戦国時代の「海の都」 三好長慶の飯盛城と、幻の巨大湖「深野池」の秘密
戦国時代の首都といえば、京都を思い浮かべる方が多いでしょう。
しかし、織田信長が上洛する少し前、16世紀半ばの日本の政治・経済・軍事の中心は、現在の大阪府大東市・四條畷市にそびえる標高314mの山城「飯盛城(いいもりやまじょう)」にありました。
畿内の覇者・三好長慶(みよし ながよし)は、なぜ京都ではなく、この山城を居城に選んだのでしょうか?
その答えは、眼下に広がる「水の世界」にありました。
今回は、長慶全盛期の大阪湾と、今や地図から消えた巨大な湖沼「深野池(ふこのいけ)」が織りなす壮大な水上ネットワークの秘密に迫ります。
1. 飯盛城の足元に広がっていた巨大ラグーン「深野池」
現在の飯盛城周辺は市街地が広がっていますが、戦国時代、山の西麓には「深野池」と呼ばれる広大な水域が広がっていました。
南北約8km、東西約4kmにも及ぶ巨大な湖沼です。
しかし、この深野池は深く青い湖ではありませんでした。
大和川や淀川から流れ込む土砂が堆積し、水深はわずか3尺〜5尺(約0.9メートル〜1.5メートル)程度。
大人の腰から胸ほどの深さしかない、葦(あし)が群生する広大な「泥湿地(ラグーン)」だったのです。
この浅くて巨大な水域こそが、飯盛城を「首都」たらしめる最大の武器でした。
深野池は大和川や寝屋川の水系を通じて淀川、そして大阪湾へと直結しており、海と川を繋ぐ巨大な物流のハイウェイとして機能していたのです。
2. 「乗り換え」が生む活気と、宣教師が愛した水上都市
水深が1m前後しかない深野池には、大阪湾を航行するような底の深い大型船(関船や安宅船)は直接入ることができません。
そのため、阿波(徳島県)や淡路島、あるいは海外から運ばれてきた物資は、淀川の河口付近で川用の底が平らで浅い船(高瀬舟など)に積み替えられました。
葦の茂る水路を無数の小舟が縫うように行き交い、飯盛城の麓へと物資を運び込んでいたのです。
また、全体が浅い深野池には、水位が下がるといくつもの小島が姿を現しました。
その中で最大の島に築かれたのが、三好氏の重臣・三箇頼照の居城「三箇城(さんがじょう)」です。
四方を浅瀬と泥田に囲まれた、まさに難攻不落の水上要塞でした。
頼照がキリスト教の洗礼を受けたことで、この島には立派な天主堂が建てられます。
ルイス・フロイスら宣教師の記録には、復活祭になると近隣のキリシタンたちが小舟に乗って教会へ集まる様子が記されており、まるでヴェネツィアのような水上都市の風景が広がっていたことが窺えます。
3. 「環大阪湾経済圏」を支配するコントロールタワー
深野池から水路を下った先にある大阪湾沿岸も、三好政権下で空前の繁栄を誇っていました。
国際貿易港「堺」と「兵庫津」の掌握
長慶は、明や南蛮との交易拠点である堺の経済力を掌握。
最新鋭の兵器である鉄砲や火薬の原料(硝石)、高級な陶磁器などを大量に入手し、政権の基盤を盤石なものにしました。
最強の海の警察「安宅水軍」
大阪湾の制海権を握っていたのは、長慶の弟・安宅冬康率いる「安宅(淡路)水軍」です。
彼らが紀淡海峡から明石海峡までを睨むことで、敵の海上封鎖を許さず、四国からの迅速な軍隊・物資の輸送を可能にしていました。
石山本願寺との緊張関係
淀川の河口付近(現在の大阪城)には、独自の経済圏と武力を持つ宗教都市「石山本願寺」が鎮座していました。
長慶の視線は、常にこの巨大勢力の動向にも向けられていました。
おわりに 長慶が夢見た「海の都」
こうして俯瞰してみると、三好長慶の全盛期、大阪湾一帯は物流、富、情報、そしてキリスト教をはじめとする最新の国際文化が集積する、巨大な「環大阪湾経済圏」を形成していたことがわかります。
飯盛城は、単なる見晴らしの良い防御拠点ではありません。
阿波から淡路島、大阪湾、淀川、そして深野池へと至る壮大な水上ネットワーク全体を統括し、コントロールするための、極めて合理的な「司令塔」だったのです。
山に登りながら海を支配した三好長慶。
彼が飯盛城の頂から眺めていた景色を想像すると、戦国時代のスケールの大きさが改めて浮かび上がってきます。
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