こら!もっと喧嘩をしなさい!
新年度の始まり。
令和7年度スタート!
大学院生の2年間。
やりたいことを列挙して書き出し、
最高にワクワクしています ♪
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教育、人間、人生など、様々な「知恵」や「情報」が詰まった図書館のような、皆さんがくつろぎ、人生の「気付き」を得たり、知的好奇心を満たしたりできる居場所を目指しています😌
どうぞ、ごゆるりとお過ごしください。
共育LIBRARYりょーやん、元教師です。
あなたは子ども時代、
たくさん喧嘩をしてきたでしょうか。
喧嘩をした場合、
叱られることが多いと思いますが、
かといって、
喧嘩が全てよくないこととは
言い切れないと思っています。
「雨降って地固まる」
という言葉のように、
喧嘩をすることで
より強い結びつきを得ることができる部分が
確かに存在する。
しかし、現代の子どもたちは、
「喧嘩ができなくなっている」
という話をよく聞きます。
なぜ、
喧嘩ができなくなっているのでしょうか。
そもそも本当に、
喧嘩は必要なのでしょうか。
今回はそんな視点から
考察していく記事にします。
楽しんでいただけると幸いです。
教師は喧嘩師であれ

筆者が教員になり、
新卒の駆け出しの頃。
子どもになめられ、
学級が荒れに向かっていたことがあります。
藁にもすがる思いで、
数多の教育書を読んで、
授業や学級経営の勉強をしていたとき。
ある言葉に出会って、
衝撃に遭いました。
「教育は格闘技である」
という言葉です。
教師はガキ大将でなくてはならず、
喧嘩師である必要がある。
昭和時代に発行されたその本では、
そう語られていました。
筆者は
この言葉は一部真理をついている
と考えています。
優しく寄り添えば、
子どもは心を開いてくれるというのは、
ある種、美辞麗句です。
子どもは集団になると、
大人よりも露骨に序列を決めます。
複数教師がいるならば、
最も力のある教師の言葉に耳を傾ける。
なぜなら、子どもたちは、
この教師に心を開いてもよいか、
自分を守ってくれるかという
「強さ」があるかも同時に見ているから。
最もシンプルなパターンは、
小学校の学級崩壊したクラスでも、
先生がクラスのボスを
ドッジボールで完膚なきまで負かせば、
そのボスは教師の言うことを聞くようになるというもの。
すると、
教師をなめていたクラス全体の視線が
一気にコロッと逆転する。
女子や弱い立場の子どもも、
「この先生なら頼ってよさそうだ」
と、安心して心の内を話してくれるようになる。
「強さと優しさ」
この両方がなくてはいけない。
クラスを安定して統治できる教師は、
皆大なり小なり喧嘩がうまい。
もちろん、
力という意味ではなく、
しゃべりや論理、
人を守る立場である覚悟の違いの喧嘩が
ほとんどです。
「喧嘩をしたことがない人は教師にはなれない」
筆者が尊敬する教師の言葉です。
では、教師でない場合はどうでしょうか。
喧嘩は社会に出た時に
役に立つのでしょうか。
社会人に喧嘩は必要か?

教育現場以外の社会での活躍に
喧嘩の経験は必要なのか。
筆者は、
当然ながら大いに必要であると考えています。
もちろん、
肉体を使った物理的な喧嘩ではなく、
論理を使った喧嘩です。
そもそも、
集団で物事をよくしていくためには、
喧嘩をすることが必須です。
会議で人と衝突することを恐れる集団が、
建設的な話し合いをすることは
おそらくできないでしょう。
ヤンキー時代は、
殴り合いの喧嘩をすることで
お互いの本音を吐き出し合い
本物の友情が芽生えたりした風土を感じます。
殴り合いではなくても、
本音と本音のぶつかり合いなしにして
真の意味で絆を育むことは難しいでしょう。
職場以外でも、
地域の祭りの神輿なんかは
まさに喧嘩です。
日頃まとっている鎧をはぎ取り、
1つの目的目標に向かって
本音と本音、魂と魂をぶつけ合う。
そうやって、
人と人とのつながりを強め、
集団の結束力を高めてきた。
また、
喧嘩を知っていれば、
厄介な上司が職場にいるときでも
駆け引きを行うことができます。
その上司が
明らかな不正、差別を行っていたときも
「論理」を武器に打ち砕くこともできる。
事前に、集団を味方にする
根回しも並行しながらです。
そういった意味では、
喧嘩は社会で生きていくための
必須のスキルであると言えるでしょう。
現代は喧嘩が絶滅種に?

