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第25討論精読第5回(第6節):「神のみが働く」のか、「被造物を通して働く」のか?ーモリナの自然観を読む

はじめに

第6節では、モリナは、第5節に引き続き、第二原因(被造物)働きを否定する見解に対し批判を展開します。
「神が直接すべてを行うのか」あるいは「被造物(第二原因)を通して間接的に働くのか」。
この問いは、自然法則の理解、神の全能性の評価、さらには自由意志の擁護に関わる重要な主題です。
モリナは、「神のみが働く」という主張を退け、被造物がそれぞれ働き、この世のいわゆる因果関係における原因となることを主張します。そして、そのような理解こそが、かえって神の力をより高く称えることになるのだと論じます。
本節は、モリナの主張が、神学・哲学・自然学に関わっていることを見ることになるでしょう。
本記事では、ラテン語原文とその逐語訳を通して、モリナの主張を読み解くとともに、当時の論争的文脈を踏まえてその意義を掘り下げます。
では、見ていきましょう。

第6節第1-2文

Deinde rationibus refutatur. Quoniam ea data hae propositiones essent falsae: Sol illuminat, ignis calefacit etc., quandoquidem causae secundae non essent quae haec praestarent, sed Deus ad illarum praesentiam; consequens autem tum contra communem loquendi usum, tum etiam contra communem sensum hominum est.

第6節第1-2文

「次いで、諸根拠によって、反駁される。なぜなら、もしその見解が与えられるならば、『太陽が照らす』『火が加熱する』といった命題は偽であることになってしまうからである。というのも、これらの結果をもたらすのは、もはや第二原因ではなく、それらの現前において神自身である、ということになるからである。だが、そのような帰結は、日常の言語使用にも、人間の共通感覚にも反している。」

試訳

考察:「神がすべての結果の唯一の原因である」という立場への反論
この部分は、神がすべての結果の直接的原因であるとする見解――すなわち自然因果を否定する立場――に対して、モリナが強く反論する場面です。

もしすべての出来事が神の直接作用によるならば、「火が加熱する」「太陽が照らす」といった日常的命題が成立しなくなる。しかしこれは日常言語や人間の共通感覚に反する。モリナは、神の摂理と第二原因が属する自然の因果関係(第二原因)とを両立させる立場をとることで、自由意志・自然法則・神の主権を調和(concordia:「調和」)しようとします。
それは、神はすべての原因の第一原因であるが、第二原因(自然界の因果)を真の原因として承認する、というものです。
モリナは、感覚を通した認識や常識的認識と矛盾しない体系を目指しています。彼は「日常言語や共通感覚に反する教義・主張は成り立ちえない」という見解をもっていたことがわかります。

では、引き続き次の文を見てみます。

第6節第3文

Praeterea cum auctore ARISTOTELE 2 De Coelo cap.3 unumquodque sit propter suam operationem, sequeretur omnia esse frustra, eo quod non res ipsae operarentur ea ad quae institutae sunt, sed Deus ad earum praesentiam.

第6節第3文

「さらに、アリストテレス(『天体論』第2巻第3章)によれば、各々のものはその働きのために存在している。だが、もしその見解(=自然因果を否定する立場)を採るならば、すべてのものが無意味に存在していることになってしまう。というのも、事物それ自体が本来の目的に従って働いているのではなく、神がそれらの現前において働いているということになるからである。」

試訳

考察:アリストテレス的自然観の援用
この文では、モリナが自然因果の実在性を強く擁護していることが見て取れます。彼は、アリストテレスの自然目的論――「各々の事物はその固有の働きのために存在する」――を引用し、自然因果を否定する神学的立場(決定論的神の直接介入説)を退けている。
もし火が自ら加熱せず、太陽が自ら照らさないとすれば、自然の営みはすべて「無目的(frustra)」となり、世界は意味を喪失する。モリナにとって、このような世界観は、いわゆる常識だけでなく、神の摂理にも反することになります。

・アリストテレス『天体論(De Caelo)』第2巻3章 — 概観と位置づけ
アリストテレスの『天体論(Περὶ οὐρανοῦ, De Caelo)』は宇宙論・天体論を扱う著作で、4巻から成ります。第1巻では宇宙全体と天界・地界の区別、永遠性などを論じ、続く2巻では天体の運動と性質、3・4巻では地上の元素変性・運動などを扱います。
(ウィキペディアよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%93%E8%AB%96_(%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9)#%E6%A7%8B%E6%88%90。)

『天体論』第2巻第3章で、アリストテレスは、なぜ天には複数の円運動(すなわち複数の天体や天球の運動)があるのかを問います。彼はその理由を以下のように説明しています:

