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【短編小説】『静と動』



あらすじ

感情を排し、黙々と仕事に打ち込むITエンジニアの天野優。彼女は過去の傷から人との距離を置き、論理と完璧さを追求していた。一方、華やかな成功の裏で他人を見下し、自分の利益を最優先する若手経営者、神崎悟。彼は「何もしなくても全て上手くいく」と信じる傲慢な男だった。

二人は神崎の新規プロジェクトで出会う。優は神崎の身勝手な要求に静かな反発を覚えるが、プロとして淡々と任務を遂行。その中で神崎の不正の兆候を見つけ、システムに密かに証拠を記録する仕掛けを施す。

やがて神崎の不正が明るみに出て、彼の世界は崩壊。全てを失った彼は、優が仕込んだログによって自らの行いが暴かれたことを知る。

数年後、優は変わらず堅実に歩み、その努力が報われている。一方、神崎は一から出直し、傲慢さを捨て地道な道を歩み始めていた。二つの異なる生き方が交錯し、それぞれの「報われる日」へと続く物語。


静かなる始まり

雨上がりのアスファルトに、ひんやりとした空気がまとわりつく。ベランダに出ると、プランターのミニトマトの葉に、まだ水滴が残っていた。指先でそっと触れると、冷たさと微かな土の匂いがする。これが、今の私の日常だ。フリーランスのITエンジニア。自宅兼オフィスで、一日中PCに向かっている。人と直接会う機会は少ないし、それで十分だった。いや、むしろ、それが心地よかった。
もう何年も前のことだ。あの時、私は感情のままに動いて、そして深く傷ついた。人の言葉を信じ、その裏にある悪意に気づかず、無防備に心を晒した結果、心はまるでガラスのように砕け散った。それ以来、私は決めたのだ。感情を揺らさない。人との距離は保つ。期待していない。そうすれば、傷つくこともない。
だから、黙々と、淡々と、コツコツと。それが私の生き方になった。与えられたタスクをこなし、期日までに完璧に仕上げる。それだけだ。感情はノイズでしかない。余計なものを排除し、ただ論理的に、効率的に動く。そうすることで、私は安全な場所にいられる。
時折、ふと過去の記憶が脳裏をよぎり、胸の奥がきゅっと締め付けられることがある。でも、すぐに頭を振って、目の前のコードに意識を集中させる。私はもう、あの頃の私じゃない。強くなった、と自分に言い聞かせながら。



「優ちゃん、こっちこっち!」
植物園近くのカフェテラスで、梓が手を振った。梅雨の晴れ間がまぶしい。優は小さく頷き、梓の向かいの席に座る。
「ごめんね、待たせちゃった?」優は尋ねた。
「全然!私も今来たところ。ちょうど日差しが気持ちいい席が空いてたんだ」梓はにこりと笑った。その笑顔は、花のように明るい。
テーブルに置かれたメニューを広げながら、梓が優に尋ねた。「最近どう?相変わらず忙しい?」
優は少し考えた。「うん、まあ。新しいプロジェクトが始まったから」
「へぇ、どんなプロジェクト?」梓は興味深げに身を乗り出す。
優は一瞬、言葉を選ぶように黙り込んだ。神崎悟。彼の顔が脳裏をよぎる。あの自信過剰で傲慢な態度を思い出すと、わずかに眉間にしわが寄る。しかし、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。
「システム開発の案件で。ちょっと規模が大きいかな」優は簡潔に答えた。
「そっか。優ちゃんのことだから、きっとサクサクこなしてるんだろうね」梓は優の能力を心から信頼しているのが伝わってくる口調で言った。
優は否定も肯定もせず、ただ小さく息を吐いた。梓はそんな優の様子から、何か言いたげな雰囲気を感じ取ったのかもしれない。無理に問い詰めることはせず、メニューを指差した。
「どれにする?ここのキッシュ、美味しいんだよ」
話題を変えてくれた梓の気遣いが、優にはありがたかった。沈黙が心地いいのは、梓が一緒にいる時だけだ。無理に言葉を交わさなくても、お互いの存在を感じられる。それが、優にとって何よりの安らぎだった。
ランチの間に、梓は最近植物園であった面白い出来事を話して聞かせた。珍しい蘭が咲いたこと、新しい品種のバラの蕾が膨らんできたこと。梓が生き生きと話すのを聞いていると、優の心にも微かな温かさが広がっていくのを感じた。
「……梓は、いつも楽しそうだね」優は、ふとそんな言葉を漏らした。
梓は目を丸くして、それからくすりと笑った。「そうかな?でも、植物と話してる時が一番落ち着くのは本当だよ。優ちゃんもそうじゃない?コードと向き合ってる時」
優はカップのコーヒーを一口飲む。梓の言葉に、少しだけ心が揺れた。確かに、無機質なコードの中に、完璧な論理を構築していく時間は、私にとって何よりも集中できる時間だ。感情が入り込む隙間がなく、ただひたすらに、答えを導き出す。その感覚は、ある意味で「楽しい」のかもしれない。
「…そう、かもしれない」優は静かに答えた。
梓は満足げに頷いた。二人の間に再び心地よい沈黙が訪れる。窓から差し込む午後の光が、二人の横顔を優しく照らしていた。
優ちゃんとは、大学の図書館で知り合った。あの子はいつも、分厚い専門書に顔を埋めていた。私は植物図鑑を広げていたんだけど、ふと顔を上げると、優ちゃんが難しい顔をしてるのが見えてね。最初は声をかけられなかった。どこか近寄りがたい雰囲気があったから。でも、目が合うと、優ちゃんは小さく会釈をしてくれた。それがきっかけで、少しずつ話すようになったんだ。
優ちゃんは、本当に口数が少ない。質問しても、必要最低限の言葉しか返ってこないこともしょっちゅう。でも、なぜだろう、一緒にいると不思議と落ち着くんだ。無理に話さなくてもいいし、気を使わなくてもいい。ただ、同じ空間にいるだけで心地いい。私は、優ちゃんの静けさの中に、何か深いものを感じていた。
最初は、あの子が何を考えているのか全く分からなかった。でも、一緒に時間を過ごすうちに、優ちゃんがどれだけ繊細で、どれだけ優しい心を持っているか、少しずつ見えてきた。小さな植物の成長を、まるで我が子のように愛おしそうに見つめる時とか、難しいプログラミングの話をする時の、あの真剣な眼差しとか。感情をほとんど表に出さない分、そういう瞬間の優ちゃんは、キラキラして見えたんだ。
あの子が過去に何か辛い経験をしたことは、薄々感づいている。私も詳しいことは聞かないし、優ちゃんも話さない。でも、それでいいと思ってる。無理にこじ開ける必要なんてない。ただ、私は優ちゃんの傍にいる。それだけで、あの子が少しでも楽になれるなら、それが私にできることだから。きっと、優ちゃんは、誰よりも強くて、そして、誰よりも傷つきやすい人なんだろうな。

