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ボローニャ留学記⑬

第十三章 帰る朝

帰国の朝は、思っていたよりも静かだった。
透子は早く目が覚め、まだ薄暗い部屋の中でしばらく天井を見ていた。
窓の外では、ボローニャの街がいつも通りに動き始めている。
シャッターの上がる音、遠くのバイク、回廊を掃くほうきの気配。
そのどれもが、もう自分の時間から少し外れているようで、しかし完全には離れていないようでもあった。
スーツケースは前夜のうちにほとんど閉じてあった。
服、ノート、本、資料のコピー、使いかけのペン、小さな鍵束。
それらを入れ終えたあとも、透子はしばらく蓋を閉める気になれなかった。
何を持って帰るかより、何を残していくかのほうが、ずっと重かったからである。
部屋の隅には、ここで買った詩集と、読み終えた手紙の写しが置いてあった。
必要ならあとで送ればいい。
そう思う一方で、送られないまま残るものもあるのだと、彼女はもう知っていた。
朝食をとるためにバールへ寄ると、店主はいつものように短く挨拶をした。
透子はエスプレッソを頼み、立ったままひと口飲んだ。
苦みは前よりもずっと身体に馴染んでいた。
初めてこの街で飲んだときのような、鋭い驚きはもうない。
その代わり、いくぶん深いところに落ちる静けさがある。
彼女はカップを置き、店内を見回した。
朝の光、カウンターの木目、常連客の声。
どれも、もう何度も見たものなのに、今日は少し違って見える。
離れる朝には、いつもの風景がいちばんはっきり見えるのかもしれない。
店を出ると、広場には春の光が広がっていた。
回廊の柱はやわらかい影を落とし、石畳は冷たさよりも、前日までの熱をわずかに残している。
透子は大きな荷物を持っていないのに、身体の中に妙に重いものを感じていた。
それは疲れではない。
むしろ、二年分の暮らしが一度に静まり返るような感覚に近かった。
大学へはもう寄らない予定だったが、透子は最後に資料室の前まで足を運んだ。
扉の前に立つと、すぐに入ることはしなかった。
この部屋で過ごした時間を、急いで閉じるのが惜しかったからである。
やがて扉が開き、マルコが姿を見せた。
彼は驚いたようでもあり、待っていたようでもあった。
「来たんだね」
「はい。最後に、挨拶をしたくて」
マルコはうなずき、しばらく言葉を探すように黙っていた。
それから、いつもの穏やかな声で言った。
「君はここで、よく働いてくれた。手紙も、鍵も、箱も、君の手を通して少し静かになった」
透子は少し笑った。
静かになった。
この場所にふさわしい言い方だった。
彼女は、ここで整理したものが本当に静かになったのかどうか、正確にはわからない。
けれど、自分の中ではたしかに何かが整えられていた。
エレナも、少し遅れてやって来た。
手には小さな紙袋があり、中には焼き菓子が入っているらしかった。
彼女は透子の前にそれを差し出し、笑った。
「旅の途中で食べて。帰国の前は、何か甘いものがあったほうがいい」
透子は受け取り、礼を言った。
どう言えばいいかわからずにいると、エレナは一歩だけ近づいて、軽く抱きしめた。
それは短く、自然で、でも思いのほか深く心に残る別れ方だった。
「ここにいたこと、忘れないで」
その言葉に、透子は頷くことしかできなかった。
忘れない。
忘れられない、ではなく、忘れない。
その違いが、いまはよくわかる。
ここでの時間は、思い出そうと努力しなくても、たぶん何かの拍子に身体のどこかから戻ってくるだろう。
パン屋の匂い、雨の広場、未開封の手紙、名前を呼ぶ声。
忘れるには、この街で過ごした二年は少し長すぎた。
空港へ向かう列車の中で、透子は窓の外を見続けた。
春の景色は、離れる側から見るとどこまでも穏やかだった。
畑、家、低い丘、都市の外縁、そして遠ざかる赤い屋根。
ボローニャの輪郭が少しずつ薄れていく。
だが薄れていくことと消えることは同じではない。
むしろ、見えなくなってからも残るもののほうが、この街には多かった。
列車の揺れに合わせて、透子は膝の上のノートを開いた。
最後のページには、前夜書いた未完の文が残っている。
終わりは、少し前から始まっている。
彼女はその下に、ゆっくりと一行だけ付け加えた。
――でも、終わったあとにも、暮らしは身体の中に残る。
書いてから、しばらくその文字を見つめた。
たぶんこれが、ボローニャで得たもののいちばん正確な言い方なのだろう。
知識でも、資格でも、恋でもない。
けれど確かに、自分の中に残ってしまったもの。
それは、これから別の土地で暮らすときにも、何度も形を変えながら現れるはずだった。
空港に着くと、出国手続きの列は思ったより短かった。
それがかえって、別れの実感を遅らせる。
透子は荷物を持ち、ひとつずつ確認を受け、少しずつ向こう側へ進んだ。
振り返れば戻れるわけではない。
けれど、最後の最後まで見ていくことはできる。
彼女はそこで初めて、ゲートの向こうに立ち止まり、ボローニャのほうを見た。
見えるのは、もちろん壁や光ではなく、もう少し前まで自分がいた時間そのものだった。
名前が呼ばれる。
搭乗案内の機械的な声だった。
透子はその音を聞きながら、胸の奥に小さな痛みと静かな安堵の両方を感じた。
戻る場所は、もう単純ではない。
だが、帰ることで失われるものと、帰ることでようやく持ち帰れるものがある。
彼女はそのことを、離陸の前にようやく理解した。
機内に座り、シートベルトを締めたあと、透子は目を閉じた。
エンジンの音が低く響き、やがて機体はゆっくりと動き出す。
その瞬間、彼女はボローニャでの二年が、遠い記憶になるのではなく、これからの自分の土台になるのだと、はっきり知った。
街は離れていく。
だが離れていくことと、失うことは違う。
むしろ、離れて初めて、その街が自分の中で本当の場所になることがある。
窓の外で、春の光が雲の上へ抜けていく。
透子は小さく息をつき、ノートを膝に置いたまま、最後の一行を心の中で繰り返した。
――暮らしは、帰るときに終わるのではない。
――持って帰ることで、別の形で始まる。
それが、彼女のボローニャだった。


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