  1. 神的な運動は永遠であるべきであり、それは円運動によって実現される(直線運動は終点があるため永遠ではない)。

  2. しかし、すべての天体が円運動しているわけではなく、中心に静止しているものも存在する(=地)。

  3. 地が存在すれば、その対立物である火も存在しなければならない。

  4. 火と地の間には空気と水という中間要素が必要。

  5. これら4元素の相互作用は、生成と消滅(変化)を必然的に伴う。

  6. そして、生成があるということは、一つの単純な円運動では説明できず、複数の円運動が必要である。
    結論として、複数の円運動(天体の運行)は、「生成と消滅」がこの宇宙に存在することの帰結だとされます。

ちなみに、1に出てくる「神」は古代ギリシア時代における「神」であり、モリナ(やキリスト教徒たち)における「神」とは別のものであると考えます。
そのうえで、上記のアリストテレスの主張の中で、モリナの主張に特に関わりがありそうなことは、5や6かもしれません。
生成・消滅があるということは、全てが単一の円運動では説明できません。たとえば:
• すべての天体が同じ動きをしていたら、地上の変化に違いが生じない。
• だが実際には季節も時間もあり、変化がある。
➡︎ よって、複数の円運動が必要になる。これは天体の多様性を説明するためでもある。

この上記アリストテレスの主張の5と6から、モリナは次のような理解をしたのではないでしょうか。

  1. 各天体/自然物は、それぞれの働き、あるいは本性に基づいて運動あるいは作用をなす。

  2. そのような自然的運動・働きが存在論的・哲学的にも正当化されうる。

  3. もしすべての働きが外的原因に起因するならば、自然物の自律性・目的性が損なわれる。

モリナが、こうしてアリストテレスの主張を援用して「各々のもの(自然物)はその働きゆえに存在する(存在目的を持つ)」という命題をとり、「もし自然物自身の働きを否定して、すべてを神の直接作用に帰すとすれば、すべての存在が frustra(無意味)になる」という帰結を導こうとします(“unumquodque sit propter suam operationem … sequeretur omnia esse frustra” )。

しかし、ここで考えておくべき批判的視点もあります:
• アリストテレスは自然哲学・宇宙論の文脈で「目的性(τέλος)」や「働き(έργον)」の理論を展開していますが、モリナはそれを神学的議論に取り込んでいます。そのため、アリストテレスの本意からのズレや拡張解釈が入りうる余地があります。
• モリナは「もし自然物自身の働きが認められなければ、すべては frustra に帰結する」という論を展開しますが、アリストテレス自身が必ずしもそのような過激な帰結を想定していたわけではありません。アリストテレスは、自然秩序・原因関係・最終原因の調和性を重視しますが、無意味性への帰結を直接論じているわけではないからです。
• アリストテレスの目的論(teleology)の枠組みでは、目的因としての「最終目的(τέλος)」と動的因果(働き因、運動因)が統合されています。モリナがこれを単純化・線形化して扱うと、「神の直接作用」と「自然因果」を対立的に扱ってしまう危険があります。

それでは、次の文を見てみます。

第6節第4文

Item cum Deus aeque possit rem aliquam frigidam reddere ad praesentiam ignis et calefacere ad praesentiam aquae ac e contrario, aeque ignis posset esse causa frigefactionis et aqua calefactionis ac e contrario.

第6節第4文

「さらに、神が、火が目の前にあるときに何かを冷たくし、水が目の前にあるときに加熱することが、同様に可能であるとすれば、逆に、火が冷却の原因となり、水が加熱の原因となることも、同様にありえるはずである。」

試訳

考察:仮に神がすべてを行うとしたら…
この文でモリナが論じているのは、第二原因の機能が否定されるなら、神の全能性によって逆のことも起こりうるはずだという論証です。
具体的には:
• 「火は熱を生む」という経験的・自然的な原因を否定し、神が直接作用しているだけだとするならば、
→同じ神の力によって「火が冷やす」「水が熱する」こともできることになる
→その結果、あらゆる自然の秩序が恣意的で不安定なものとなり、今生きているこの世界の整合性が失われる。
モリナは、ここで「神の全能性の濫用による帰結」を仮定的に示すことで、第二原因の能力や原因性を守ろうとしているのです。

では、次の文を見てみます。

第6節第5文

Immo cum Deus ad praesentiam lapidis creare possit angelum aut rem aliam, lapis esse posset causa creationis; quod licet GABRIEL admittat, plane id maxime absurdum est.