世の中には、やかましい人間と、そうでない人間がいる。そして、天野 優は後者の最たるものだった。朝七時に目覚ましが鳴る前に目を覚まし、珈琲豆をミルで挽く。挽きたての香りが部屋に満ちる頃には、もう彼女の仕事モードは起動している。自宅兼オフィスの四畳半には、モニターが二台、キーボードとマウス、そして冷え切ったマグカップがいくつか。これだけあれば、彼女の宇宙は成立するのだ。
いいね心の中のお互いの反発を描きながら物語を進めて




動乱の予兆

第一幕:天野 優、あるいはプランターの哲学者

世の中には、やかましい人間と、そうでない人間がいる。そして、天野 優は後者の最たるものだった。朝七時に目覚ましが鳴る前に目を覚まし、珈琲豆をミルで挽く。挽きたての香りが部屋に満ちる頃には、もう彼女の仕事モードは起動している。自宅兼オフィスの四畳半には、モニターが二台、キーボードとマウス、そして冷え切ったマグカップがいくつか。これだけあれば、彼女の宇宙は成立するのだ。
彼女の宇宙では、騒音という概念が希薄だった。唯一の生命の息吹は、ベランダのプランターで育つミニトマトと、バジル、それから名も知らぬ雑草たち。彼らは文句も言わず、ただひたすら光を求め、水を吸収し、黙々と成長していく。優にとって、彼らはある種の哲学者だった。人生の教訓は、意外と土の中から学べるものなのだ。
「フム、今日は少し肥料が足りないか」
誰もいない部屋で、優は独りごちた。彼女の声は、普段はウェブ会議のマイク越しにしか発せられない。しかも、その内容は「はい、承知いたしました」「データは添付の通りです」「問題ありません」の三種類で大半が構成されている。必要以上の言葉は、ノイズでしかない。感情なんて、もっと厄介なノイズだ。かつては感情の赴くままに動いて、それはもう見事に人生の落とし穴に転げ落ちた経験がある。以来、優は感情という名のジェットコースターには二度と乗らないと心に決めたのだった。
そんな彼女の唯一の心の友、佐藤梓は、まさに「植物園の主」というべき存在だった。つい先日も、久しぶりにランチに出かけた。優が「新しいプロジェクトが始まった」とぼんやり告げると、梓は「きっとサクサクこなしてるんだろうね」と、まるで優がスーパーコンピューターかなにかのように無邪気に言う。いや、スーパーコンピューターなら、きっとこの「人間関係」というバグだらけのシステムに、もう少し最適解を見つけ出すはずだが。優は心の中でそんな毒づきながらも、梓の笑顔に救われている自分を知っていた。無言の居心地の良さ。それこそが、優が人生で唯一許容できる「人との交流」だった。




第二幕:神崎 悟、あるいは世界の中心は俺だ

一方、神崎 悟の世界は、優のそれとは全く異なる法則で動いていた。彼にとって、世界は彼を中心に回る巨大なメリーゴーランドだ。周囲の人間は、彼の言葉一つで表情を変え、彼の指示一つで右往左往する、愉快な乗り物係に過ぎない。
「今日のプレゼン、最高でしたね、神崎さん!」
「もちろんだ。僕がやれば、こんなものだろう?」
薄暗いバーのカウンターで、グラスを傾ける神崎の顔には、微塵も謙遜の文字はなかった。隣に座る部下は、まるで小学校の先生に褒められた生徒のように目を輝かせている。神崎は内心で鼻で笑った。この程度のプレゼンで感動するとは、世間は随分とお手軽なものだ。もっとも、お手軽であればあるほど、使いやすいのだが。
神崎は若くしてベンチャー企業の経営者となり、その華やかな経歴は各メディアで取り上げられた。彼の言葉は常に自信に満ち溢れ、未来への希望に満ちていた。だが、その華麗な言葉の裏側には、常に「いかにして自分を優位に見せるか」「いかにして他人を利用し尽くすか」という冷徹な計算が隠されていた。彼にとって、他人の価値とは、自分にとってどれだけ有用であるか、ただそれだけだった。
「どうせ、あいつらも僕がいなければ何もできないんだ。この社会は、結局、強い人間が弱い人間を食い物にして成り立つ。それだけの話だろう?」
酔いに任せて漏らした彼の言葉は、常に本音だった。彼は、自分が他人よりも優れていることを常に証明したがった。それは、幼少期に味わった、決して認められなかった劣等感の裏返しだった。誰よりも注目され、誰よりも賞賛されなければ、彼は自分の存在意義を見出せなかったのだ。




