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沈黙する太陽 ―その朝、世界の音が消えたーTALESにて【創作大賞2026エンタメ原作部門】応募中!応援よろしくお願いします。🤗朗読音声付


リメイク版(17,746 文字)

読む時間ない方は朗読でお楽しむください!


太陽嵐の朝、世界の音が、一斉に消えた。 停電じゃない。誰かが、太陽を隠れ蓑に、世界を黙らせようとしている——その証拠を、元戦地記者エレナだけが握っていた。 空からはドローン、地上からは追手。沈黙が完成するまで、あと三時間。





 第一部 午前八時十九分

 朝が来たのに、鳥が鳴かなかった。

 エレナ・カーライルは、その違和感で目を覚ました。ダーリングハーストの古いアパートは、いつもなら五時過ぎから外がうるさい。ゴミ収集車の油圧音、隣のカフェがシャッターを巻き上げる金属の悲鳴、坂の下を走るバスのブレーキ。彼女はもう三年、その騒音をアラームの代わりにしてきた。

 今朝は、何もなかった。

 彼女はベッドの中で動かないまま、天井の染みを見つめた。雨漏りの痕が大陸の形に広がっている。その輪郭を目で追いながら、耳だけを外に向けた。冷蔵庫の低い唸り。それだけ。やがて、その唸りも、ふっと消えた。

 部屋が、完全に静かになった。

 停電だ、と頭が言った。よくあることだ、と。けれど胸の奥のもっと古い部分が、別のことを言っていた。戦地で何度も彼女を生かしてきた部分だ。ダマスカスでも、マリでも、それは正しかった。その部分が、静かに、はっきりと告げた。──違う。これは停電じゃない。

 彼女は起き上がった。

 まず、枕元のスマートフォンを取った。圏外。Wi-Fiのアイコンも消えている。電波の三本線があるべき場所に、小さな×印が一つ。彼女はそれを十秒ほど見つめた。再起動はしなかった。代わりに、ネックレスに手をやった。チェーンの留め具の裏に、爪の先ほどの膨らみがある。昨夜、そこにUSBを縫い込んだときの糸の感触が、まだ指に残っていた。

 昨夜のことを、彼女は順番に思い出した。

 ファイルが届いたのは、午後十一時を回ったころだった。送信元はなく、件名もなく、ただ匿名通信ブラウザ「Onyx」の受信トレイに、それは現れた。複数のプロキシを経由して、どこの誰とも知れない場所から。動画ファイルが一つ。音声はなかった。

 最初、彼女はそれを開かなかった。十五年この商売をしていれば、匿名で届く「世界を変える証拠」など、月に何本も来る。九割九分は、陰謀論者の妄想か、誰かを嵌めるための偽物だ。彼女はまず、ファイルのメタデータを調べ、経由したノードを逆に辿ろうとした。辿れなかった。痕跡が、あまりに丁寧に拭われていた。素人の仕事ではなかった。その丁寧さこそが、最初の悪寒だった。本物を隠す手つきだった。

 彼女は、再生ボタンを押した。

 最初の三十秒は、何の変哲もない衛星画像だった。太陽の表面。黒点。専門家でなければ意味の取れない、ただの観測映像。退屈ですらあった。彼女は、やはり偽物かと、半ば安心しかけた。けれど映像の右下に、小さなタイムコードが走っていて、その隣に、四文字の符号が点滅していた。

 A.R.K.

 その符号に、彼女は見覚えがあった。半年前、サミラが、興奮で上ずった声で残した最後の留守電の中に、同じ四文字があった。当時は、ただの調達コードか何かだと思っていた。聞き流していた。

 そして、太陽の活動を示すグラフが跳ね上がるのと同時に──地球側の、まったく別のレイヤーで、何かが「落ちて」いった。衛星のステータスが、緑から赤へ。一つ、また一つ。規則正しく。等間隔で。まるで誰かが、長いリストを上から順に、指でなぞって消していくように。自然現象なら、こうはならない。自然は、こんなに几帳面じゃない。彼女は画面に顔を近づけ、停止し、コマを送り、その規則性が偶然でないことを、何度も確かめた。確かめるほどに、部屋の空気が薄くなっていく気がした。

 映像の最後に、白い文字でラテン語が一行だけ表示された。

 Silens Solis.

 沈黙する太陽。

 彼女は、その夜、眠らなかった。台所の灯りも点けず、暗がりの中で、古い裁縫箱を引っぱり出し、ネックレスの留め具の裏に、爪の先ほどのポケットを縫った。USBを、そこに収めた。針が二度、指を刺した。血の珠を舐めながら、彼女は理解していた。これが自分の手元にある限り、自分は的だ。サミラは、これを誰にも渡さないまま死んだ。次は、自分の番かもしれない。そう思いながら、それでも彼女は、データを消去しなかった。消すことだけは、できなかった。

 彼女はジャーナリストだった。BBC、アルジャジーラ、そして今はどこにも属さないフリーランス。十五年、嘘と本当の境目を商売にしてきた。だから、本物の恐怖がどんな顔をしているか知っている。本物は、叫ばない。本物は、ただ静かに「ここにある」とだけ言う。この映像は、本物だった。

 そして今朝、鳥が鳴かない。

 エレナは床に足を下ろした。冷たいフローリングの感触が、現実を一段階くっきりさせた。窓辺には行かなかった。代わりに、壁伝いに移動して、カーテンの端からほんの数センチだけ、外を覗いた。

 通りは、間違っていた。

 朝の光は正しかった。九月の、薄い金色の光。けれど、その光の中で、すべてが止まっていた。坂の下に、配達のバンが一台、停まっている。ハザードもつけず、ドアも開けず、ただ停まっている。運転席に人の影。動かない。歩道には、犬を連れた女が一人。リードを握ったまま、スマートフォンを耳に当てて、立ち尽くしている。電話が、繋がらないのだ。