第6節第5文

「それどころか、神が石の現前において天使や他の事物を創造することが可能であるとすれば、石が創造の原因でありうることになる。しかしこのようなことは、たとえガブリエルがそれを認めたとしても、明らかに極めて不合理である。」

試訳

考察:石が天使を創造する?!
この一文は、自然の現前(ここでは石)と神の創造行為との関係性をめぐる問題を、ある不条理さを通じて示すものです。
モリナは、ここで「もし神が、火や水、さらには石などの被造物の現前において直接的に何かを起こしているとすれば」、それらがまるで原因のように振る舞っていることになる、という因果性の転倒を示しています。
そして、それは「神の創造行為」という超越的な行為を、物理的事物の因果秩序に従属させることになり、神学的にも哲学的にも不条理であると結論づけています。

そして、ここで名前が出てくる「ガブリエル(Gabriel)」は、聖書の天使ではなく、以前記事に上げた第3-4節で出てきたガブリエル・ビール(Gabriel Biel)(1420–1495)のことです。
第4節中に以下の箇所がありました。

「彼(ガブリエル・ビール)は、自身のこの見解――すなわち、それによって神の全能が最も強く称賛されると考えるところの見解、つまり「すべての諸結果は、神の力に従って、部分に基づくのではなく、全体あるいは固有に基づいて、神に由来する」とする見解…

第4節より

モリナは、ここでガブリエル・ビールのこうした立場を批判的に取り上げつつ、神と第二原因の調和を保とうとしています。

それでは、次の文を見てみます。

第6節第6文

Adde id quod experientia testatur negandum non esse absque urgente ratione; nulla autem non solum urgens, sed neque probabilis ratio est quae suadeat res creatas non vere operari eas actiones quas docet experientia ab eisdem causis provenire.

第6節第6文

「経験が証言している事柄は、切迫した理由なしに否定されるべきではない。そして、被造物が、経験によって同じ原因から生じると教えられている行為を、実際には行っていないと主張するような理由は、切迫したものはおろか、もっともらしい理由さえ存在しない。」

試訳

考察:「経験に反する神学」は成り立つか?因果性と被造物の実在性の擁護
この一文は、モリナが自然の因果関係と経験から得られる知識の信頼性を擁護している一文です。
モリナは、次のような思想に反対します。

「火が物を燃やす」のではなく、
「神が、火の現前において燃焼を起こしている」だけだ。

この見解は、被造物が真に作用していないことを意味します。
つまり、経験的世界が示す因果法則(火→燃焼、水→冷却 etc.)すべてを幻とし、経験に基づく自然科学、ひいては倫理や自由意志の理解をも否定することになる。
モリナは、こうした見解をもっていたと思います。

つまり、モリナは次のような主張をしています。

「神はすべての原因の第一原因であるが、被造物もまた、真にかつ実在的に作用する第二原因である」

このモリナの立場は、神の摂理・被造物の自由・自然的秩序を調和的に結びつけようとするものです。

次の文を見てみます。

第6節第7文

Adde etiam plus extollere potentiam Dei, quod possit tum per se ipsum tum per virtutes quas causis secundis conferat efficere operationes omnium rerum, quam si solus ipse posset eas efficere.

第6節第7文

「さらに、神の能力をより高く称賛するべき理由がある。それは、神が自らによってだけでなく、第二原因に授けた諸力を通じて、すべての事物の働きを生じさせることができるという点で、もし仮に神自身だけがそれらを成し遂げることができるのだとしても、(そのような場合よりも)いっそう神の能力が高く称賛されるべきだからである。」

試訳

考察:「神の全能」は「被造物の因果性」を否定するか?
モリナは、この文で逆説的な主張をしています。
「神の全能を本当に称賛するためには、神だけが全てを行うという見解では足りない」
なぜなら
「神が第二原因(被造物)に作用する能力を授けたうえで、その第二原因を通して秩序立った世界を運営している」方が、「神だけで全てを直接に行っている」という場合よりも、より偉大でより秩序だった全能の行使である
と言えるから。
モリナは、そのように考えているのではないでしょうか。

モリナは、
神の偉大さや全能とは「独占すること」ではなく「分与すること」である。
と考えていたのではないでしょうか。
こうした立場に立つモリナの視点は、その後の近代自然科学、自由意志論、への橋渡しをするような重要な視座だと思います。

第6節は、以上になります。

おわりに 神の全能とは力を分かち与えること

本節を通してモリナは、被造物が自らの働きによって何らかの結果を生み出すような因果関係の中にあるという立場を一貫して擁護していました。

もしすべての作用が神によって直接になされるならば、経験的に確認される自然因果やひいては人間の自由な行為も無意味なものとなってしまいます。
このように、神の主権と被造物の自律性を同時に肯定することこそが、真に神の偉大さを称える道であると、モリナは力強く示していました。

第6節については以上です。

なお、この記事で提示した本文の構文や語法などについては、後日公開予定の文法・注解版(有料記事)をご覧いただければと思います。

今回はこんなところです。では、また次回に。

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