第三幕:奇妙な出会い

そんな二人の全く異なる星の住民が、ある一点で交わることになった。
きっかけは、共通の知人を介した一本の電話だった。
「神崎さん、ご紹介したい方がいるんです。フリーのエンジニアで、技術はピカイチ。ちょっと変わり者ですが、腕は確かですよ」
神崎は受話器越しに鼻を鳴らした。「変わり者?どうせ世間ズレしたオタクか何かだろう?僕の求めるスピードについてこられるかな」
「いえ、そういう方じゃないんです。むしろ、無駄な感情がない分、仕事は早いかと」
無駄な感情がない。その言葉に、神崎は微かに興味を覚えた。彼の周りには、感情に流され、足手まといになる人間ばかりだったからだ。利用価値のある人間は、どんな奇妙な形をしていても構わない。
そして、優が神崎のオフィスを初めて訪れた日。
神崎は、予想外の光景に目を瞬かせた。そこにいたのは、地味なスーツに身を包んだ、感情の読めない女性だった。彼女の視線は、神崎の目ではなく、彼の背後にあるホワイトボードに向けられていた。まるで、神崎という人間よりも、そこに書かれたプロジェクトの概要図の方がよほど興味深い、とでも言いたげに。
「天野優と申します。本日はよろしくお願いいたします」
優は淡々と挨拶した。その声に抑揚はなく、まるでAIが定型文を読み上げているかのようだった。神崎は思わず口元が緩んだ。面白い。これはまるで、感情という名のOSを搭載していないロボットのようだ。
一方、優の脳内では警報が鳴り響いていた。神崎悟。彼の放つ、ねっとりとした、それでいてギラついた視線は、優が最も嫌悪する「他者を見下す人間のそれ」だった。彼の笑顔は、まるで獲物を前にした肉食獣のようだ。
「こちらこそ。僕のプロジェクトに、あなたの無駄のない能力、期待していますよ」神崎は笑った。その笑みには、上から目線がたっぷりと混ざっていた。
優は無表情でその言葉を聞き流した。期待?勝手に期待すればいい。私はただ、与えられた仕事を完璧にこなすだけだ。そして、期日通りに報酬を受け取る。それ以外の、人間的なやり取りは、一切不要。
そう、優は心に決めていた。この男と関わるのは、仕事の上だけだ。余計な感情は持ち込まない。そう、断固として。
しかし、神崎は違った。彼の好奇心は、感情を見せない優の奥底に、一体何が隠されているのか、その謎を暴きたがっていた。まるで、壊れたおもちゃの内部構造を知りたがる子供のように。
こうして、動と静、二つの異なる星が、奇妙な引力で引き寄せられていく。物語は、始まったばかりだった。




第四幕:交錯するコードとプライド

神崎のオフィスの一角に、優専用のデスクが設けられた。最新のモニターと、高速のワークステーション。設備は文句なしだ。優はすぐに集中して作業に取り掛かった。彼女にとって、コードは嘘をつかない。入力された論理に従い、正しく動作する。これほどシンプルで、美しいものはない。
しかし、神崎悟という変数は、このシンプルな世界に絶えずノイズを送り込んできた。
「天野さん、この機能、もっとこう、ユーザーが『感動』するような仕上がりにできないかな?例えば、クリックしたら花火が上がる、とか」
ある日、神崎は優のデスクに立ち、無邪気な子供のように言い放った。優はキーボードを叩く手を止め、顔だけを神崎に向けた。その視線は、まるで「あなたは今、何を言いましたか?」と問うているかのようだった。
「花火、ですか。それはシステムの本質的な機能とは関係ありませんし、開発コストとメンテナンスの手間が増えるだけです」
優は淡々と答えた。彼女の言葉に、神崎は眉をひそめた。彼の辞書に「費用対効果」という文字はあっても、「面白くない」という概念はなかった。
「いやいや、そういうドライな考え方はダメだよ、天野さん。ビジネスっていうのは、夢を見せることなんだ。感情を揺さぶってこそ、人は動く」
神崎は熱弁をふるう。その瞳は、まるで巨大なスクリーンに映し出される自分の姿に酔いしれているかのようだった。優は内心でため息をついた。この男は、本質を見ようとしない。表面的な派手さばかりを追い求めている。
「システムは、安定性と効率性が重要です。無駄な装飾は、バグの温床になりかねません」優は、感情を抑え込み、事実だけを述べた。
「ふん。君は本当に面白いな」神崎はニヤリと笑った。「まるでプログラムされたロボットのようだ。感情がないから、トラブルも起こさない。ある意味、理想的なのかもしれない」
その言葉に、優の胸の奥で、何かがチクリと刺さった。ロボット。感情がない。そう、彼女はそうあろうと努力してきた。だが、それを他人に、それもこの傲慢な男に指摘されるのは、なぜか不快だった。
しかし、優は顔色一つ変えなかった。感情を表に出せば、この男の思う壺だ。彼女は再びキーボードに向き直り、ディスプレイに映るコードに視線を落とした。まるで、神崎の存在そのものを、視界からデリートするかのように。
神崎はそんな優の態度を、面白がっているようだった。彼は優が反応しないことに苛立ちを覚えるどころか、むしろゲームのように楽しんでいるようだった。
「まあいい。君の言うことも一理ある。だが、最終的な判断は僕がする」
神崎はそう言い残し、デスクを離れていった。優は、彼が去ったのを確認すると、深く息を吐いた。彼の存在は、優の静かな日常に、確実に波紋を広げ始めていた。このプロジェクトが終わるまで、あとどれだけの「無駄な変数」と向き合わなければならないのだろうか。優は、まだ始まったばかりの戦いに、密かにうんざりしていた。