 誰も、まだ気づいていない。世界が静かになったことに。けれど、あと数分で気づく。気づいて、パニックになる。エレナはその瞬間の街を、いくつも見てきた。電気が消え、通信が切れた都市が、どれだけ早く牙を剥くか。

 その時、彼女の視界の隅に、それが入った。

 向かいの建物。一階の、閉まったままのランドリーの軒下。そこに、男が立っていた。

 スーツ。サングラス。片方の耳に、肌色のイヤホン。停電で電話が死んでいるはずの街で、彼だけが、何かを聞いていた。そして何より──彼は、動かなかった。慌てていなかった。スマートフォンを見もしなかった。彼はただ、立って、待っていた。

 待たれている、と彼女は思った。私が動き出すのを。

 心臓が、肋骨の内側を叩き始めた。けれど手は、もう動いていた。十五年の経験が、恐怖より速く彼女を動かしていた。バッグ。パスポート。現金。充電済みのモバイルバッテリー。そしてネックレス。それだけ。ラップトップは置いていく。重いし、追跡されるし、何より──データはもう、彼女の喉元にある。

 逃げ道を、頭の中で広げた。正面玄関はだめだ。男が見ている。エレベーターもだめだ。停電で止まっている。残るのは、非常階段。それも、下りではなく──

 上だ。

 彼女は服を着ながら、もう一度だけ、昨夜の最後のメッセージを思い出した。ファイルが届いた後、彼女は一人だけに連絡を取った。データの中身を復元できる、たった一人の人間に。返事は、一行だけだった。

『朝までに来い。来なければ、もう繋がらない』

 ルーカス。市の西、ニュータウンの奥。歩けば四十分。今の状況では、どれだけかかるか分からない。

 エレナはバッグを肩にかけ、ドアの覗き穴に目を当てた。廊下は暗く、無人に見えた。けれど「見える」と「無人」は違う。それも、商売で覚えたことだった。

 彼女はドアを開けず、台所に戻った。窓の外、非常階段の鉄骨が、朝日に鈍く光っていた。錆びている。三年間、一度も使ったことがない。

 窓を、そっと開けた。

 外の空気が入ってきた。冷たくて、そして──静かだった。クラクション一つ、ない街の静けさは、まるで巨大な手で口を塞がれているようだった。

 遠くで、初めて、悲鳴が一つ上がった。誰かが、ようやく気づいたのだ。

 エレナは、鉄骨に足をかけた。

第二部 午前八時三十一分

 鉄は、思ったより冷たかった。

 非常階段は建物の裏側を、ジグザグに上へ伸びていた。一段ごとに錆が薄く剥がれ、手のひらに赤茶けた粉が残る。エレナは下を見なかった。下を見れば、四階分の高さが足にまとわりついて、体が硬くなる。それも戦地で覚えたことだった。高い場所では、行きたい方向だけを見る。

 彼女が上っているのは、逃げるためだけではなかった。下の通りには男がいる。けれど男は、彼女が玄関から出てくると思っている。地上の出口を見張っている。だから、空へ逃げる。屋上から隣の建物へ渡り、地上一階分ずれた場所へ降りる。男の視界の外へ。理屈はそうだった。理屈は、たいてい正しくて、たいてい間に合わない。

 最上階の踊り場で、彼女は一度だけ足を止めた。息が上がっていた。四十二歳の肺が、二十代のころより正直に文句を言う。手すりにもたれて、ほんの数秒、呼吸を数えた。一、二、三、四。吸って、止めて、吐く。サミラに教わった呼吸法だった。

 サミラ。

 その名前が浮かんだ瞬間、エレナは奥歯を噛んだ。今は、だめだ。今その引き出しを開ければ、手が震える。彼女は呼吸を一つ、強く吐き出して、その名前を、また喉の奥に押し戻した。後で。生き延びたら、いくらでも。

 屋上に出た。

 そして、シドニーの朝が、間違ったまま、目の前に広がった。

 空が、おかしかった。九月の晴れた朝に、飛行機が一機もいない。飛行機雲の名残さえ、空に一本も引かれていない。彼女はこの街に三年いて、空を見上げて飛行機がいなかったことなど、一度もなかった。東のキングスフォード・スミス空港の方角を見ても、上昇する機影はない。降りる機影もない。空港が、止まっている。

 高層ビル群も、間違っていた。朝の光を反射するはずのガラスの塔が、内側から死んでいた。窓に灯りがない。電光看板が消えている。CBDの方角に、いつもなら走っているはずの光の帯——電車も、車の列も——その動きが、ない。巨大な都市が、息を止めて、何かを待っているように見えた。

 彼女は、自分が立っている高さから、世界の規模を初めて理解した。これは、一棟の停電じゃない。一区画でもない。街が、たぶん国が、もしかしたらそれ以上が、同時に黙らされている。昨夜の映像で、緑のステータスが順番に赤へ変わっていったあの光景が、今、目の前の現実に重なった。

 あと何時間で、と彼女は思った。映像のタイムコードは、本物の太陽嵐の到達に同期していた。本物のCMEが地球の磁場を叩くとき、この「人工的な沈黙」は、自然災害の顔をして隠れる。誰も、これが仕組まれたものだとは気づかない。証拠が、彼女の喉元にしかないから。

 奇妙だ、と彼女は思った。戦場は、いつも、うるさかった。砲撃。サイレン。崩れる建物。人の叫び。恐怖には、必ず音があった。だからこそ、それがどこから来るのか分かった。伏せる方向が、逃げる方向が、音で分かった。けれど、この沈黙には、方向がない。どこから来るのか、何が敵なのか、音が、何も教えてくれない。アレッポの瓦礫の下でさえ、彼女はこれほど無防備だと感じたことはなかった。音のない恐怖が、いちばん遠くまで、いちばん深くまで届く。そのことを、彼女は四十二年生きて、今朝、初めて知った。

