とトロリー乗り場に立っていた。
美咲は赤いリボンをつけていた。
「お母さん」
「なに?」
「トロリー乗ってどこ行くの?」
「アラモアナまでね」
トロリー乗り場には、何人かの観光客が並んでいた。
その中に、ひとりの女性がいた。
年齢は、私と同じくらいだろうか。
白いブラウスに、麻のパンツ。
肩からかけたバッグには、赤いリボンが結ばれていた。
私は息を止めた。
そのリボンの端にも、小さな白い糸で「R」と刺繍されていた。
同じだった。
美咲の髪に結んだリボンと、同じ赤。
同じく、少し色あせていた。
同じ文字。
同じ形。
女性がこちらを見た。
目が合った瞬間、その人の表情が少しだけ揺れた。
「Kaho?」
ほとんど声にならない声だった。
私は答えられなかった。
女性はすぐに首を振った。
「ごめんなさい。人違いかもしれない」
日本語だった。
たどたどしいけれど、ちゃんと伝わる日本語だった。
トロリーが近づいてきた。
アラモアナ行きだった。
空気が少しだけ揺れた気がした。
トロリーが止まった。
ドアが開いた。
美咲の手が、私の手の中で少し強くなった。
私は娘を見た。
そこにいる。
ちゃんといる。
「乗ろう」
私は言った。
美咲がうなずいた。
その女性も、同じトロリーに乗った。
私たちは隣同士には座らなかった。
けれど、少し離れた席で、同じ方向を向いていた。
トロリーはゆっくり動き出した。
ワイキキの街が窓の外を流れていく。
窓の外に海が見えた。
青い水面が、光を受けて揺れていた。
その揺れを見ていたら、いつのまにか目が閉じていた。
私は七歳だった。
レイナも七歳だった。
私たちはワイキキの砂浜で、貝殻を集めていた。
レイナは赤い花柄のワンピースを着ていた。
トロリーが来た。
母が私の名前を呼んだ。
父が手を振った。
私は走ろうとした。
そのとき、私はレイナの赤いリボンを手に持っていた。
かわいいから、少しだけ見せてもらっていたのだ。
返さなきゃ。
そう思ったはずなのに、母に呼ばれて、私はそのままトロリーに乗ってしまった。
窓の向こうで、レイナが何かを言っていた。
声は聞こえなかった。
でも、口の形だけは分かった。
「あげるよ」
そのまま、夢は別の時間へ流れていった。
私はトロリーに乗らなかった。
レイナと夜まで遊んだ。
砂の城を作った。
貝殻を集めた。
住所を書いた紙を渡した。
日本に帰ってから、手紙を書いた。
レイナから返事が来た。
英語と日本語が混じった手紙を、何度も読み返した。
私たちは大人になっても、細く長くつながっていた。
会えない年がずっと続いた。
返事が遅れる年もあった。
でも、どこかでお互いを覚えていた。
その人生にも、私がいた。
笑っている私がいた。
海を見ている私がいた。
レイナと肩を並べて歩く私がいた。
けれど、その人生に、美咲はいなかった。
私は夢の中で、胸の奥が静かに痛むのを感じた。
その道にも、きっと大切な時間があった。
でも、私はその道を歩いていない。
私は、トロリーに乗った私だった。
日本へ戻り、夫と出会い、美咲を産んだ私だった。
そのことが、夢の中で、ゆっくり分かっていった。
目を開けると、トロリーはアラモアナに近づいていた。
少し離れた席で、あの女性も目を開けたところだった。
彼女はこちらを見た。
何かを言いかけたように見えた。
でも、言わなかった。
私も、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、互いに笑った。
トロリーが止まった。
ドアが開いた。
その女性は先に降りた。
私は美咲の手を握って、少し遅れて降りた。
私たちは別々の方へ歩き出した。
それぞれの道へ戻っていくみたいに。
7 アラモアナの午後
アラモアナに着くと、ワイキキの海風とは少し違っていた。
車の音が近く、空気は少し乾いている。
あの女性は歩道の端で立ち止まっていた。
遠くから、バッグについた赤いリボンを少し持ち上げる。
「一緒ね」
そう言って、少し笑った。
私はうなずいた。
私たちはそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、少しだけ手を振った。
どちらの記憶が本当なのか。
どちらの人生が正しいのか。
そんなことを確かめても、たぶん答えは出ない。
「またね」
その日本語は、少しだけ不器用だった。
でも、私の胸にまっすぐ残った。
「またね」
私は答えた。
あの女性は人混みの中へ歩いていった。
その背中が、ほんの一瞬だけ、赤い花柄のワンピースを着た女の子に見えた。
でも次の瞬間には、白いブラウスの大人の女性に戻っていた。
美咲が私の手を引いた。
「お母さん、行こう」
「うん」
「アイス食べたい」
「さっき朝ごはん食べたばかりでしょ」
「ハワイだからいいじゃん」
