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世界を支配するのに、世界一のAIはいらない

「ブリュッセル効果」というEUの奇妙な力


世界を動かすには、何が必要なのだろう。

世界最大の軍事力か。世界最大のIT企業か。

それとも、誰よりも優れた人工知能を作る技術力だろうか。

20世紀までの常識で考えれば、世界の覇権を握るとは、そうした「力」を持つことだった。

アメリカには巨大な軍事力があり、Google、Apple、Microsoft、Amazon、Metaといった巨大テクノロジー企業が育った。

中国もまた巨大な人口と市場、製造業、国家主導の技術投資を背景に、独自の経済圏と技術圏を築こうとしている。

では、EUは何を持っているのか。

Googleもない。Microsoftもない。OpenAIもない。

生成AIの最前線を見ても、アメリカや中国ほど目立つ企業は多くない。

それでもEUは、世界中の企業の製品設計やサービス設計を変更させるほどの影響力を持っている。

その武器は、少し変わっている。

法律である。

そして、このEU特有の力を説明する言葉が「ブリュッセル効果(Brussels Effect)」だ。

EUで売りたければ、EUのルールに従ってください


ブリュッセル効果という概念を提唱したのは、コロンビア大学ロースクールのAnu Bradfordである。

仕組みそのものは意外なほど単純だ。

EUは巨大で、しかも購買力の高い市場を持っている。

その市場で商品やサービスを販売したければ、企業はEUの法律や規制に従わなければならない。当然といえば当然なのだが、問題はここからである。

たとえば、ある世界企業がアメリカ、日本、EUで同じサービスを提供しているとする。

EUだけ非常に厳しい規制を導入した場合、企業には二つの選択肢がある。

EU専用の商品やシステムを別に作るか、それとも世界中の商品やシステムをEU基準に合わせてしまうかだ。

前者にはかなりのコストがかかる。設計、製造、ソフトウェア、品質保証、契約、プライバシーポリシー、社内教育まで、地域別に管理しなければならないからだ。

だったら、最初から一番厳しい規格に合わせてしまったほうが楽ではないか。

こうして、

EUが法律を作る。
企業がEU市場に残るため対応する。
その仕様を世界でも使う。
EUの規制が事実上の世界標準になる。

という現象が起こる。

EUが世界各国に「われわれの法律を採用しろ」と命令しているわけではない。それどころか、他国と国際条約を結ぶ必要すらない場合がある。

世界企業のほうからEU規格に合わせてくるのである。

これがブリュッセル効果だ。

GDPRを思い出してみれば分かりやすい


その代表例がGDPR、EU一般データ保護規則である。

2018年に本格適用されたGDPRは、個人データの取り扱いについて非常に厳しいルールを企業に要求した。当初は「ヨーロッパの面倒な法律」という印象を持った人も少なくなかったはずだ。

ところが、インターネットには国境がない。

アメリカ企業のサービスをフランス人が使うこともあるし、日本企業のウェブサイトをドイツ人が訪れることもある。EU域外の企業であっても、条件次第ではGDPRへの対応が必要になる。