 その時、空気が、変わった。

 音ではなかった。音はほとんどない。けれど、静止した世界の中で、何か小さなものが「動いている」気配だけが、肌に触れた。彼女は屋上の低い縁にしゃがみ込み、給水タンクの陰に身を寄せて、音の出どころを探した。

 いた。

 二棟向こうのビルの上、空中に、それは浮いていた。手のひらに乗るほどの大きさの、黒い機体。四つのローターが、ほとんど無音で回っている。停電で街じゅうの機械が死んでいるのに、それだけが、生きていた。独立した電源。自律飛行。監視ドローン。

 それは、ゆっくりと旋回していた。地上ではなく、屋上を。屋根の上を、一棟ずつ、舐めるように。

 探している、と彼女は理解した。地上の男が出口を見張っているなら、これは、空から見ている。彼女が「上へ逃げる」ことを、向こうは織り込んでいた。理屈は、正しくて、間に合わなかった。

 ドローンの機首が、こちらの棟へ向き始めた。

 エレナは動かなかった。動けば、レンズが捉える。彼女はタンクの影に張りついて、自分の輪郭を建物に溶かそうとした。狙撃手から隠れるときと同じだ。人間の目は動きを捉える。機械のレンズも、たぶん同じ。止まっていれば、背景になれる。

 ドローンが、近づいてきた。

 十メートル。五メートル。ローターの風が、彼女の頬の産毛を撫でるほど近くで、それは停止し、空中で揺れた。レンズの黒い瞳が、屋上を、ゆっくりと走査していく。給水タンク。室外機。錆びたアンテナ。そして、タンクの影。

 彼女は、息を止めた。

 心臓の音が、機械に聞こえるんじゃないかと思うほど大きかった。レンズが、彼女のいる影の上で、一瞬、止まった。世界が、その一秒に圧縮された。喉元のUSBが、急に重く感じられた。これが見つかれば、サミラの死は無駄になる。映像の中で赤く落ちていったあの衛星たちの意味も、永遠に誰にも届かない。

 ドローンの機体が、ふっと、傾いた。

 そして——隣の棟へと、滑るように離れていった。

 走査の死角。タンクの影が、ちょうど深かった。運だった。実力ではなく、運。エレナは、肺の底に溜めていた息を、音を立てないように、細く長く吐き出した。指先が、しびれていた。

 今だ。

 ドローンが隣の棟へ気を取られている間に、彼女は屋上を低い姿勢で横切った。目指すのは、西側の縁。そこには、隣のアパートとの間に、一メートルほどの隙間があった。一メートル。地上では何でもない距離。四階分の空の上では、別の生き物だった。

 縁に立つと、足の下に、細い谷が口を開けていた。底に、ゴミ容器と、割れた瓶と、誰かの捨てた自転車。落ちれば、たぶん助からない。助かっても、走れない。走れなければ、捕まる。

 彼女は、距離を測った。助走は二歩しか取れない。

 背後で、ドローンのローター音が、また、こちらへ戻ってくる気配がした。

 考える時間は、終わっていた。

 エレナは二歩下がり、息を吸い、そして——跳んだ。

 一瞬、世界から音が完全に消えた。足の下に何もない、その無の感覚。スカートの裾が風をはらみ、喉元でUSBが跳ね、サミラの顔が、なぜかその瞬間に、鮮明に浮かんだ。

 そして、隣の屋上の硬いコンクリートが、彼女の両足と、両手と、肩を、容赦なく受け止めた。

 衝撃が、骨を駆け上がった。彼女は受け身を取りきれず、肩から転がり、給湯設備の金属に背中を打ちつけて止まった。痛みが、白く弾けた。けれど——落ちなかった。渡った。

 息を整える間もなかった。背後の屋上、たった今まで彼女がいた場所の上空に、あのドローンが戻ってきて、宙で停止するのが、横倒しの視界に映った。レンズが、彼女の消えた場所を、走査していた。

 エレナは痛む体を引きずって、この棟の非常口の鉄扉まで這った。ノブに手をかける。停電でオートロックは死んでいるはずだ——死んでいてくれ。

 ノブは、回った。

 彼女は暗い階段室へ転がり込み、扉を後ろ手に、できるだけ静かに閉めた。

 暗闇と、自分の荒い呼吸だけが、そこにあった。コンクリートの冷たさに背を預けて、彼女はようやく、肩の痛みと、生きているという事実を、同時に確かめた。

 スマートウォッチの画面が、暗闇に小さく光っていた。GPSは、辛うじて生きている。独自の衛星を使うこの古い軍用規格だけが、まだ動いていた。画面の隅に、目的地までの距離。

 ニュータウン、ルーカスの工房まで——三・八キロ。

 そして、その下に、彼女が自分で設定した、もう一つの数字が、刻一刻と減っていた。

 太陽嵐、地球到達まで——三時間十四分。

 その時間が来れば、本物の電磁波が地球を叩き、この沈黙は完全な災害の顔をかぶる。そうなれば、誰も、これが人の手によるものだとは、二度と証明できない。

 三時間十四分。三・八キロ。死んだ街。

 エレナ・カーライルは、暗い階段を、降り始めた。


第三部 午前八時五十二分


 外に出ると、街は、目を覚ましかけていた。

 最初に変わったのは、音だった。屋上では完全な沈黙だったのに、地上に降りると、人の声が戻ってきていた。けれどそれは、朝の街のざわめきとは違った。もっと尖って、断片的で、不安の角が立っていた。「繋がらない」「電源が」「子どもの学校に」——通りのあちこちで、人々が死んだスマートフォンを耳に当て、相手のいない言葉を、空に向かって投げていた。

