任天堂を辞めて、作り方も分からない「窓」を作りはじめた話
「1年で結果が出なかったら、解散しよう。」
そう約束して、ぼくは任天堂を辞めました。当時、わが家には2歳と0歳の子どもがいました。収入はゼロになる。それでも、10年間持ち続けた「あるアイデア」をどうしても形にしたかったんです。
それは、壁にかけるだけで世界の風景が広がる「魔法の窓」を作ることでした。
子供の頃から追い続けた夢を諦められて、ホッとした
ぼくの価値観の原点を辿ると、2人の祖父に行き着きます。
「姜 京日(かんきょうひ)」という名前からわかる通り、ルーツは日本ではありません。祖父たちがいまから100年以上前に韓国から日本に渡ってきました。祖父たちは2人とも東京で会社を創業し、経営者として生きた人たちでした。どちらも成功していたので、裕福な家庭で育ちました。
品川にあった母方の祖父の家に行くと、必ずおもちゃ屋さんに連れて行ってくれたことをよく覚えています。「これが欲しい」と言うと「もっと大きいのを選びなさい」と5体が合体する超合金ロボみたいなのをよく買ってもらいました。
2人の祖父に共通していた部分があって、2人とも寡黙で、仕事の話をしないタイプでした。母から聞いた言葉ですが、「男は金を稼がなきゃダメだ」と言っていたようで、今も頭の片隅に残っています。晩年思うに、移民として一族を養っていくための気概だったんだと思います。
このスタイルがかっこいいと思い憧れも持っていましたが、ぼく自身は父に似てめっちゃ喋るタイプになっちゃいました。
その祖父たちやプラモデルやラジコン好きの叔父たちの影響で、小さいころからロボットに興味があり、かつなんとなくいつか社長になりたいと思っていたようです。小さい頃のロボット好きは、それほど珍しいことではないと思います。でも高校生で「大学受験どうする?」と思った時に、ぼくはロボット研究者の道を選び、さらに大学院でアメリカまで行くわけです。
ぼくがいたロボティクスのラボには優秀な学生が何人もいました。

衝撃的だったのは、世界中のロボット研究者が使う3Dシミュレーションのソフトウェアを作った学生でした。必死に追いつこうとしているぼくとは、明らかに違ったんです。天才とはこういう人のことかと。「この世界で、ぼくは戦えない」、そう思いました。
そうして、小学生から追い続けたロボット研究者になるという夢を諦めました。博士課程に行きたかったけど、行けませんでした。20年近く信じてきた夢だったので、ショックで泣きました。
でも同時に、心が少し晴れたんです。親にも親戚にも知り合いにもずっと「将来はロボット研究者になる」と言い続け、自分自身でレールを敷いてきました。そう言うと周りも喜んでくれるし、「ロボット研究者」という響きがかっこよくて好きだったんです。だからそう言い続けてきただけかもしれません。
そのレールを降りられてホッとしたんです。
ずっと消えなかった1つのアイデア
その頃、ぼくが住んでいたアメリカのアパートの窓にはブラインドがついていて、ブラインドを開けると、見える景色は、隣のアパートでした。

角度によっては少しだけ青空が見えたりもしましたが、普通に過ごしていて見えるのは建物の壁や通路、そこを行き交う居住者だけ。壁をみても全然面白くないし、行き交う人と目が合うのが嫌でずっとブラインドを閉めていました。外に出ればカリフォルニアの青空があるのに、部屋の中にいると、世界が閉じている感じがしました。
研究、英語、異文化など、ただでさえストレスが多い中で、「景色が悪い」ことが、想像以上にストレスでした。「せめて景色だけでもよければ」そう思って、テレビにハワイの映像を流したり、プロジェクターで風景を投影したり、VRを試したりもしました。
でも、どれもしっくりこなかったんです。
ロボット研究者の夢を諦めてしばらくショックを受けた後、昔からぼんやり持っていた「社長になりたい」という夢が急に湧き出てきました。そこで、とにかく起業アイデアを考えようと当時持っていたアイデア帳に100個くらい書き出したんです。その中のひとつに「風景が見えないストレス問題の解決」というのがあって、「バーチャルハワイ」とか「バーチャル風景」とかメモしていました。