第五幕:静かなる憤り、動なる策略

数日後、神崎は再び優の前に現れた。今回は、新たな要求を突きつけるためだ。
「天野さん。このインターフェース、もっと直感的に、つまり『僕が使って気持ちいい』ように変更してほしいんだ」
神崎はタブレットを優に差し出した。そこには、彼が雑に手書きした、まるで幼児の落書きのようなレイアウトが描かれている。優はそれを見て、静かに目を細めた。彼女の顔には表情がないが、脳内では「冗談でしょう?」という言葉が高速でスクロールしていた。
「これは…既存のモジュールでは対応が難しいかと。根本から再構築することになります」優は冷静に分析した。再構築?つまり、これまでの作業を無に帰す可能性もある、という意味だ。
「ああ、いいんだよ。時間がかかっても。君ならできるだろう?完璧主義なんだろ?」神崎は、優の言葉の裏にある不満をまるで意に介さず、煽るように言った。「僕のこだわりを形にできるのは、君しかいないんだから」
優は心の中で反発した。こだわり?それはただの我が儘だ。 彼女のプログラムは、論理と効率の結晶だ。無駄を徹底的に排除し、バグの発生確率を最小限に抑える。そこに、**個人の「気持ちいい」などという曖昧な感情が入り込む余地はなかった。**しかし、彼女は口に出しては言わない。感情的な反論は、この男には通じないことを知っていたからだ。
「承知いたしました。工数を見積もり、改めてご提案させていただきます」
優は、まるで感情のないロボットのように返答した。神崎は満足げに頷き、去っていった。彼の背中を見送りながら、優はマウスを握る手にわずかに力を込めた。人のせいにして、自分の非を認めない。自分のこだわりを押し付けて、他者の労力を顧みない。 優が最も嫌悪する人間のタイプが、目の前にいる。
その日の夜、優はリビングで植物の世話をしながら、佐藤梓とのランチを思い出していた。梓は、どんな小さな植物の成長も、心の底から喜ぶ。優が育てているミニトマトが少しずつ赤みを帯びてきたことを話すと、梓は自分のことのように嬉しそうに微笑んでくれた。
「優ちゃんは、ちゃんと土と向き合ってるからだよ。植物は、手をかけた分だけ、正直に答えてくれるからね」
梓の言葉が、優の頭の中に響く。システムもそうだ。手をかけ、論理を積み重ねれば、正確に動く。だが、人間は、違う。神崎のような人間は、どれだけ手をかけても、いや、手をかけすぎればかけるほど、傲慢さが増していくのかもしれない。
優は、心の中で静かに決意した。このプロジェクトは、彼女にとっての戦場だ。彼女は、黙々と、淡々と、コツコツと、自分の仕事を全うする。感情に流されず、冷静に。そして、この傲慢な男が、いつか必ず、自分の蒔いた種の報いを受ける日が来ることを、密かに予感していた。彼女は虎視眈々と、その日を待つ。それは、彼女自身のプライドを守るための、静かなる反発だった。
一方、神崎は、優の反応を観察していた。彼女の無表情な顔の奥に、わずかながらも「何か」が隠されていることを彼は感じ取っていた。それは苛立ちか、それとも軽蔑か。どちらにしても、彼の興味をそそるには十分だった。「バカにして自分を優位に見せたがる」 神崎は、まさしくその欲望のままに優を試していた。彼女の完璧主義な性格を利用し、自分の都合の良いようにシステムを構築させようと画策する。彼は優を、自分の手足のように動かせる優秀な道具だと捉えていた。
「面白い。こいつがどこまで耐えられるか、見てやろうじゃないか」
神崎は、高層ビルの窓から東京の夜景を見下ろしながら、不敵な笑みを浮かべた。彼の世界は、常に彼が優位に立つことを前提に回っている。そして、その優位性を脅かすものは、たとえ微かなものであっても、排除するか、あるいは支配しなければならない。優の静かな反発は、彼にとっては小さなゲームの始まりに過ぎなかった。
物語は、それぞれの心の奥底に秘めた反発と策略を抱えながら、静かに、そして確実に、大きなうねりへと向かっていく。

第六幕:不穏な兆しと、静かなる覚悟

プロジェクトは、神崎の予測不能な要求と、優の揺るぎないロジックの間で、奇妙な均衡を保ちながら進んでいった。神崎は毎日のように新たな「思いつき」を優に投げつけ、優はそれを「技術的に可能か」「効率的か」というフィルターを通して冷静に処理した。
ある日の夕方、優は遅くまでオフィスに残って作業をしていた。昼間は神崎の部下たちが頻繁に出入りするが、この時間になると彼のデスクには誰もいない。静寂の中で、優は集中してコードを打ち込む。そんな時、隣の神崎のデスクから、わずかな光が漏れているのに気づいた。
普段は施錠されている引き出しが、半開きのままになっている。中には、無造作に放り込まれたファイルが見えた。優は興味本位で、というよりは、ごく自然な流れで、そのファイルに目をやった。表紙には、見覚えのない企業名が記されている。そして、その下には「業務提携に関する覚書(案)」の文字。
そのファイルを開くべきか否か、優は一瞬迷った。これは、自分の仕事とは関係ない。他人の私物に触れるべきではない。しかし、彼女のプログラマーとしての性なのか、目の前に提示された「未解読のデータ」を無視することができなかった。
優は、まるでコードを読み解くかのように、そのファイルの中身を読み進めた。そこには、神崎が現在進めているプロジェクトとは別の、新規事業の計画が記されていた。それは、現在の事業の収益を、巧妙な手法で別の会社に移し替えるという、かなりグレーな内容だった。優の脳内にある「倫理規定」という名のプログラムが、アラートを発した。「これは、不正の可能性が高い」
彼女は淡々とページをめくった。そこには、過去の取引先とのトラブルを示唆するメールのやり取りや、不自然な会計処理の記録なども含まれていた。神崎の華やかな成功の裏に、このような闇があるのかと、優は静かに驚いた。
ファイルをもとの場所に戻し、優は何もなかったかのように自分の作業に戻った。しかし、一度見てしまった情報は、彼女の頭の中から消えることはない。神崎の言動の端々に感じていた「自分さえ良ければいい」という傲慢さが、確かな輪郭を帯びて目の前に現れたような気がした。
優は、心の中で静かな覚悟を決めた。彼女は、黙々と淡々とコツコツと、自分の仕事を続ける。感情に流されず、冷静に。この不正の兆候が、いつか彼の身を滅ぼすことになっても、それは彼女の関知するところではない。彼女がすべきは、与えられたシステムを完璧に動かすこと。それだけだ。
一方、神崎は、優が自分のファイルに目をやったことなど、知る由もなかった。彼は優を、感情のない、ただひたすらコードを打つ「道具」だと認識していたからだ。彼にとって、優の行動はすべて予測可能で、制御下に置かれているものだった。
その夜、神崎は部下たちを引き連れて、高級料亭で豪遊していた。
「どうだ、お前たち。僕のアイデアは常に最高の成果を生み出すだろう?」
彼は部下たちの尊敬の眼差しを浴びながら、上機嫌で酒を飲んだ。彼の世界は、常に彼が優位に立ち、彼が支配する。それこそが、彼の信じる「成功」の形だった。優のデスクの上に残されたファイルは、彼にとって何でもない、ただの書類の束に過ぎなかった。
しかし、その小さな「未解読のデータ」が、やがて彼の築き上げた王国を揺るがす、静かなる爆弾となることを、彼はまだ知らなかった。