 エレナは路地から表通りへ、人混みに紛れて出た。これは、彼女に有利に働く。一人で歩けば男の目につく。けれど、混乱した群衆の一粒になれば、姿は薄まる。彼女はうつむき、足を速めすぎず、けれど止まらず、川の流れに乗る魚のように、人の間を縫った。

 オックスフォード・ストリート。いつもなら朝のラッシュで車が詰まる坂道に、車は確かに詰まっていた。けれど、動いていなかった。信号が消え、誰も譲らず、ホーンを鳴らす電気さえなく、ただ鉄の塊が無秩序に絡まり合って、街の血流を止めていた。運転手たちは車を降りて、ボンネットに腰かけたり、見知らぬ者同士で何かを話したりしていた。まだ、笑っている者もいた。停電を、ちょっとした非日常として楽しめる時間が、あと少しだけ残っていた。

 その時間が終われば、何が起きるか、エレナは知っていた。

 現金が使えなくなる。決済端末が死んでいる。ATMも。冷蔵が止まれば、店は数時間で在庫を捨てるか、抱え込む。水道は、ポンプが電気で動く高層階から止まっていく。情報がなければ、人は最悪を想像する。最悪を想像した群衆が、何をするか——彼女はアレッポで見た。ポートープランスで見た。秩序は、布のように薄い。引っ張れば、あっけなく裂ける。

 角の薬局の前を通り過ぎるとき、彼女は足を止めかけた。

 ガラスの向こう、店内で、店員らしき若い女が、年配の客に何かを必死に説明していた。客は、白い小さな箱を握りしめていた。インスリンか、心臓の薬か、そういう類のものに見えた。決済が通らない。けれど客は、それがなければ困る。女は、両手を広げて、繋がらないレジを指していた。

 エレナの手が、無意識にバッグのファスナーに伸びた。撮るために。記録するために。それが、十五年、彼女の体に刻まれた反射だった。世界が壊れるとき、誰かが見ていなければならない。誰かが、後で「これは起きた」と言えるように。見ることは、孤立した出来事を、世界の記憶につなぎ留めること——

 その反射が、彼女を殺しかけたことを、エレナは思い出した。

 サミラ。

 今度は、引き出しを閉められなかった。

 サミラ・オカフォーは、二十九歳だった。エレナがアルジャジーラのナイロビ支局で見つけた、現地の若いジャーナリストだった。怖いもの知らずで、勘がよく、エレナよりずっと、人の懐に入るのがうまかった。三年前、エレナがフリーになってからも、二人は時々、互いのネタを持ち寄った。サミラは「先生」と呼ぶのをやめなかった。エレナは、その呼び方が嫌いだと言いながら、本当は嫌いではなかった。

 半年前、サミラが、ある軍事衛星の調達をめぐる不正の糸口をつかんだ。最初はただの汚職の話に見えた。けれど糸を引くほどに、それは別の、もっと大きく、もっと冷たい何かにつながっていった。四文字の符号。Silens Solis という言葉。サミラは興奮していた。「これは、私たちのキャリアで一番大きいやつになる」と。エレナは、慎重に進めろと言った。一人で動くな、と。誰かに見られているなら、まず身を隠せ、と。

 サミラは、笑って言った。「先生、見ることが私たちの仕事でしょう。見るのをやめたら、私たちは、ただの人になっちゃう」

 その三日後、サミラは、ナイロビのアパートの階段から落ちて死んだ。事故、と現地警察は結論づけた。手すりが古かった、と。エレナは、その手すりを自分の目で見に行った。手すりは、新しかった。

 昨夜、匿名の送信元から届いたあのファイルが、なぜ自分のところに来たのか。エレナには分かっていた。サミラが、最後の保険として、どこかに仕込んでいたのだ。自分に何かあったとき、それが「先生」に届くように。死んでなお、サミラは、エレナの手を引いていた。見ることをやめるな、と。

 だから今、薬局の前で、エレナの手は、ファスナーの上で止まっていた。

 撮れば、足が止まる。足が止まれば、見つかる。見つかれば、サミラの死は、本当に、何の意味もなくなる。彼女は、震える指を、ファスナーから引き剥がした。記録するのは、後だ。すべてを、ルーカスがデータを開いた、その後で。今は、運ぶことだけ。運び屋に、徹すること。

 ごめん、と彼女は薬局の客に、声に出さずに詫びた。そして、歩き出した。

 二つ目の角を曲がると、街の温度が、また一段、変わっていた。

 コンビニエンスストアの前に、人だかりができていた。停電で自動ドアが開かず、誰かが手でこじ開けたらしい。店内で、声が荒れていた。レジが動かない、なら置いていけ、いや払う、誰に払うんだ──水のボトルを両腕に抱えた男が、止めようとした店員を肩で突き飛ばして、出てきた。続いて二人、三人。たがが、外れ始めていた。エレナは知っていた。最初に消えるのは水だ。次が電池とろうそく。その次が、人の分別だった。

 歩道の縁石に、小さな男の子が座って、泣いていた。三歳か、四歳。はぐれたのだ。母親の手が、人波のどこかで離れたのだろう。その泣き声に足を止める大人は、もう一人もいなかった。誰もが、自分の家族の顔だけを、人混みの中に探していた。

 エレナの足が、また、止まりかけた。

 抱き上げて、近くの誰かに託すくらい、できる。三十秒。けれど三十秒ここに留まれば、ジャケットの男たちの目に入る確率が、跳ね上がる。彼女は子どもを見た。子どもも、涙でぼやけた目で、彼女を見返した。

