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影が増える床

影が増える床

夜中のコンビニで、コーヒーをこぼした。

紙カップの縁がふやけていて、指にくっついた。床に落ちた黒い染みは、最初は小さくて、すぐ拭けば消えると思った。店内は冷房が効きすぎていて、首の後ろだけが冷たい。レジの奥で、揚げ物の油がじっと音を立てている。

店員は来なかった。

呼び鈴を押すのは面倒で、トイレットペーパーを取って、膝をついて拭いた。紙はすぐに破れて、コーヒーは広がった。靴底に触れた感触がいやで、足を少し浮かせたまま、変な姿勢になった。

そのとき、床に影が増えた。

振り向いたら、男が立っていた。背が高い。濡れた傘を持っているのに、床は濡れていない。レインコートの裾だけが、やけに長い。顔は見えたはずなのに、あとで思い出そうとすると、輪郭が抜け落ちる。

「落としたんですか」

声は普通だった。やさしいとか、冷たいとか、そういう判断ができない。私は立ち上がって、靴の裏を見せた。ガムがついていた。いつからか分からない、灰色のガム。

「踏みました」

男はうなずいた。うなずいたはずだ。動いたのは首じゃなくて、影のほうだった気もする。


レジの奥から店員が出てきて、モップを持ってきた。油の匂いが一瞬、強くなる。男はもういなかった。傘立てにも、入口にも、いない。自動ドアは閉じたまま。

「大丈夫ですか」と店員が言った。

私は大丈夫だと言った。ガムのことは言わなかった。靴底を見せるのが急に恥ずかしくなった。モップが床を滑って、コーヒーの染みは消えた。消えたけど、色の違いだけが残った。

会計を済ませて、外に出た。雨は止んでいた。アスファルトが冷えて、街灯の光がぼやけている。傘立てに、一本だけ傘が残っていた。持ち主はいない。持ち主がいない、という判断も、たぶん早計だ。

私は傘を見なかったことにした。


翌朝、靴底のガムは取れていた。代わりに、紙が貼りついていた。レシートだ。夜中のコンビニの。時刻は印字されていない。店名もない。コーヒーの金額だけが、くっきり残っている。

捨てようとして、やめた。ポケットに入れた。理由はない。たぶん、間違っている。でも今はこれしかない。

その日から、床に影が増える場所を避けて歩く。自動ドアの前で立ち止まらない。傘立てを見ない。

靴は、まだ同じのを履いている。
床を見る癖だけが、抜けない。


埼玉県:Hさん

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