第七幕:波紋、あるいは静かなる反撃

神崎悟のオフィスには、ここ最近、奇妙な空気が漂っていた。表面的には、相変わらずプロジェクトは順調に進んでいるように見える。だが、水面下では、優が「発見」した小さなほころびが、じわりじわりと広がり始めていた。
優は、与えられたタスクをこれまで通り完璧にこなしていた。しかし、彼女のコードには、以前にはなかった微かな「仕掛け」が埋め込まれるようになっていた。それは、直接的なエラーを引き起こすものではない。しかし、将来的にシステムに不自然な負荷がかかったり、特定の操作が行われた際に、ログの記録がより詳細になったりするような、ごくわずかな調整だった。彼女の目的は、システムを完璧に動かすこと。だが、もし、その完璧さが不正な意図によって歪められようとしているならば、その「歪み」を可視化する準備をしておくのは、エンジニアとしての責務だった。
「天野さん、この機能、もうちょっと早くできないか?クライアントが痺れを切らしているんだ」
ある日、神崎が優のデスクにやってきて、いつものように無茶な短縮を要求した。優は画面から目を離さず、淡々と言った。
「現行のフレームワークでは、これ以上の最適化は困難です。無理な短縮は、将来的なバグの原因となりかねません」
「バグ?君が完璧に作ればいいだけの話だろう」神崎は鼻で笑った。「僕に言わせれば、それはただの『努力不足』だよ。君のその『丁寧すぎる』やり方が、時に足を引っ張ることもあるんじゃないか?」
優の心臓の奥底で、静かな怒りが燃え上がった。努力不足?完璧に作り上げるために、どれだけの時間を費やし、どれだけの論理を組み立ててきたか、この男は何も知らない。彼女のプロとしてのプライドを、彼は常に踏みにじる。しかし、優は表情一つ変えなかった。感情に流されて言葉を荒げれば、それは彼の思う壺だ。
「承知いたしました。可能な範囲で検討させていただきます」
そう言って、優は再びキーボードに向き直った。神崎は、優の反応のなさに面白くなさそうに首をひねったが、すぐに興味を失ったように去っていった。彼は優を「完璧だが融通の利かないロボット」と認識しており、その性質を利用することしか考えていなかった。彼女の言葉の裏に隠された、静かなる反発には全く気づいていなかった。
優は、心の中で、冷徹な計算をしていた。神崎の不正の兆候。そして、彼が求める「早さ」と、優が追求する「完璧さ」。この乖離が、いずれ大きな綻びを生むだろう。彼女は、黙々と淡々とコツコツと、その綻びが明確になるためのピースを、一つずつ確実に配置していく。それはまるで、緻密なパズルを組み立てるかのように。彼女のプログラムが、いずれこの傲慢な経営者の足元をすくうことになるとしても、それはコードの論理的な帰結に過ぎなかった。

第八幕:神崎の焦燥と、忍び寄る影

神崎悟は、最近、どこか焦りを感じていた。彼は順調に事業を拡大しているように見えたが、いくつかの投資案件が予想外の不振に陥っていたのだ。そして、過去の怪しい取引に関する噂が、ちらほらと彼の耳に入り始めていた。
「おい、例の件、どうなっている?もっと早く処理しろ!」
神崎は部下を怒鳴りつけた。彼は、何事も自分の思い通りにいくと信じていた。だが、最近はそうもいかない。焦れば焦るほど、周囲の人間は彼の元から離れていくようだった。かつて彼を「カリスマ経営者」と持ち上げていたメディアも、最近は冷ややかな目を向けている気がした。
優のデスクの前を通り過ぎるたびに、神崎は彼女の無表情な横顔に苛立ちを覚えた。「何もしなくても全て上手くいく」と思っていたはずが、最近はそうでもない。彼は、優のその静けさを、まるで自分への無言の嘲笑のように感じ始めていた。感情に流されず、冷静にゆっくりと進んでいく者を甘く見ない方がいい。 そんな言葉が、彼の頭の片隅をかすめるが、彼はすぐにそれを振り払った。自分は世界の中心であり、誰かが自分を脅かすなどありえない。
ある日、神崎は重要な取引先との打ち合わせを控えていた。その席で、新規事業の全貌をプレゼンし、最終的な投資を引き出すつもりだった。彼は、優が開発しているシステムをプレゼンツールとして使う予定だった。優が提案した「安定性」を重視したシンプルな機能ではなく、彼が「感動」を求めて指示した、派手な演出が盛り込まれたバージョンだ。
「天野さん、明日までに、あの機能、絶対に完璧にしておくように。君の仕事にかかっているんだぞ」
神崎は優に最後の釘を刺した。優はただ一言、「承知いたしました」と答えた。その声は、いつもと変わらない。しかし、その夜、優はオフィスの誰もいないデスクで、ひそかに最終調整を施していた。神崎が「感動」を求めた派手な機能の裏側。そこには、彼の不正が表面化した際に、決定的な証拠となるログが自動的に収集されるプログラムが、静かに組み込まれていた。
それは、優にとっての「完璧な仕事」だった。システムは、指示通りに動く。しかし、その動きが、神崎自身の行動によって不正に利用された場合、その痕跡を明確に残す。優は感情に流されることなく、ただひたすらに、論理を、コードを積み重ねた。彼女は知っていた。必ず報われる日がくるということを。それは、彼女自身のためでもあり、そして、論理と真実が、感情や傲慢さに打ち勝つことへの、静かな確信だった。
神崎は、優のデスクから去り際、かすかな違和感を覚えた。いつもと変わらないはずの優の背中が、なぜか、いつもより強く、大きく見えた気がしたのだ。しかし、彼はそれを気のせいだと一笑に付し、明日のプレゼンの成功を夢見て、夜の闇へと消えていった。彼の足元に、忍び寄る影があることなど、彼は露ほども知らなかった。