最近の子どもたちは、
喧嘩の仕方を知らなくなったと耳にして久しい。
競争を嫌い、
調和を求めることに重点を置く価値観。
皆がなんとなくふんわりとした雰囲気で
平和的にいられることを求める気質は、
確かに強くなっています。
ただ、
この喧嘩をしなくなったというのは、
子どもだけの現象なのでしょうか。
自分の立場が危うくなること関係なしに、
思いっきり叱ってくれる上司。
本音と本音をぶつけ合って、
熱い論争を繰り広げている会議。
全力を出し合って仕事をし、
時には衝突、競争をしながらも
磨き上げていく風土。
こういった場面の減少は、
むしろ大人の世界の方が
広がっているのかもしれません。
何かあれば
ハラスメントと言われ、
少しでもミスがあれば、
集団で叩くという空気になっていることが、
この流れをつくっている要因の1つでしょう。
家庭教育でも、昔より
親と子どもは友達のような関係性に
近づいているはずです。
『国家の品格』という書籍で語られている
「ならぬものはならぬ」
の文化や家庭教育は、
今や失われているとも言える気がします。
著者である藤原正彦さんは、
自分の父親に
「弱い者を救う時には力を用いても良い」
とはっきり教えられたと言います。
しかし、以下のような条件付きです。
・大きい者が小さい者をぶってはいけない
・大勢で一人をやっつけてはいけない
・男が女をぶん殴ってはいけない
・武器を手にしてはいけない
・相手が泣いたり謝ったりしたら、
すぐにやめなくてはいけない
藤原さんがその理由を問うと、
色々な御託を並べることなく、
「卑怯だから」
で終わり。
そして、
それを破った場合は烈火の如く怒り、
子どもの前に立ちはだかる。
こういった意味では、
家庭教育というものも
ある種、喧嘩や駆け引きの世界
でもあると言える。
家庭で「喧嘩」を教わった子どもは、
社会でも「喧嘩」を使ってうまく立ち回り、
社会をよりよいものにしていったのかもしれません。
そうは言っても時代は変わる

筆者個人的には、
「卑怯なことはしない」
という美的感性による教育は賛成ですが、
そうは言っても、
今の時代は本音ばかり言っていては
それこそ生きていけないのかもしれません。
そして、
時代と共に「本音」の定義も
変わってきつつあります。
かつてのドラマでは、
ボロボロの身なりをしている人物が主人公でも、
内面はあったかく、
下町の気質をもつキャラクターが
人気を博していた。
そういった時代で育った人は、
見てくれと本音は違うという、
建前と本音をはっきりと分けている
価値観をもつといった傾向があると思います。
ところが令和時代の人は、
表で言っていることと「本音」が
そこまで解離していません。
だからこそ、
表面を取り繕って、
裏でコソコソと色々なことをやっている
現在の政治家や大企業のトップたちを
気持ち悪いと感じ、
炎上が度々起こっています。
50代後半や60代以上の
トップを張る人たちは、
その価値観のチェンジに
適応できていないが故にボロが出やすい気がする。
新しい価値観は、
子どもたちに如実に表れます。
皆が平和的でいられるような、
ふんわりとした空気を読んだ態度を
取ることが多くなっている子どもたち。
ただ、
それは本音を抑えつけて取り繕っているよりも、
そのふんわりとした態度自体が
既に本音になりつつあるような感じがあります。
本などの文字情報ばかりの媒体を使い、
徹底的に没入し
深い思考を開拓していくというよりも、
SNSで流れるような
表面的な情報こそが、
スタンダードになりつつあることもそれを表している。
「深さ」が少なくなり、
浅くとも平和的であることを好む価値観。
AIの台頭により、
上澄みが分かればいいという傾向は加速し、
「深さ」の部分はAIに任せ、
その探究の時間を他に回そうとしていくでしょう。
ドーパミン受容体密度が高い、
人口の2割ほどの人は
放っておいても探究の深みを目指すと思いますが。
そんな新しい時代には、
時代に適応した新しい「喧嘩」の在り方を
探究していく必要があるのかもしれません。
まとめ

なんだかんだ書きましたが、
そうは言っても小学校中学年ぐらいまでは
子どもなので喧嘩はします。
そのような時も、
大人は子どもたちを信じ
解決策を自分たちで模索し、
試させることが大事です。
その積み重ねで、
社会に出て自分の力で解決していく力を
付けていくことができる。
もちろん、
発達凸凹の特性は配慮して
介入する場面は適宜判断しながら、です。
大人が何でもかんでも囲ってしまっては、
子どもは弱くなるばかり。
時代を読み、風を感じ、
時代に即した生きていく力を
子どもたちに付けてあげたいですね。
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