 彼女は、近くで呆然と立ち尽くしていた中年の女の腕を掴み、子どもを指さした。「あの子、迷子。お願い」。それだけ言って、答えを待たずに、歩き出した。背後で、女が子どもに駆け寄る気配がした。それで充分だ、と自分に言い聞かせた。充分なはずだ、と。

 これも、サミラなら、抱き上げただろうか、と思った。立ち止まって、名前を聞いて、母親が見つかるまで、しゃがんで一緒に待っただろうか。たぶん、そうした。そして、その三十秒で、母親は見つかったかもしれない。見ることをやめない、というのは、そういうことだった。優しさと、無防備さは、同じ一枚のコインの、裏と表だった。サミラは、その表を選んで、生きて、死んだ。エレナは今、裏を選んで、歩いていた。どちらが正しいのか、彼女には、まだ分からなかった。

 次の交差点で、それを見た。

 人混みの、二十メートルほど先。背の高い男が一人、流れに逆らって立っていた。スーツではなかった。Tシャツに、ジャケット。一見、ただの通行人。けれど彼は、慌てていなかった。死んだスマートフォンを耳に当ててもいなかった。ただ、片手を耳元に添えて、群衆の顔を、一つずつ、確かめるように見ていた。そして、もう一人。反対側の歩道に、同じように「流れていない」人影。

 網だ、とエレナは思った。男は一人じゃなかった。アパートの前の男は、見張りの一つにすぎない。彼らは、彼女がルーカスのもとへ向かうことまで、読んでいるかもしれない。ニュータウンへの道は、限られている。要所に、人を置けばいい。

 彼女は、流れの中で、進路をわずかに変えた。大通りを避け、脇道へ。最短ではない。けれど、最短は、たぶん、向こうも知っている。

 脇道に入る寸前、ジャケットの男の顔が、こちらを向いた。

 一瞬、目が合った——気がした。

 エレナは、振り返らなかった。振り返れば、それは認める動作になる。彼女は歩調を変えず、ただ、人と人の隙間に、自分を滑り込ませた。角を曲がる。もう一つ曲がる。建物の影に入り、停まったままのゴミ収集車の陰で、ようやく、足を止めた。

 壁に背を預けて、息を整えた。心臓が、肋骨を内側から殴っていた。肩の痛みが、今ごろになって、熱を持って疼いた。

 スマートウォッチを見た。

 ルーカスの工房まで——二・九キロ。

 太陽嵐、地球到達まで——二時間四十一分。

 数字は、両方とも、減り続けていた。一方は希望の方向へ、もう一方は、絶望の方向へ。

 そして彼女は気づいた。さっきの脇道の、自分が曲がった角に——小さな、黒い影が一つ、宙に浮いて、こちらを向いていることに。

 ドローンが、追いついていた。

第四部 午前九時三十七分

 エレナは、ゴミ収集車の陰から、考える前に動いた。

 ドローンが彼女を捉えるより一瞬早く、彼女は車体の下を覗き込み、そこに見つけた——荷台の油圧扉が、わずかに開いていた。停電で、固定が緩んでいたのだ。彼女は身を低くして、その鉄の腹の下を、反対側へ転がり抜けた。生ゴミの腐った匂いが鼻を突いた。構わなかった。匂いは、機械のレンズには映らない。

 反対側に出ると、そこは細い裏路地だった。煉瓦の壁に挟まれた、空の見えない溝。ドローンは上空から追う。空が見えなければ、追えない。エレナは壁にへばりつくようにして、軒の下、庇の下、空からの視線が届かない細い帯だけを選んで、走った。肩が悲鳴を上げた。息が喉を焼いた。

 けれど、路地は、永遠には続かなかった。

 煉瓦の溝が途切れ、彼女はいきなり、開けた場所に放り出された。線路だった。停まった電車が一本、駅と駅の間で、立ち往生していた。乗客が車両の扉をこじ開け、線路に降り、ばらばらと、当てもなく歩いていた。隠れる屋根は、どこにもない。頭上は、まる見えの空。

 ドローンの羽音が、背後で、高くなった。捉えられる。

 エレナは、迷わなかった。立ち往生した電車に向かって走り、降りてくる乗客の流れに逆らって、開いた扉から、車内へ飛び込んだ。車内は、降り損ねた人々と、置き去りの鞄と、消えた車内灯の薄暗がりで満ちていた。彼女は、人の体と体の間に、自分をねじ込んだ。空からのレンズは、車両の屋根に阻まれて、ここまでは届かない。

 窓の外を、ドローンが、ゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。一機。それから、二機目。彼女が飛び込んだ扉の正面で、宙に停まり、待っている。彼女が、また外に出てくるのを。

 反対側の扉も、こじ開けられて、開いていた。そこから線路に降りれば、ドローンの死角に出られる。けれど、降りようとした瞬間、別の方角から、足音が聞こえた。

 ホームの側から、男が一人、線路を歩いてくる。Tシャツに、ジャケット。交差点で見た、あの男だった。彼は車両を一つずつ、窓を覗き込みながら、確実に、近づいてきていた。

 網は、空と地面の、両方から狭まっていた。

 エレナは、しゃがんで、座席の下に転がっていた誰かの鞄を掴んだ。重い。中身は知らない。彼女はそれを、男とは反対の方向——ドローンが待つ扉の、その外の砂利へ向けて、力いっぱい放り投げた。

 鞄が線路に落ちて、鈍い音を立てた。ドローンの一機が、その音と動きに反応した。機首を、放られた鞄の方へ向け、ふっと、そちらへ滑っていく。一瞬の、空白が生まれた。

 その一瞬で、エレナは反対の扉から線路に降り、停まった車体を盾にして、低く、走った。砕石が足首を捻じった。痛みを、噛み殺した。車体の影が尽きる前に、線路脇の、崩れかけた金網の隙間を見つけ、体をねじ込むようにして、向こう側へ、抜けた。