第九幕:静寂の中の共有

優と梓が再びランチをするのは、プロジェクトが佳境に入り、優の心が張り詰めていた頃だった。今回は、優の方から梓を誘った。いつものカフェテラスではなく、少し離れた静かな公園の中にあるベンチを選んだ。木漏れ日が降り注ぐその場所は、まるで都会の喧騒から切り離された秘密の空間のようだった。
「優ちゃんから誘ってくれるなんて珍しいね。なんかあった?」
梓は優の顔を覗き込むように言った。優は、淹れたての紅茶の湯気を眺めながら、ゆっくりと口を開いた。
「少し、疲れた」
その一言に、梓は目を見開いた。優が弱音を吐くのは、本当に稀なことだったからだ。梓は何も言わず、ただ優の隣に座り、彼女の紅茶のカップに手を添えた。その温かさが、優の凍てつきかけた心をじんわりと溶かしていくようだった。
「新しいプロジェクト、大変なんだね」梓は静かに言った。
優は頷いた。神崎悟という存在。彼の傲慢さ、無責任な要求、そして見つけてしまった不正の兆候。それら全てが、優の論理的な思考回路に、常に負荷をかけていた。感情に流されないように、ひたすら冷静であろうと努めても、心の奥底で沸き起こる苛立ちや、漠然とした不快感は消えなかった。
「……彼、自分のことしか考えてない。人のこと見下して、バカにして、自分を優位に見せたがる」
優の声は、いつもより少しだけ低かった。彼女が具体的な人物について、これほど強い言葉を使うのは初めてのことだった。梓は優の言葉を、ただじっと聞いていた。無理に相槌を打つことも、意見を挟むこともない。ただ、優が話したいことを、そのまま受け止めてくれる。それが、優にとって何より心地よかった。
「彼はね、自分が世界の中心だと思ってる。それで、何もしなくても、全て上手くいくと信じ込んでるんだ」
優は、まるで自己分析をするかのように、淡々と続けた。それは、彼女が神崎という人間を、感情を交えずに分析した結果だった。しかし、その声には、微かな憤りが含まれているのを、優自身も感じていた。
梓は、優の言葉を聞き終えると、そっと彼女の肩に触れた。
「でも、優ちゃんは違うよね」梓は優の目を見て言った。「優ちゃんは、黙々と淡々とコツコツと、自分のやれることを、ちゃんとやってる。どんなに大変なことでも、感情に流されず、冷静にゆっくりと進んでる。だから、きっと、大丈夫」
その言葉は、優の心に深く染み込んだ。梓は、いつも優の生き方を肯定してくれた。彼女の静かな努力を、誰よりも理解し、評価してくれる。優が感情を押し殺してまで貫こうとしている「報われる」という信念を、梓は信じてくれていた。
「ありがとう」優は、小さく微笑んだ。それは、梓以外には見せない、ほんのわずかな感情の表出だった。
「私、思うんだ」梓は優しい声で続けた。「進んでいく者を甘く見ない方がいいって。だって、ちゃんとした土壌で、丁寧に育てられた種は、どんなにゆっくりでも、必ず花を咲かせるから。そして、その花は、どんな派手な花火よりも、ずっと力強いんだよ」
優は、梓の言葉を、まるでプログラムの設計図を読むかのように、頭の中で反芻した。植物に例える梓らしい表現だった。そして、その言葉は、優の胸の奥に、確かな光を灯した。
神崎のような人間は、派手な花火を打ち上げるだろう。しかし、その根は脆い。優は、たとえ地味でも、確実に根を張っていく植物のように、自らの信念を貫くことの重要性を、改めて確信した。
二人の間に、再び静かな時間が流れる。木々の葉擦れの音、遠くで聞こえる子供たちの声。その全てが、優の心を穏やかにしていくようだった。
「私、そうありたい
優は、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。その言葉は、神崎への静かな反発であると同時に、優自身の未来への、確かな覚悟表明でもあった。梓は、その優の言葉を聞いて、ただ優しく微笑んだ。
このランチは、優にとって、張り詰めた心に休息を与え、自らの信念を再確認する貴重な時間となった。そして、彼女の心の中で、神崎との「戦い」への静かなる闘志が、再び燃え上がり始めていた。

