【ショートショート】魂のスープ
午前3時。
老いた料理人・次郎は、誰もいない厨房でひとり、鍋と向き合っていた。
明日、この店は閉める。
40年間、毎朝4時に起きてスープを仕込んだ。豚骨を8時間炊いた。誰よりも早く店に来て、誰よりも遅く帰った。だが息子は継がないと言った。家賃は上がり続けた。体にも、限界が来ていた。
「最後の一杯だ」
次郎は静かに箸を入れた。
するとどこかで、扉が開く音がした。
「すみません、まだやってますか」
振り返ると、20代の青年が立っていた。スーツは乱れ、目は赤かった。
「……閉店前なんだが」
「お願いします。ここのラーメン、10年前に食べて——今日、どうしてもまた食べたくて」
次郎は少し目を細めた。
黙って、鍋を火にかけた。
麺が湯の中で踊る。卵を割る。チャーシューを切る。ネギ、海苔、メンマ。スープを注いだ瞬間、湯気がふわりと立った——40年分の、すべてが溶け込んだ白い煙。
青年は一口すすって、泣いた。
次郎は何も聞かなかった。
翌朝、シャッターに貼り紙をした。
「長らくのご愛顧、ありがとうございました」
だがその隣に、もう一枚あった。昨夜の青年の字で。
「おじさん、僕に教えてください。このスープを、絶やしたくない」
次郎はしばらくそれを見つめ、ゆっくりと鍵を引き出しに戻した。
今日も、4時に起きよう。
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