その結果、世界中の企業がプライバシーポリシーを書き換え、Cookieの扱いを変更し、個人データの管理方法を見直すことになった。

EUは世界政府ではない。

それなのに、EUが作った法律によって、東京やシリコンバレーのエンジニアまで仕事を増やされた。

考えてみれば、これはかなり不思議な現象である。

「事実上の世界標準」から「各国の法律」へ


ブリュッセル効果には、さらにもう一段階ある。

企業が自主的にEU基準へ合わせる現象は、一般にde facto Brussels Effectと呼ばれる。事実上のブリュッセル効果である。

しかし、EU型の制度が一定の成果を上げると、今度は他国政府がそれを参考にし始める。

「EUがここまで個人情報を保護しているなら、われわれも似た制度を作ったほうがいいのではないか」

そう考える国が出てくる。

するとEUの規制思想が、今度は各国の国内法へ取り込まれていく。これがde jure Brussels Effectである。

つまり、

EU規制

世界企業が対応

事実上の国際標準になる

他国政府が参考にする

各国の法律にも影響する

という多段ロケットになっている。

EUが世界を征服しているわけではない。

世界のほうが、少しずつEU化していくのである。

そしてAIにも「ブリュッセル効果」がやってきた


ここで話は生成AIにつながる。

2022年11月、OpenAIがChatGPTを一般公開したことで、人工知能は研究室や一部企業の内部に置かれた特殊な技術から、一気に社会インフラ候補へ変わった。

数億人規模の人間がAIを使い始めれば、当然ながら問題も起こる。

著作権はどうするのか。個人情報はどう扱うのか。採用や融資の判断をAIに任せてもよいのか。顔認識はどこまで許されるのか。AIが生成した文章や画像をどう扱うのか。巨大AIモデルを開発する企業には、どこまで説明責任を負わせるべきなのか。

アメリカ企業が猛烈な速度でAIを開発している横で、EUは別の仕事を始めた。

AIをどう規制するかを考え始めたのである。

その象徴がEU AI Actだ。

AIを一律に禁止するのではなく、用途やリスクに応じて規制を設計し、一定のAIには透明性や安全性などに関する義務を課す。この法律は段階的に適用されており、生成AIを含む汎用AIモデルも制度の対象となっている。

ここで、GDPRとよく似た現象が起こる可能性がある。

世界規模でAIサービスを提供する企業が、

「EU向けAI」

「アメリカ向けAI」

「日本向けAI」

「その他地域向けAI」

を完全に別々に開発するのは簡単ではない。

モデルそのものを分けられたとしても、学習データ管理、安全性評価、ログ管理、透明性確保、ユーザーへの説明、リスク管理、社内ガバナンスまで地域ごとに別体系を維持すれば、運用コストは急激に膨らむ。

だったら最初から、EUでも通用する設計思想を世界向け製品に組み込んでしまえばいい。

もしそうなれば、AIについてもブリュッセル効果が成立する。

ただし、ここには猛烈な皮肉がある


EUはAIの世界標準を作れるかもしれない。

しかし、

世界標準を作れることと、世界一のAIを作れることは同じではない。

ここが、この話の最も面白いところだ。

かなり乱暴に世界のAI競争を整理すると、奇妙な役割分担が見えてくる。

アメリカはAIを作る。

中国は巨大な産業・社会システムのなかへAIを展開する。

EUはAIのルールを作る。

もちろん現実はこれほど単純ではないし、欧州にも優秀なAI企業や研究機関は存在する。しかし、世界的な基盤モデルやクラウド、半導体、巨大デジタルプラットフォームをめぐる競争では、アメリカ企業の存在感が極めて大きい。

