ボードゲームカフェの立ち位置と、口伝と作者性の話
これはポジショントークだ。
私はボードゲームカフェを運営している。プレイスペースでゲームを教える仕事をしている。だからこれから書くことには、自分のやっていることを正当化したいという動機が多少なりとも混じっているかもしれない。それを承知の上で読んでほしい。
説明書を読む人間だった
私がボードゲームにはまったのは、説明書を読むのが得意だったからかもしれない。
箱を開けて、説明書を読んで、内容を理解して、周りの人間に教える。その繰り返しが入口だった。当時は別に特別なことをしているとは思っていなかった。ゲームを遊ぶためには誰かがそれをやらなければならないし、自分がやれるのならやる、というだけの話だった。
でも今にして思うと、あれはかなり特殊なポジションだった。
将棋を覚えた人間のほとんどは、誰かに教わって覚えている。麻雀もサッカーも同じだ。ルールブックを読んで自力で習得した人間は少数派だろう。伝統的なゲームとはそういうものだ。人から人へ伝わって広まる。それが何百年も続いてきた。
近代ボードゲームも実際にはそうやって広まっている。ゲーム会でもボードゲームカフェでも、誰か一人が理解して他の人に教える。ボードゲーム界隈ではこれを「インスト」と呼ぶ。普及の実態は口伝だ。
ただ、伝統ゲームと近代ボードゲームの間には、一つ大きな違いがある気がしている。
UNOの作者って誰だっけ
UNOの作者の名前を知っている人はどれくらいいるだろう。
おそらく大半の人は知らない。でも誰も困らない。ドロー2の重ね掛けを認める家庭もあれば認めない家庭もある。公式ルールより「おれたちのUNO」が優先される場面は珍しくない。それでも誰も「それは本当のUNOではない」とは言わない(昨今は少し言われる気もする)。
将棋も麻雀も同じだ。誰が作ったかは知らない。地域によってルールは違う。時代によっても変わってきた。それでも存続している。変化しながら存続することが、文化というものの特徴なのかもしれない。
しかし近代ボードゲームの世界では、事情が違う。
「クニツィアの新作」「ウヴェ様らしい作品」という言い方が自然に通じる。公式FAQ、エラッタ、作者裁定という概念が存在する。ルールで曖昧な部分が出てきたとき、答えを求める先は共同体ではなく、ルールブックであり、作者だ。
麻雀にもローカルルールはある。近代ボードゲームにもハウスルールはある。違いはそこではない。
近代ボードゲームには、「本来どう遊ぶべきか」という問いが自然に発生する。そしてその答えを、共同体ではなく作者とルールブックに求める。この構造そのものが、伝統ゲームよりも作品に近い。
ルールブックは楽譜かも?
麻雀のルールについて「これは誰の意図なのか」と問われても、誰も答えられない。
長い時間をかけて、無数の人間が関わって、今の形に落ち着いた。作者がいない。意図がない。あるのは共同体の中で形作られてきた、いわば集合的な合意だ。だから麻雀のルールを変えようとするなら、それを決める権限は誰にもないし、逆に言えば誰にでもある。
近代ボードゲームは違う。
「作者はここで何を意図していたのか」という問いが、自然に成立する。そしてその問いには答えがある。FAQがあり、エラッタがあり、公式裁定がある。ルールブックがある。
私たちはルールを守ろうとしているのではない。作者の意図を再現しようとしている。
ここに近代ボードゲームの、他のゲームとは異なる性質がある。将棋や麻雀が「文化」であるとしたら、近代ボードゲームは「作品」である。そして作品である以上、それを正しく届けようとする行為には、演奏という言葉がなんとなく似合う気がしてきた。
クラシック音楽を思い浮かべてほしい。演奏は口伝で学ばれる。師匠が弟子に教える。解釈も表現もテンポも演奏家によって異なる。しかし正統性を担保するのは楽譜だ。勝手に音符を書き換えたものをベートーヴェンの交響曲とは呼ばない。自由は存在する。しかしその自由は、原典の上に成り立っている。
近代ボードゲームのインストも同じ構造を持っている。教え方は人によって違う。プレイスタイルも違う。でも最終的な権威はルールブック、つまり作者の意図にある。
ルールブックは単なる説明書ではない。作者の意図を保存する文書だ。それはかなり楽譜に近い。
インストは次のインストを生む
演奏会で音楽に感動した人が、自分でも楽器を始めることがある。鑑賞者が演奏者になる。そして今度は自分が誰かに音楽を届ける側になる。
ボードゲームカフェで遊んで面白いと思った人が、家で友人に教えることがある。教わった人が伝える側になる。そして新しい口伝が始まる。
インストは次のインストを生む。
これがボードゲームカフェという場所の意義として、私が一番腑に落ちている説明だ。私たちがやっているのはルールを説明することではない。口伝の連鎖の、最初の一手を担っている。
だからランビーフィッシュはショップも併設している。ボードゲームカフェの多くはプレイスペースだけで完結しているが、うちはあえてショップを併設した。演奏会の帰り道に楽器屋があるように、「自分でも演奏してみたい」と思った人が、その熱量のまま楽器(ゲーム)を手に入れられる場所でありたかったからだ。
体験が入口になって、自宅で友人に教える側になって、また誰かの入口になる。その連鎖を途切れさせたくなかった。
インストとは演奏なのか
ここまで書いてきて、私が本当に言いたかったことに辿り着いた気がする。
もしルールブックが楽譜なのだとしたら、インストという行為は演奏に近い。
作者の意図を原典から読み取り、目の前の人たちに届ける。音符を音に変えるように、ルールを体験に変える。そしてその体験を入口にして、人々は自分たちで演奏する側へと向かっていく。
私はボードゲームカフェを始める前から、説明書を読んで周りに教えることをずっとやってきた。それが仕事になっただけで、やっていることの本質は変わっていない。
インストを演奏と呼ぶのは大げさかもしれない。演奏家というには技術も芸術性も足りないだろう。それでも、もしルールブックが楽譜なのだとしたら。
私たちボードゲームカフェの人間は、作者が書いた作品を最初に鳴らす人間なのかもしれない。
そして、そこで生まれた体験が、また別の場所で新しいインストを生み、新しい遊びを生む。
そうやって考えると、ボードゲームカフェという場所は、単に遊ぶ場所ではなく、口伝による文化の結節点なのだと思う。
これはたぶん、かなり強いポジショントークだ。