第十幕:崩壊の序曲

神崎悟は、その日、これまで経験したことのない高揚感に包まれていた。都内屈指の高級ホテルの一室。目の前には、名だたる投資家たちがずらりと並び、彼のプレゼンに耳を傾けていた。優が最終調整を施したシステムが、巨大なスクリーンに映し出され、流れるような動作と華やかなエフェクトで彼らの目を釘付けにする。
「ご覧の通り、このシステムは、これまでの常識を覆します。まさに、未来を創造するテクノロジーです!」
神崎は自信に満ちた声で語りかけた。彼の言葉には、何一つ迷いがない。彼は、自分がこの場の主役であり、世界を動かす存在であると信じて疑わなかった。彼のプレゼンは、まさに圧巻だった。投資家たちの顔には、期待と興奮の色が浮かんでいた。
しかし、その高揚感の裏で、小さな異変が起こり始めていた。
優が仕込んだログ収集のプログラムが、静かに、しかし確実にその役割を果たし始めていたのだ。システムの特定の機能が神崎によって操作されるたびに、その詳細な記録が、外部の秘匿されたサーバーへと送信されていく。それは、まるで目に見えない監視の目だった。
プレゼンが終盤に差し掛かった頃、会場の一角に座っていた一人の投資家が、腕を組み、鋭い視線を神崎に向けていた。彼は、業界では「調査役」として知られる男だった。過去にいくつかの不正を見抜き、多くの詐欺師たちを破滅に追いやった実績を持つ。
「神崎さん」その男が口を開いた。彼の声は、他の投資家たちの熱気を冷ますように、冷静で、そして重かった。「一つ、お伺いしたいことがあります。先日、貴社の過去の取引に関して、不穏な噂を耳にしました。この新規事業の資金源について、より詳細な説明をいただけますか?」
会場の空気が、一瞬で凍り付いた。神崎の顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼はまさか、この場でそんな質問が出るとは思っていなかった。優がファイルで見たあの情報が、すでに外部に漏れ始めていたのだ。
「それは、全くの誤解です!」神崎は慌てて反論した。「我々はクリーンな経営を心がけており、不正など一切ありません!」
だが、彼の動揺は隠しきれない。その動揺は、そのままシステムの小さなバグとなって現れた。神崎が次にクリックしようとした瞬間、画面上の花火のエフェクトが不自然に途切れ、一瞬、システムがフリーズした。それは、優が意図的に仕込んだものではなく、神崎の精神的な動揺によって引き起こされた、偶然の事象だった。しかし、その一瞬の不具合が、投資家たちの疑念をさらに深めた。
優は、自宅のモニターで、そのプレゼンの様子をライブ配信で見ていた。システムから送られてくるログデータが、異常なペースで増えている。それは、神崎が今、まさに不正な操作を行っている証拠だった。彼女の心臓は、いつもより少しだけ速く脈打っていた。感情に流されるな。冷静に。
神崎は、質問攻めに遭い、言葉に詰まっていた。彼は、これまで他者を見下し、自分の思う通りに世界が回ると信じてきた。しかし、今、その世界が、彼の手から滑り落ちていく感覚に囚われていた。何もしなくても全て上手くいく。その妄想が、音を立てて崩れ去っていく。
翌日、各メディアは神崎の会社に関する不穏な噂を一斉に報じた。彼の華やかな成功の裏に潜む、不正会計や不透明な資金の流れが、次々と暴かれていく。彼を「カリスマ」と持ち上げていた人々は、手のひらを返したように彼を非難し始めた。
神崎の携帯電話には、取引先からの問い合わせや、資金繰りの催促の電話が鳴りやまない。彼の部下たちは、次々と会社を辞めていった。彼がこれまで見下してきた「弱い」と思っていた人間たちが、一斉に彼から離れていく。彼は孤独だった。そして、絶望の淵に立たされた。

第十一幕:瓦解と、静かなる報い

神崎悟の築き上げたものは、あっけなく、砂の城のように崩れ去った。メディアの追及は苛烈を極め、取引先は手のひらを返し、かつての部下たちは蜘蛛の子を散らすように去っていった。彼は、高層ビルの最上階にある豪華なオフィスで、独りぼっちになった。
窓の外には、きらめく東京の夜景が広がっている。しかし、その光景は、もはや彼にとって輝かしい未来を映すものではなかった。ただ、彼の孤独と絶望を映し出す、冷たい光景に過ぎない。彼は、かつて「何もしなくても全て上手くいく」と信じていた。だが、現実は、彼が誰かを貶め、利用してきたツケを、想像を絶する形で突きつけてきた。
彼は、荒れ果てた自らのデスクに目をやった。散乱した書類の中に、見覚えのある資料があった。優が作成した、プロジェクトの初期段階のシステム設計書だ。そこには、彼女が主張し続けた「安定性」「効率性」といった言葉が、整然とした文字で並んでいた。そして、彼の無茶な要求によって、後から追加された「感動的なエフェクト」などの機能は、小さく追記されているに過ぎなかった。
神崎は、その設計書を掴み取り、無意識のうちに優のデスクに目をやった。誰もいない。彼女は、もうここにはいない。彼女は、あのプレゼンの日以降、一度も彼の前に姿を見せていない。契約は、神崎の会社の破綻とともに、自動的に解消されたのだろう。
彼は、ふと、優のあの無表情な顔を思い出した。「ロボットのようだ」と嘲笑ったあの女性。感情を見せず、ただひたすら黙々と淡々とコツコツと、与えられた仕事をこなす彼女の姿。今思えば、彼女のその「無駄のない能力」とは、彼の傲慢さとは対極にある、揺るぎない強さだったのかもしれない。
そして、脳裏に、あの日の光景が蘇る。プレゼンの最中、システムがフリーズした、あの決定的な一瞬。あの時、彼の心は激しく動揺した。だが、優は違った。彼女は、常に冷静だった。まるで、この結果を予見していたかのように。
神崎は、ふと、胸の奥に冷たいものが走るのを感じた。あのプレゼンで、彼の不正が暴かれたのは、本当に偶然だったのだろうか?優が作成したシステムは、本当に「バグ」だったのだろうか?
彼は、恐る恐る、自身のノートパソコンを開いた。そして、システムの管理画面にアクセスする。そこには、これまで彼が気にも留めなかった、詳細なログが記録されていた。彼の不正な操作、資金の移動、不透明な取引の履歴……全てが、正確な日時と共に、そこに刻まれていた。それは、彼の行動が、まるで誰かに監視されていたかのように、完璧に記録されていた。
優が、あの日の夜、密かに仕込んだプログラム。それは、感情のない彼女の、静かなる反撃だった。感情に流されず、ただ論理と真実に基づき、彼は報いを受けるべきだと判断したのだろう。
神崎は、そのログデータを見て、初めて優の真の恐ろしさと、彼女の**「進んでいく者を甘く見ない方がいい」**という、無言の警告の意味を理解した。彼女は、決して感情で動くことはない。だが、その論理と知識、そして何よりも彼女自身の「完璧さ」への揺るぎない信念が、彼のような傲慢な人間にとって、最も恐ろしい刃となることを、彼は今、身をもって知ったのだ。
彼は、独り、オフィスに座り込んだ。彼の周りから、全てが消え去った。彼が信じていた「何もしなくても全て上手くいく」という甘い幻想は、完全に打ち砕かれた。そして、その原因の一端は、彼が「ロボット」と見下した、感情のないエンジニアが、虎視眈々と、論理の牙を研ぎ澄ませていた結果だったのだ。