 背後で、男の足音が、速くなった。気づかれた。けれど金網の隙間は、大人の男が肩を入れるには、狭すぎた。彼女は、その数秒を、稼いだ。数秒あれば、角は曲がれる。

 金網の向こうは、ニュータウンの裏手の、狭い住宅路だった。

 ルーカス・メンデスの工房は、キング・ストリートから一本入った、潰れた印刷所の跡にあった。表向きは、ただの廃屋。錆びたシャッターに、色褪せた「貸店舗」の貼り紙。けれどエレナは、その横の、人ひとり通れるだけの鉄扉を知っていた。三度、来たことがある。最後は、二年前だ。

 二年前、エレナは、ある軍需企業の汚職を追っていた。決定的な内部資料を流してくれたのが、当時まだ会社のサーバーに出入りしていたルーカスだった。記事は大きな反響を呼んだ。けれど公開の直前、エレナは気づいた。資料の出どころを少しでも詳しく書けば、情報源が誰か、相手には一目で分かってしまう。彼女は、自分のスクープの一番おいしい部分を——「いかにして入手したか」という記者の勲章を——丸ごと削った。記事は鋭さを失い、彼女の評価も、その分だけ下がった。けれどルーカスは、生き残った。彼は、その借りを、一度も口にしなかった。口にしないことが、彼の流儀だった。

 彼女は扉を、決められた拍子で叩いた。長、短、短、長。返事はない。もう一度。

 覗き穴の奥で、何かが動いた気配。そして、低い、苛立った声。

「死んだと思ってたよ」

「まだだけど」とエレナは言った。「あと数時間は、保証できない」

 錠が、内側から次々と外れる音がした。三つ、四つ。重い鉄扉が、軋みながら開いた。

 ルーカスは、二年前より痩せて、髭が灰色になっていた。五十代後半。落ちくぼんだ目だけが、相変わらず、世界のすべてを疑っていた。彼はエレナを中へ引き入れ、外を一瞥して、すぐに扉を閉め、錠を全部かけ直した。

 工房の中は、別の時代だった。

 窓は鉄板で塞がれ、天井から裸電球が——点いていた。停電の街で、ここだけが、生きていた。壁一面に、自動車のバッテリーが並び、太い配線が床を這い、隅で古い太陽光パネルの制御盤が、低く唸っていた。電力会社の網になど、最初から繋がっていない。ルーカスは二十年前から、誰のことも信じていなかった。だから今日、生き残っていた。

「街中が暗いのに、あんただけ明るいわけだ」とエレナは言った。

「網に繋がってるやつは、網に殺される」ルーカスは肩をすくめた。「で? 何を持ってきた。あんたが来るってことは、ろくでもないものに決まってる」

 エレナはネックレスの留め具を裂き、中からUSBを取り出した。指先で温まった、小さなプラスチックの欠片。サミラの遺したもの。

「これを開けたい。中身を見て、それから——世界に出したい」

 ルーカスはそれを受け取り、明かりに透かして見た。そして、エレナの顔を見た。長く。

「サミラの件か」と彼は言った。

 エレナは、答えなかった。答えは、彼女の顔に書いてあった。

 ルーカスは何も言わず、作業台に向かった。彼は電力会社の網には繋がっていなかったが、機械への愛だけは、誰よりも深かった。USBを、外部から完全に隔離した一台の古いマシンに挿す。万一の自爆コードに備えて、ネットワークから物理的に切り離した一台。画面に、暗号化されたディレクトリの羅列が現れた。

 挿した瞬間、画面の隅で、何かが目を覚ました。小さなプロセスが一つ立ち上がり、ネットワークを探し始めた。外へ、信号を送ろうとして——けれど、出口がなかった。ルーカスのマシンは、どこにも繋がっていない。プロセスは数秒、虚空を掻き、やがて諦めて、静かになった。

「自爆装置の、見張り役だ」とルーカスは、汗ばんだ額を拭った。「普通のパソコンに挿してたら、今ごろ中身は焼けて、ついでに居場所を連中に通報してた。網に繋がってるやつは、網に殺される」彼は、さっきと同じ言葉を、今度は別の重みで繰り返した。「サミラは、それを分かってて、あんたを選んだんだ。あんたなら、こういう男のところに持ってくるってな」

「量子鍵だ」とルーカスは画面を見つめて呟いた。「まともにやれば、解くのに千年かかる。だが——」彼は別のキーを叩いた。「サミラは賢い子だった。鍵そのものを残してる。あんた宛てに。受取人の生体情報で開く仕掛けだ」

「私の?」

「あんたの声だよ。喋れ。何でもいい」

 エレナは、マイクに向かって、サミラの名前を言った。ただ、それだけ。

 ロックが、外れた。

 画面が、満たされていった。

 最初に出たのは、運用スケジュールだった。表向きはただの衛星保守計画。けれど時刻表の各行に、注釈がついていた。「フェーズ・ゼロ」「ブラックアウト開始」「通信遮断・段階一」——そして、すべての時刻が、ある一つの基準に同期していた。

 CMEの、地球到達予測時刻。

 ルーカスが、息を呑むのが聞こえた。

「見ろ」と彼は、画面の一点を指した。「遮断の開始時刻だ。これは……太陽嵐が地球に届く、前だ。一時間以上、前だ」

 エレナには、それが何を意味するか、すぐに分かった。十五年、嘘を見抜いてきた目に、それは閃光のように明らかだった。

 もし、これが本物の太陽嵐による自然災害なら、世界が黙るのは、電磁波が地球を叩いた「後」でなければならない。けれど、現実の遮断は、その前に始まっていた。誰かが、太陽が来る前に、スイッチを切ったのだ。そして、後から来る本物の嵐に、すべての罪をかぶせるつもりだった。完璧な犯罪。容疑者は、太陽。

