エッセイを書こうと思い立った理由
高月 志保と申します。チャット小説や小説を趣味で描いています。三年ほどフィクションを書いてきて、最近、執筆能力が向上したように感じています。noteを書こうと思ったのは、小説を書いていて描写力のなさを痛感したからです。会話は書けるが、現実の描写がどうしても貧弱。ということで、現実世界について書くことで物語の解像度を上げられるのではないかと考えたためです。なので、noteでは日々感じたことを、もう一歩解像度を上げるというテーマで書いていきます。エッセイを書くことにより、自分のことも深く知れるようになることでしょうし、何よりも現実世界についての理解を深められるのではないかと考えています。
これまでの人生で現実に対する興味が希薄で、自分の世界に篭りがちではありましたが、自分はこの現実に生きているのだという実感を最近になって持つようになりました。得意なことはコンピュータ・プログラミングで、機械学習やAIを作ったりもします。そういったところに現実からの逃避性をどことなく感じます。それでもいいと思っていたのですが、現実も悪くないと思えるようになりました。きっかけが種々ありますが、その一つとして、小川 洋子氏の「遠慮深いうたたね」を読んだことがあります。鋭い視点、現実感溢れる描写、滑らかな文章。とても真似のできるものではありませんが、理想の1つとして掲げるのに申し分ない作品です。誰かと共有できる現実を描けるようになりたいと切に願います。願っているだけではダメで、実際に執筆する必要があります。最近、三年ほど前の文章を見返しましたが、読むに耐えず、辛いものがありました。その一方で着実に成長はしているなとも思いました。だから、書き続けて成長するというのも理由の1つになりましょう。
エッセイを書く意味
書くと決めたが良いが、エッセイとは何かという疑問が生じる。自分の考えを綴った散文とのことだが、ピンとはこない。それはこれまでエッセイを書いてこなかったからであろう。書いていれば、自分にとってのエッセイというものが見えてこよう。まずは書いてみる。探究するのはそれからでも遅くない。これまでフィクションを書くことが多かった。その方面に関心があるし、書きたいことも沢山ある。エッセイを書きたいとは思ってこなかった。だから書かなかった。フィクションを書くということは自分以外のキャラクタを書くことだ。だが、自分についても書かなければならないことに気がついた。それは現実にいる自分のことである。それはこの社会のことについてでもある。書かないといけないことが増えたなと気がついた。それが、エッセイを書く意味である。要は自分について知るということ。それは怖いことでもある。これまで見過ごしてきた無意識に目を向けることである。それはこれまで注意してこなったディテールを知ることである。自分と自分がいる現実とはこれからも長く付き合わなければならないのだ。もう少し、深く知ってやっても良いのでは、という微かな予感に期待しています。
エッセイを書く効果
Noteに書いてアップロードするからには何かしらの効果を期待したい。1つは客観性。公開することにより、見られるという意識が働く。それにより、客観的な視点で書ける。能力の大小はあろうが、意識が働くだけでも大きく変わると思います。2つ目は他者に見られること。この記事を見られる方がどれだけいるか分からないが、見られることによって評価がなされる。書くだけではなく、評価されることが大事なのである。この重要性にはようやくではありますが、気づき始めている。評価されなければ意味がない。見られないということもまた一つの評価だからだ。自分の能力を測ることになるし、社会のニーズを測ることにもなる。noteはそのプラットフォームとして適していると感じた。加えて、重要なことはその評価をフィードバックとして受け取ること。評価結果に目を逸らさずきちんと受け止めること。どうしても目を背けたくなってしまう。だが、ここは覚悟を決めて受け止めようと思います。それがきっと成長に繋がることでしょう。
終わりのメッセージ
これからNoteに記事を書いていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