そこでEUは、技術そのものとは別の場所で影響力を発揮する。

「そのAIをEUで使いたければ、この条件を守ってください」

そう言えばいい。

巨大市場を捨てたくない企業は対応する。

その対応が世界標準になれば、EU企業が世界一のAIを作っていなくても、世界中のAI開発者がEUの法律を読まなければならなくなる。

これはある意味、とてつもなく賢い戦略である。

だが、ルールメーカーは本当に勝者なのか


ところが近年、このモデルそのものに疑問が突きつけられている。

規制が厳しくなれば、安全性や消費者保護、基本的人権の保護は強くなる。しかし同時に、企業が負担するコンプライアンスコストも増える。

巨大企業なら対応できる。

法務部門を抱え、専門家を雇い、何十億円という単位で安全対策や制度対応へ投資できるからだ。

問題はスタートアップである。

社員十人のAI企業に、世界的大企業と同水準の法務・監査・安全管理体制を要求したらどうなるだろう。

技術を作る前に、規制対応で疲弊する。

すると皮肉なことが起こる。

巨大IT企業を規制するために作った法律が、巨大IT企業しか耐えられない参入障壁になってしまう可能性がある。

規制によってGoogleやMicrosoftやOpenAIを抑えるつもりだったのに、結果として彼らの競争優位を強化してしまう。

ブリュッセル効果の成功は、必ずしも欧州産業の成功を意味しないのである。

世界一厳しい交通法規を作った国に、世界一速い自動車産業が育つとは限らない


これはAIだけの問題ではない。

ルールを作る能力と、産業を作る能力は別物だからだ。

世界で最も優れた航空安全基準を作った国が、世界最大の航空機メーカーを持つとは限らない。世界で最も厳格な金融規制を作った国が、世界最大の金融市場を持つとも限らない。そして世界で最も精緻なAI規制を作った地域が、世界で最も強いAI産業を持つ保証もない。

ここに、21世紀のEUが抱える難題がある。

ルールメーカーであり続けることは、果たして「勝っている」と言えるのか。

ブリュッセル効果はEUの強さを説明する言葉として生まれた。

しかしAI時代には、逆にEUの弱さを測る言葉になる可能性すらある。

ChatGPTが起こしたことは、その正反対だった


そして、この話を考えていると、2022年11月30日のChatGPT公開がますます興味深く見えてくる。

ChatGPT以前にも、大規模言語モデルは存在した。TransformerもGPTもすでに存在していたし、巨大モデルの能力について研究者や一部企業は知っていた。

しかし、それを一般人が日常的に触る世界ではなかった。

OpenAIはChatGPTを一般公開した。

結果として、研究者だけでは到底実施できない規模の「人類とAIの社会実験」が始まった。

学生が使った。
教師が使った。
プログラマーが使った。
作家が使った。
会社員が使った。
経営者が使った。

そして、世界中の人々がAIの使い方を勝手に発明し始めた。

技術が社会へ出たことで、用途が生まれ、問題が発見され、競争相手が増え、投資が集中し、モデルが改善され、さらに利用者が増えるという巨大なフィードバックループが回り始めた。

これはブリュッセル効果とは、ほとんど逆方向の力である。

OpenAIが示したのは、

「まず世界に使わせる」

という方法だった。

EUが得意とするのは、

「世界で使われ始めたものにルールを与える」

という方法である。

技術を作る者と、技術を使う者と、技術のルールを作る者


AI時代の覇権争いは、単純な技術競争ではないのかもしれない。

技術を発明する者がいる。
巨大な市場へ展開する者がいる。
そして、その技術を社会がどのように使うべきなのかを決める者がいる。

20世紀なら、最も優れた工場を持つ国が強かった。

インターネット時代には、最も巨大なプラットフォームを持つ企業が強かった。

AI時代には、さらに別の権力が生まれつつある。

「何を作れるか」を決める技術力だけではなく、「何を作ってよいか」を決める制度設計力である。

ブリュッセル効果とは、その制度設計力が国境を越えて伝播する現象だ。

だが同時に、それは危うい賭けでもある。

ルールを作ることに成功している間に、技術そのものを作る能力が他地域へ集中してしまえば、EUは世界のAIに巨大な影響を与えながら、世界のAIをほとんど所有していないという奇妙な場所へ到達するかもしれない。

世界中のAI企業がEUの法律を読み、EUの規則に従い、EUの価値観を製品へ組み込む。

しかし、そのAIを作っている会社の本社はシリコンバレーにある。

そんな未来は十分あり得る。

そして、それこそがブリュッセル効果の最大の逆説なのだと思う。

世界を支配するのに、世界一のAIはいらない。

ただし、

世界一のルールを作ることが、世界一の産業を作ることと同じだとは限らない。

AI時代のヨーロッパがこれから証明するのは、ブリュッセル効果の強さではないのかもしれない。

その強さに、どこまで耐えられるのか。

むしろ、そちらなのだ。

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