「これが証拠だ」とエレナは言った。声が、自分でも驚くほど、静かだった。「これさえ出せば、誰も『自然災害だった』とは言えなくなる。時刻表が、嘘をつけない」

「出すって、どこに」ルーカスは振り返った。「街中の網が死んでる。あんたの言う『世界』は、今、耳が聞こえないんだぞ」

 エレナは、ルーカスを見た。彼が「だが」と言わなかったことはない。二年前もそうだった。

「あんたなら、方法を知ってる」

 ルーカスは、長く息を吐いた。そして、工房の奥、鉄板で塞いだ天井の一角を指した。そこには、跳ね上げ式の小さなハッチがあった。

「屋上に、独立系のアップリンクがある。電力会社にも、政府にも、繋がってない。世界中の独立メディアと活動家がミラーしてる、分散型の公開網だ。一度そこに上げれば、消せない。何百ヶ所に同時に複製される。検閲できない」

「なら——」

「だが」と、彼は言った。やはり、来た。「送信には、二つ問題がある。一つ、屋上のアンテナまで、ケーブルを物理的に繋いで、手動で送信を維持しなきゃならない。データ量からして、最低でも、六分。六分間、誰かが、屋上の、空の下に、立ち続ける必要がある」

「二つ目は」

「送信を始めた瞬間、この場所が、光る」ルーカスの声が、低くなった。「信号を追ってる連中にとっては、暗い海に上がった、たった一発の信号弾だ。送り始めた瞬間、連中は、ここがどこか、正確に分かる。そして——」

 その時。

 工房の鉄扉が、外から、一度、叩かれた。

 長、短、短、長。

 エレナの暗号と、まったく同じ拍子で。

 彼女の血が、凍った。その拍子を知っているのは、彼女と、ルーカスと——そして、死んだサミラだけのはずだった。

「動くな」とルーカスが囁いた。彼の手が、作業台の下の、何かに伸びた。

 扉の向こうから、穏やかな、抑揚のない男の声がした。

「カーライルさん。長い朝でしたね。もう、走らなくていい」

 エレナは、USBを握りしめた。

 スマートウォッチが、暗がりで光った。

 太陽嵐、地球到達まで——一時間九分。

第五部 午前九時五十一分

 扉の向こうの声は、急いでいなかった。急ぐ必要が、ないからだった。

「カーライルさん。わたしの名前はいりません。憶えても、明日には誰も憶えていない名前です」男は言った。「あなたが持っているものを、扉の下から滑らせてください。それだけで、あなたも、メンデスさんも、今日を生きて終えられます。約束します」

 ルーカスが、作業台の下から引き出したのは、古いリボルバーだった。彼はそれを、扉に向けて構えた。手は、震えていなかった。

「拍子だ」とエレナは、囁いた。「あの拍子を、なぜ知ってる」

「サミラから聞いたんでしょう」ルーカスは、扉から目を離さずに言った。「あの子が、最後に、自分から喋ったとは思えない。だったら、答えは一つだ」

 エレナの中で、何かが、静かに、固まった。怒りではなかった。もっと冷たい、もっと重い、決意のようなもの。サミラは、最後まで、口を割らなかった。割らなかったから、彼らはこの拍子を「事故」の後に、ようやく手に入れた。そして今、それを使って、エレナを油断させようとしている。死んだ子の最後の沈黙を、道具にして。

 その瞬間、エレナは、扉の下に何も滑らせないと決めた。

「ルーカス」と彼女は言った。「アップリンクは、どうやって動かす」

 ルーカスは、一瞬だけ、彼女を見た。彼女の目を読んで、彼は、すべてを理解したようだった。

「天井のハッチから屋上だ。アンテナの根元に、手動の送信スイッチがある。押し続けろ。離すな。六分。バーが満ちるまで」彼は顎で、奥の梯子を示した。「行け。ここは、おれが持たせる」

「あんたは」

「おれは網に繋がってない男だ」彼は薄く笑った。「だが、二十年ぶりに、世界に繋ぎたいものができた。早く行け、先生」

 その呼び方は、サミラのものだった。ルーカスは、わざと、それを使った。

 エレナは、もう何も言わなかった。彼女は梯子に取りつき、ハッチを押し開けた。九月の光が、滝のように降ってきた。

 扉が、外から、蹴破られる音がした。同時に、工房の中で、リボルバーが吼えた。一発。二発。怒号。エレナは振り返らなかった。振り返れば、足が止まる。彼女は、屋上へ、体を引き上げた。

 屋上には、何も遮るものがなかった。

 空の下に、彼女は一人で、立っていた。完全に、見られる場所に。アンテナの根元の、赤いスイッチを見つけ、ケーブルがルーカスのマシンへ確かに伸びているのを確かめて、彼女はそれを、押し込んだ。

 小さな送信ランプが、点滅を始めた。画面はない。あるのは、彼女の手のひらの下の、わずかな振動だけ。データが、彼女の喉元から、屋根を伝い、空へ、そして世界中の無数の見えない場所へ、流れ出していく。一秒ごとに、消せない複製が、増えていく。

 送信、開始。残り六分。

 そして、世界が、彼女を見つけた。

 まず、ドローンが戻ってきた。一機。二機。彼女の頭上で、無音で旋回し、レンズを向けた。隠れる場所はなかった。隠れる気も、もうなかった。下の通りから、足音が、建物の中へ流れ込むのが分かった。男たちが、上ってくる。