第十二幕:それぞれの道、そして報われる日

数年後。
天野 優は、相変わらず黙々と、淡々と、コツコツと、自分の道を歩んでいた。彼女の仕事の依頼は途切れることがない。むしろ、一度彼女に仕事を依頼した企業は、その完璧な仕事ぶりと、一切の感情を挟まないプロフェッショナリズムに、絶大な信頼を寄せるようになった。彼女は、以前と変わらず、自宅のベランダでミニトマトやバジルを育てている。赤く実ったミニトマトを収穫する優の顔には、微かな満足感が浮かんでいた。彼女の人生は、派手さはないが、確かで、堅実なものだった。
優の心は、あの頃よりも少しだけ穏やかになっていた。神崎悟との一件は、彼女の「感情を排除する」という信念を、より強固なものにした。同時に、**「必ず報われる日がくる」**という、彼女自身の信条が、確かなものとして証明された出来事でもあった。真摯に、そして冷静に物事に取り組む姿勢が、最終的には正しい結果を生むことを、彼女は知っている。
梓とは、定期的にランチに出かけるようになった。植物園の温室で、梓が新しい品種の植物について目を輝かせて話すのを聞いていると、優の心にも温かいものが満ちる。
「優ちゃん、この間テレビで神崎悟のこと見たよ」梓が、ふと話題を切り出した。
優は、紅茶のカップを置いた。あの男の名前を耳にするのは、本当に久しぶりのことだった。
「どうしてた?」優は、感情を込めずに尋ねた。
「なんかね、ちっちゃなコンサルティング会社を始めたみたい。派手さは全然なくて、本当に地道に、一からやり直してるって」梓は言った。「前とは全然違う人みたいだったな。なんだか、すごく、まともになってた」
優は何も言わなかった。ただ、紅茶のカップを両手で包み込み、その温かさを感じていた。神崎が、彼の蒔いた種の報いを受け、そして、そこから新しい芽を出そうとしている。それは、優が望んだ「報い」の形だった。彼が「黙々と淡々とコツコツと」進む道を、ようやく見つけたのかもしれない。
神崎悟は、かつての傲慢な輝きを失っていた。彼は、すべてを失った場所から、本当に一からの再出発を余儀なくされた。かつては笑っていた部下にも、頭を下げて協力を求めるようになった。彼の表情からは、以前のような尊大さは消え、代わりに、地道な努力を重ねる人間の、静かな疲労と、かすかな決意が滲んでいた。
彼は、もう「何もしなくても全て上手くいく」などとは思っていない。他人を見下すことも、自分の都合の良いように世の中が回ると信じることもなくなった。彼は、今、自分の足で立ち、自分の力で一歩ずつ進むことの、本当の意味を知り始めていた。それは、優が彼に与えた、唯一無二の**「報い」**だったのかもしれない。
優と神崎が、直接再会することは、二度とないかもしれない。だが、それぞれの場所で、彼らはそれぞれの道を、冷静にゆっくりと進んでいく。優は、これからも自らの信念に従い、静かに、しかし確かな歩みを続けるだろう。そして、神崎は、失われたものを償い、新たな人生を切り開くために、もがきながらも、必ず報われる日を信じて、歩み続ける。
二つの異なる星は、一度は激しくぶつかり合った。しかし、その衝突は、一方には揺るぎない真実を、もう一方には再生のきっかけを与えた。物語は、大団円を迎えることなく、それぞれの「報われる日」へと続く、静かな希望を残して幕を閉じる。

あとがき

この物語は、「静」と「動」という対照的な二人の主人公、天野優神崎悟を通して、「報われる」ことの意味を問い直す試みでした。
天野優は、感情を排し、ただひたすら黙々と淡々とコツコツと、自身の信じる完璧な仕事と論理を追求する人物として描かれています。彼女の静かなる強さは、一見すると地味で目立たないかもしれませんが、その根は深く、決して揺らぐことはありません。彼女にとっての「報い」は、華やかな成功ではなく、自身の信念を貫き、真実が明らかになることそのものでした。
対照的に、神崎悟は、派手な成功とカリスマ性で周囲を魅了しますが、その内面は自己中心的で、他者を見下す傲慢さに満ちています。彼は「何もしなくても全て上手くいく」と信じ、自分さえ良ければいいという考えで生きてきました。彼の「報い」は、一度はすべてを失うという形で訪れますが、そこから彼が何を学び、どう変わっていくのか、その再生の兆しを描くことで、物語に奥行きを与えられたらと思いました。
そして、優にとって唯一心を許せる友人である佐藤梓の存在は、物語に温かさをもたらす重要な要素です。彼女の優しさや、植物を慈しむ姿は、優の張り詰めた心に安らぎを与え、彼女の信念を支える光となりました。
この物語が、感情に流されず冷静にゆっくりと進んでいく者を甘く見ない方がいいというメッセージを伝え、そして、それぞれの人生において、必ず報われる日がくるという静かな希望を感じていただければ幸いです。


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