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【雨季の宿】第十一章🛌女は、それからも部屋へ来た。

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第十一章🛌女は、それからも部屋へ来た。

一度きりの気まぐれではなかった。  朝。昼。夜。  

厳密に決まった時間ではない。

だが、熱に浮かされたまどろみの中でふと気づけば、一日に三度、薄い扉の向こうに確実にその気配があった。

ノックというよりは、指の関節で軽く木を叩くような控えめな音。  

そして、扉が開く前の、耳を澄ますようなわずかな間。  

それから、古い蝶番を鳴らして女が入ってくる。

運ばれてくるのは、いつも同じだった。  少しの塩気を含んだ粥。白湯。

そして、包みにくるまれた苦い粉薬。  最初は、ただそれだけだった。

言葉はほとんどない。

彼女は器を置き、わたしがそれを腹に流し込むのを静かに見届け、空になった器を持って出て行く。

生き延びるために必要なことだけが、極限まで削ぎ落とされた静けさの中でやりとりされる。

だが、熱が引き、日が経つにつれて、その無機質な空間に少しずつ変化が生まれた。

わたしが、錆びついた声帯を震わせて、言葉を探すようになったのだ。  

バンコクの夜で覚え、ジャングルの底で忘れかけていた、片言のタイ語。

文法などない。ただの単語の羅列だった。

「ナム(น้ำ)」 「アロイ(อร่อย)」 「コープクン(ขอบคุณ)」

熱でひび割れた唇から発せられる発音は、ひどく不正確で、濁っていたはずだ。  

だが、通じる。  女は、その拙い音の響きに静かに応じた。  短く返す。

わたしの耳にも聞き取れるように、ゆっくりと話す。

時には、わたしの発音の狂いを、低い声で何度か繰り返して直してみせた。

その不器用なやりとりが、薬の包みのように、一日、また一日と少しずつ積み重なっていく。  

会話と呼べるほど、意味のある情報が交換されているわけではない。

身の上話をするわけでも、明日のことを語るわけでもない。  

だが、部屋の空気はもはや絶対的な「無音」ではなくなった。  

互いの声が落ちる。

ただそれだけで、埃っぽく死の匂いが漂っていた部屋の空気が、かすかに体温を持ち始めた。

女が部屋に留まる時間が、少しずつ長くなっていった。  

最初の二日は、食事を置いてすぐに出ていった。  

三日目には、わたしが食べ終わるのをベッドの傍らで見届けるようになった。  

やがて彼女は、壁際の粗末な椅子に座るようになった。

壁に背中をもたれ、煙草を吸うでもなく、ただそこにいる。

わたしも、無理に言葉をひねり出そうとはしない。  

沈黙が、苦ではなくなっていた。  

言葉の代わりに共有されるその無音の時間が、熱で破壊された神経を繋ぎ直す、回復の一部として機能していた。

そして、身体も、確実に戻り始めていた。

最初は、ベッドの上で上半身を起こすだけで精一杯だった。

肺が軋み、目の前が真っ白になった。  

それが、自力で立ち上がれるようになる。  

壁に手をつきながら、部屋の中をゆっくりと歩く。  

数歩先の、窓のところまで。 そして、ベッドへ戻る。

たったそれだけの往復で激しく呼吸は荒れたが、もはや泥のように崩れ落ちることはない。

汗の質も変わった。  

体内の毒素を絞り出すような、ひどく冷たく粘つく脂汗から、ただの温かい汗へ。  

熱も、波を打って襲いかかってくることはなくなった。  

関節を内側から砕くような鋭い痛みが引き、骨の空洞にどろどろと溜まっていた鉛のような重さが、少しずつ体外へ排出されていくのが分かった。

食事が、胃の腑へ素直に入っていく。  

味が分かる。  味覚が戻ってきたのだ。

粥の底に沈むわずかな塩気や、米を噛み潰したときの微かな甘みが、舌の上で確かな情報として処理される。  

それだけで、身体の細胞が歓喜して応じる。  回復している。  

生き物としての機能が、はっきりと再起動しつつある。

一週間が経った。  

それが永遠のように長かったのか、幻のように短かったのか、まともな時計を持たないわたしには判断がつかなかった。  

だが、その頃には、肉体はほぼ元通りに動くようになっていた。  

自力で真っ直ぐに立てる。 歩ける。  

頭の芯にこびりついていた熱の霞も晴れ、思考は冷たいほどにはっきりしている。

窓枠に寄りかかり、ガラス越しに外を見る余裕すら生まれた。  

町の音が、水底から浮上したように、現実のものとして耳に戻ってくる。

荷車を引く人の声。泥を跳ね上げる車のタイヤの音。

遠くで唸る古いエンジン。  

すべてが、死の淵では異音に聞こえていたすべてが、ただの「日常の騒音」として普通に聞こえる。

だが、そのときだった。  

肉体が回復し、五感が外の世界と再接続されたその瞬間、これまで熱の底に封じ込められていた「別のもの」が、一気に押し寄せてきたのだ。

思考。  そして、逃げ場のない現実。

わたしは、何も持っていない。  金がない。  

身分を証明するパスポートもない。  

この町に、頼れる知り合いなど一人もいない。  

言葉も、たかが片言の単語をいくつか知っているだけだ。

ここから、どこへ行くのか。  どうやって、生きるのか。

回復した身体が、その残酷な問いを真正面から受け止める。  

幻のカブトムシを追うという狂気は、ジャングルの闇に置いてきた。

いま目の前にあるのは、ただ「一文無しの異邦人が辺境の町に放り出されている」という、身も蓋もない現実だけだ。

病の熱に焼かれているあいだは、考えなくてよかった。  

ただ痛みに耐え、粥を啜り、生き延びることだけを考えていればよかったのだ。

病床はある意味で、あらゆる責任と決断を免除された聖域だった。  

だが、いまは違う。  動ける。自分の足で立てる。  

だからこそ、己の意思で「次」を選ばなければならない。  

その事実が、回復したばかりの身体に、何百キロもの重圧となってのしかかる。

部屋の空気が、少し変わったように感じた。  同じ場所。

同じ染みのついた壁。同じ安っぽいベッド。  

だが、ここはもう「わたしを守ってくれる場所」ではない。  

ただの、一時的な滞在場所だ。  あのパスポート一枚で手に入れた猶予。

その期限が、見えないメーターの針となって、確実にゼロへ向かって迫ってきている。

扉がノックされる。  女が、いつものように入ってくる。  

トレーに乗った食事を、ベッドの脇の小さな机に置く。  

そして、立ち上がったわたしを見る。

その視線が、昨日までとは少しだけ変わっていることに気づいた。  

彼女は、理解しているのだ。  

わたしの瞳から熱が消え、足取りからふらつきが消えたことを。

肉体が治癒したことを。

それはつまり…

わたしがこの部屋に留まる理由が、もはやなくなりつつあるということでもある。

わたしは、何も言わない。  かけるべき言葉が見つからない。  

ただ、出された器を両手で包み込むように手に取る。  温かい。  

その粥の温もりが、逆説的に、窓の外で待っている世界の圧倒的な冷たさと厳しさを際立たせていた。

わたしは、もう一度、ここから外へ出なければならない。  

今度は、狂気や幻に魅せられてジャングルへ逃げ込むためではない。  

ただ、ひとりの人間として「生きる」ために。

その圧倒的な事実だけが、腹の底へ落ちた粥の熱とともに、静かに、そして重く、胸の奥底に沈んでいった。

第十二章へ続く

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