 彼女は、スイッチから手を離さなかった。

 下から、銃声が、もう一発、聞こえた。それから、何かが倒れる、重い音。そして——静かになった。エレナは、その静けさの意味を、考えないようにした。考えれば、手がスイッチを離してしまいそうだった。ルーカス。二十年ぶりに、世界に繋ぎたいものができた、と言った男。彼は今、その繋がりを、自分の体で、扉のところに押さえつけている。あるいは、もう。

 残り、五分。

 風が出てきた。屋上は高く、何も遮らない。九月の風が、彼女のシャツを鳴らした。手のひらの下で、送信ランプが、規則正しく明滅を続けていた。一回ごとに、データのかけらが、空へ昇っていく。彼女はそれを、祈るように感じた。けれど祈りではなかった。祈りには、聞く相手がいる。これは、聞く相手がいるかどうか分からないまま、それでも送り続ける行為だった。

 時間が、這うように流れた。一秒が、一分のように長かった。彼女は、押し込んだ親指の感覚だけに、意識を集めた。離すな。ただ、離すな。それだけが、今、世界で唯一、彼女にできることだった。

 これだ、とエレナは思った。これが、サミラのしたことだ。見られる場所に、立ち続けること。隠れずに、見ることをやめずに、世界に向かって「これは起きた」と言い続けること。サミラは、それで死んだ。「見るのをやめたら、私たちは、ただの人になっちゃう」。あの子は、最後まで、ただの人にならなかった。

 残り、四分。

 ハッチから、男が一人、上がってきた。スーツ。サングラスは、外していた。穏やかな顔。例の、急がない声の主だった。彼は屋上の中ほどで足を止め、エレナを、送信スイッチを押し続ける彼女の手を、静かに見た。

「もう、止まりません」とエレナは言った。「複製は、もう何百ヶ所にある。私を撃っても、データは消えない」

「ええ。分かっています」男は、本当に残念そうに頷いた。「ですが、あなたは思い違いをしている。問題は、データが出るかどうかじゃない。誰かが、それを聞けるかどうかです」

 彼は、両手を害意のない位置に保ったまま、ゆっくりと続けた。「考えてみてください。情報が多すぎる世界は、何も決められない。誰もが叫び、誰も聞かない。わたしたちは、ただ一度、世界を静かにするだけです。雑音を消して、人々に、もう一度『聞く』ことを思い出させる。あなたのような、叫び続ける人が——いちばん、困るんですよ。あなたたちは、沈黙を、悪いものだと信じ込んでいる」

「沈黙は」とエレナは、スイッチを押したまま、言った。「都合の悪い声を消すための言葉でしょう。いつの時代も」

 男は、薄く笑った。否定は、しなかった。

 彼は、空を指した。東の空が、おかしな色をしていた。昼前の青に、薄い緑と、桃色の幕が、揺れていた。極では見慣れた光。けれど、ここは、シドニーだった。

「本物が、来ます」男は言った。「あと数十分で、太陽が、本当に地球を叩く。そうなれば、生きている網も、あなたが今使っているそれも、すべて焼かれる。あなたの真実は、誰の目にも触れる前に、本物の沈黙に呑まれる。世界は、停電の理由を、太陽のせいにして、安心して眠る。あなたの六分は——」彼は、ほとんど優しく、微笑んだ。「無音の海に投げた、一本の瓶です」

 残り、二分。

 エレナは、スイッチを、押し続けた。

 彼の言うことは、たぶん、正しかった。今、世界は耳が聞こえない。本物の嵐が来れば、独立系の網さえ焼け落ちるかもしれない。今アップロードされている真実を、受け取った者が、一人でもいるのか。それとも、すべては、誰もいない海に向かって叫んでいるだけなのか。彼女には、分からなかった。確かめる方法は、ない。

 けれど、それは、最初から、そういう仕事だった。

 見ることは、答えが返ってくることじゃない。見ることは、つなぎ留めることだ。聞く者がいるかどうか、分からなくても、出来事を、世界の記憶の側に、結びつけておくこと。瓶を、海に投げること。受け取る者がいるかどうかは、投げる者の仕事じゃない。投げないことだけが、確実な沈黙だった。

「あなたは、間違ってる」とエレナは、静かに言った。「私の仕事は、聞かせることじゃない。記録することよ。聞くかどうかは、生き残った人たちが、決める」

 残り、十秒。

 男が、上着の内側に、手を入れた。

 エレナは、空を見上げた。緑と桃色の幕が、震えながら、空全体に広がっていく。美しかった。世界を黙らせるものが、こんなに美しいことを、彼女は知らなかった。

 送信ランプが、点滅をやめ、一度だけ、長く、灯った。

 送信、完了。

 その光を、彼女は、最後まで、見ていた。

 午前十時十二分、本物のコロナ質量放出が、地球の磁場を叩いた。

 シドニーの空に、その日、極光が立った。生きていたわずかな電子機器が、次々と焼け落ちた。残っていた最後の信号も、ノイズの白い壁に呑まれて、消えた。世界は、完全な沈黙に沈んだ。後に、各国の専門家は、その日の大規模停電を、観測史上最大級の太陽嵐による「自然災害」と結論づけた。容疑者は、太陽だった。

 ただ——その沈黙が訪れる二分前。世界中に散らばった、誰も管理していない無数のサーバーの片隅に、一つの小さなファイルが、静かに着地していた。時刻表が一枚。注釈が、いくつか。そして、署名の代わりに、二人の女の名前。

 それを、いつ、誰が、最初に開くのか。

 あるいは、永遠に、誰も開かないのか。

 それは、もう、記録した者の仕事ではなかった。

 朝が来ても、しばらく、鳥は鳴かなかった。


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