見出し画像

ハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』第1章 自由を読む #07 参政権と自律の狭間で「ウソですやん」と叫ぶ

前回はこちら。


前回までは随分と理想論を展開しました。今回はそこから現実に引き戻されて,ヒヤッとする瞬間です。

理想(おさらい)

自律のマインド

私たちは,自分のことは自分で決めたい,そういう自律のマインドをもっています。だから自分に不自由を課す他者にNoを突きつけます(自由[その①](=他者からの強制に対する反発))。

しかしそれでは国家の支配を受けられません。無法者を排除したり,自分より強大な力から我が身を守ったりしてくれる国家の存在は必要です。でもイヤイヤばっかり言って,一切の制限も許容しないような状態では,国家の支配を受けることができません。

自己統治へ

そこでどうせ国家の支配を受けなければならないのだとしたら,他人による支配より,自分による支配を望みます。自分のことは自分で決めたいですから。

こうして自由[その①]は,国家の支配との相性が悪いので,そのカタチを変容させて,国家と相性の良い自由[その②]変化します。

アナキーの自由は民主制の自由に転化するのである。

ハンス・ケルゼン著『民主主義の本質と価値』(岩波文庫,2015年)p.18


自由[その②]=政治的自律・参政権

自分のことは自分で決める。

それを国家の中で実現するには,自分が支配の主体の座に着かなければなりません。ちょうどこの図で言う,上側ですね。上側の座に着いた者であれば,自分で自分を支配する状態を実現できます。

こうして上側の座,「支配の主体」の座に着くために,一定の資格が必要となるわけです。「支配の主体」って強制力をもつ国家権力を行使できるわけですから,誰でも「支配の主体」の座に着ける方が危ないですからね。

人はこの一定の資格のことを参政権と呼びます。憲法を学び始めた方でしたら,国家への自由というワードを目にしたことがあるのではないでしょうか。

参政権があれば,「支配の主体」の座に着くことができます。そうすると,自分で自分を支配する,自己統治を実現することができます。

現実「そんなのウソですやん」①

以上が理想です。理念です。

でも私たちが目にしている現実からすると,そんなのぜーんぜん実現していませんね(民主主義を学ぶときには,こうやって理想と現実を行ったり来たりして考えるとイイですよ!)。

じゃあ何がウソか。

少しずつひも解いて見ていきましょう。

まず,この図。

この図どおりに世の中が動けば,たしかに自己統治です。人は,自分が決めた決定に自ら従う状態を実現できます。よその人が決めたことに従わされるより,自分で決めたことに従う方が,納得もできますからね。たしかに理想的ですね。

でもこんな自己統治を実現できるのは,直接民主制に限られます

直接民主制

有権者全員が参加して話し合い,物事を決める。そして有権者全員がその決定に従う。

この状態だと,たしかに統治者と被統治者が一致します。市民全員の参加によって完全に自治が可能です。

こういうのを直接民主制といいます。

古代の直接民主制

直接民主制というと,古代ギリシャが有名ですね。討議によって意思決定を行う。まさに理想的。

でもちょっと注意しなければならないことがあります。

1つは,古代ギリシャであっても,全員が参加できていたわけではありません。市民権が認められていたのは成年男子のみであり,女性や子ども,奴隷には市民権が認められていませんでした。

また,民主制を支えるマインドも違います。現代の個人主義,個人的利益をベースとしたマインドではありません。古代ギリシャでは,人間のあり方に対する考え方が現代とは違います。人間は,食欲・睡眠欲・性欲といった本能で行動していては動物と変わりません。だから人間は,そういう私的領域から出て公的生活に参加することこそが人間として生きるために最も重要な行為であり,祖国に自ら献身する者こそが最も有徳であると考えられていました(「献身」というワードをどういうわけか,自己犠牲だとか無私の奉仕の意味に捉えたがる人がいるのは,全く意味がわかりません。チームプレイのスポーツをやったことがある方だとこんな誤解する人なんてほとんどいない印象なんですけどねェ)。

一応,現代では無理

そんなに直接民主制が優れているのなら,現代の国家でも当然,直接民主制を採用しているはずです。

でも違いますよね。有権者が選挙で自分たちの代理人を選出して,その代理人が議会を形成して,あるいは大統領を選出して,自分たちの代わりに統治をしてもらっていますね。これを間接民主制とか代議制民主主義とか言ったりします。

直接民主制を採用できない理由

なんで直接民主制を採用しないの?