私は笑った。
私たちはアラモアナの方へ歩き出した。
美咲の手は、ちゃんと温かかった。
その夜、ホテルに戻ってから、私はもう一度スマホを開いた。
最初に、あの女の子が写っていたワイキキビーチの写真。
指先が、少しだけ止まった。
そこには、美咲が写っていた。
赤いリボンを髪につけ、光る海へ向かって走っている。
ポテトを持った手。
少し大人ぶった横顔。
でも、足元の砂を踏む姿は、ちゃんと美咲だった。
白いワンピースの女の子はいなかった。
写真の端に、白い波が小さく崩れているだけだった。
私は、長く息を吐いた。
8 手を握る
帰国の日、空港へ向かうタクシーの中で、美咲は眠っていた。
私は窓の外を見ていた。
ワイキキの街が、少しずつ遠ざかっていく。
アラモアナ行きのトロリー。
赤いリボン。
あの女性の声。
夢の中で見た、もうひとつの午後。
それらは、もう確かめようのないものだった。
空港に着き、タクシーを降りると、ハワイの湿った風が最後に頬をなでた。
花の匂いと、海の匂いと、車の排気が混ざった風だった。
来た日の朝と同じ匂いなのに、少し違って感じた。
美咲は眠そうな顔で、私の手を握った。
「帰りたくないね」
「うん」
私は笑った。
「でも、帰ろう」
搭乗口へ向かう通路で、美咲が振り返った。
「また、ハワイ行こうね」
「うん」
私はうなずいた。
「また来ようね」
もしかしたら、違う道を選んでいたら、違う未来があったのかもしれない。
違う人に出会って、違う場所で暮らして、違う私になっていたのかもしれない。
その未来にも、きっと笑う日があり、泣く日があり、大切なものがあったのだと思う。
でも、私はその道を歩かなかった。
私は、私が選んだ道を歩いてきた。
その道の先に、美咲がいる。
その道の先に、今の家族がいる。
後悔がひとつもない人生なんて、たぶんない。
それでも私は、この道を間違いだったことにはしない。
自分で選んだ道だから。
何度も迷いながら、それでも歩いてきた道だから。
飛行機の入口で、美咲が私を見上げた。
「お母さん?」
「なに?」
「なんか、うれしそう」
私は少しだけ笑った。
「そう?」
「うん」
美咲はそう言って、先に機内へ入っていった。
私はその背中を見ながら、もう一度だけハワイの空を振り返った。
奇妙なことは、たしかに起きた。
説明できないものも、胸の中に残った。
それでも、私は前を向いていける。
この家族と一緒に。
私が選んだ、この道を。
機内に入ると、外の風はもう届かなかった。
それでも私には、もうひとつの波音が、胸の奥で静かに続いている気がした。
9 赤いリボン
日本に帰ってから数日後、私はもう一度、あのブログを開いた。
ブックマークしていたページは、すぐに見つかった。
けれど、そこに書かれていた内容は、ハワイで読んだものとは少し違っていた。
その日、日本から来た女の子は、家族と一緒にアラモアナ行きのトロリーに乗って行ってしまった。
私はトロリー乗り場の前で手を振った。
彼女も、窓の向こうで手を振っていた。
それきり、私たちは会わなかった。
名前は、もう思い出せない。
でも、赤いリボンを渡したことは覚えている。
大切にしてくれたらうれしい。
いつかまたハワイに持ってきてくれたら、会える気がするんだ。
私は画面を見つめた。
トロリーに乗り遅れたことも。
もう少し一緒に遊んだことも。
手紙を書き合ったことも。
最初に覚えた日本語が「またね」だったことも。
全部、消えていた。
でも、私の中には残っていた。
夢だったのかもしれない。
ただの思い違いだったのかもしれない。
それでも、赤いリボンは私の手元にあった。
私は引き出しから、小さな袋を取り出した。
母が渡してくれた、あの赤いリボン。
古い布なのに、色だけが妙にはっきり残っている。
端には、小さな白い糸で「R」と刺繍されていた。
私はブログのコメント欄を開いた。
少し考えてから、短く書いた。
赤いリボンを持っています。
今も、大事にしています。
送信した。
画面には、私のコメントが小さく表示された。
それだけで、十分な気がした。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
今回が、この場所で最初に出す短編小説です。
日常の中でふと心に残る言葉や、人とのすれ違い、選んできた道の気配。
そういうものを、少しずつ物語にしていけたらと思っています。
小説を書くのは、思っていた以上に時間がかかりました。
すぐに次を出せないこともあると思いますが、その分、ひとつずつ大事に書いていきます。
読んで感じたことや、印象に残った場面があれば、コメントで教えていただけるとうれしいです。
スキやフォローも、とても励みになります。
これからも、日常に小さな物語を届けていけたらと思います。