一般的には次のように説明されます。

①何千人,何万人もの人々が一堂に会して議論できるような時間や空間がない。
②議論すべきことが限られていた古代とは異なり,現代では健康,経済,教育,道路・河川,農林水産業,環境,エネルギー問題,国際情勢など,国家が取り扱わなければならない問題は多岐に渡り,かつ高度に専門化されている。有権者がすべての問題について議論できるわけではない。

だから直接民主制を採用できない。次善の策として間接民主制を採用せざるを得ない。

こうして有権者は,自ら「支配の主体」の座に着けないので,代理人にお願いするわけです。

そこで代理人を選ぶために選挙を行います。

現代でも直接民主制を採用しているところはない?

実は日本でも,直接民主制を採用しようと思えばできなくもない。

地方自治法
第94条 町村は、条例で、第89条の規定にかかわらず、議会を置かず、選挙権を有する者の総会を設けることができる。

国政や都道府県,そして市くらいの人口規模だとさすがに直接民主制は現実的じゃありませんけど,町や村の規模感ならできなくもない。そして制度上,その方途が用意されています!

ルソーだと喜んで賞賛するかもしれませんが,ケルゼンは議会不要論に警鐘を鳴らしています。これも改めて取り扱いたい!

議会や首長ってホントに批判や中傷の的(まと)になって大変なお仕事だと思います。議会不要論をたまに目にします。議会が不要だと言って議会を廃止してしまったら…まともに議論もできなくて,有権者は拍手をもって賛成することしかできないと思います。

でも現代国家でも直接民主制のエッセンスが少々

だからといって現代国家は,直接民主制の要素を丸ごと放棄したわけではありません。

代理人を選出するための選挙以外にも,有権者が政治の意思決定過程に参加できる方法があります。国民投票・住民投票,国民発案などが用意されているところもありますからね。

日本でも国民投票や住民投票を必要とする場面は,制度上ちゃんと用意されていますよ。憲法を改正するためには国民投票を経なければなりませんし,特定の地方公共団体のみに適用される法律を制定するときには住民投票を経なければなりません。制度上はたしかに直接民主制に回帰するルートが用意されています。

ルソーによる批判

直接民主制は無理。じゃあ有権者が代表者を選んで代わりに統治してもらう間接民主制はイイといえるか。自分たちのことを自分で決めることができているといえますか? 人々は自由を謳歌できているといえますか?

ここでケルゼンは,ルソーの批判を紹介します。

……曰く,「英国民は自分たちを自由だと思っているが,それはひどい自己欺瞞である。彼らが自由なのは議員選挙中に過ぎない。議員が選ばれてしまえば,彼らは奴隷となり,無となる」。

ハンス・ケルゼン著『民主主義の本質と価値』(岩波文庫,2015年)p.19

・・・・・・。

言い過ぎやろ

…とは言えないんですよねェ。人々が胸中に抱く無力感,政治に対して抱く無力感をなんだかズバリ言い当てているような気がします。

手が届くのは,投票用紙に名前を書いて投票箱に入れるところまで。あとは政治が私たち有権者の手から離れるだけ,箱の中に落ちる投票用紙と同じように。

ケルゼンはさらに続けます。

国家の支配意志が国民の直接的議決によって決定される場合でも,個人が自由であるのは投票の瞬間のみであり,しかもその投票が敗北した少数意見でなく,多数意見である場合のみである。

ハンス・ケルゼン著『民主主義の本質と価値』(岩波文庫,2015年)p.19

そうなんです。自分の主張が多数意見と同じ時だったら,自律に近い状態です。支配に納得できる,自己支配に近いです。でも毎回自分の主張って多数意見と全く同じってことはあります?? 無理やん…。

全然自由じゃない。自由[その②]とか何とか言ってるけど,全然自律できないじゃないか。

…と読者が絶望しそうなくらい追い打ちをかけるケルゼンです。

でもケルゼンはここから,「それでも自由だ」と逆転劇を展開します。それはまた今度。

いいなと思ったら応援しよう!

京都中央ゼミナール 講師のアソビ場・ボヤキ場 よろしければ応援お願いします! いただいたチップをもとに,もっと満足していただけるような,充実した情報発信に向けて,記事作成や取材等に使わせていただきます