この時点では「窓を作ろう」とは思っていませんでした。むしろ、バーチャル空間というか、「ここじゃない場所にいる気分」を作れたらいいな、くらいの考えで、アイデア100個のうちの1個だったんです。
でも不思議なことに、その1つのアイデアだけはずっと消えませんでした。
日本に帰国してからは、就職せずに2年間くらい実家で暮らし。その間、蔵書管理Webサービスを作ったり、アロマオイルの輸入販売などで起業しました。この時にデジタル窓で起業しなかったのは、やっぱりハードウェアを作るにはめちゃくちゃお金が必要だし、そもそもどう実現すればいいかわかっていなかったからです。資金を作るための起業でもありました。うまくいきませんでしたが。
その頃結婚もして、さすがに収入ゼロはやばいと思い、NHN Japanという会社に就職。在籍中に東北大震災がおきました。当時大崎のビルの23階で働いていて、目の前のソニービルが揺れているのをみて「本当に死ぬかも」と思いました。周りに泣いている人もいたし、ぼくもめちゃくちゃ恐怖を感じました。
妻の実家が大阪だったこともあったり、仕事に迷いも出てきていて、思い切って生まれ育った東京を出ることを決めました。この時になぜか最初に「任天堂」が思い浮かびました。採用ページを見てみたらたまたまフロントエンドエンジニアを募集していたんです。他はどこも見ずに任天堂だけ受けました。
選考のために何度か東京から京都に通い、初回面接はライブコーディングでした。その時の面接官が、後に共同創業者になる中野さんで、これが初めての出会いです。
任天堂を辞めるつもりはなかった
任天堂は世界的なゲームの会社で、すごくいい会社です。優秀な人がたくさんいて、仕事は楽しいし、やりがいもあります。任天堂の製品に自分が携わっている、それだけでめちゃくちゃ嬉しかったです。
正直、辞める理由はありませんでした。
それでもぼくが任天堂を去ったのは、アメリカ留学時代に経験した「景色が悪い部屋のストレスを、どうにかできないか」を10年間ずっとモヤモヤし続けていたから。
昔考えたあの100個の起業アイデアから、この「窓」というアイデアだけが、ずっと頭に残り続けました。
2014年あたり、任天堂に入社して1年が経ったころ、世の中に業務用4Kカメラが出回るようになり、Raspberry Piのような小型コンピューターが登場し、液晶ディスプレイが薄くなってきました。
この瞬間、初めて思ったんです。「今ならあのデジタル窓を作れる」と。
今やらなかったら、将来どこかで誰かが似た商品を作った時に「あれはわしのアイデアだったんじゃ」と言い続ける老害になってしまう、それだけは絶対にイヤでした。
だからこそ、任天堂を1年という短さで辞める決断をしました。会社や、部署やチームのメンバーには本当に申し訳なかったです。
ただ、妻からは反対されました。その当時子どもは2歳と0歳で、収入はゼロになります。任天堂に入ったばかりで1年も経っていない。そりゃ当然反対しますよね。
それでも何ヶ月か話して、最終的に納得し応援してもらえました。結果的にデザイナーである妻の垂井も一緒に創業することになり、夫婦でフルコミットです。
「ぼくも辞めます。フルコミットしたいです。」
「技術的にも、知識的にも、ぼくたちだけで実現することは難しいだろう。」そう思い、任天堂で同じチームでリーダーだった中野さんに声をかけました。スーパーエンジニアとして超優秀で、Yahoo!やミクシィという当時のスタートアップも経験している。東京からの転職組ということも親近感があり、彼しかいないと思いました。
中野さんとカラオケボックスで待ち合わせをして、試作品を見せました。
市販のディスプレイを分解して、手探りで基板を半田付けして、近所で撮影した風景映像を入れ、木枠を組んだ見るからに手作りの試作品。
「カラオケボックスのように窓がない場所でも、自然の風景が見える製品を作りたい。SF映画のように情報を表示することもできて、家の中のインターフェースとして当たり前に利用される世界を作りたい。そのためには中野さんの力が必要で、平日の夜や週末にちょっとだけ手伝ってほしい。」
そう伝えて一旦話を持ち帰ってもらい、後日メールが届きました。
「<前略>難しいです。」
そう書いてあった気がしました。しかし、それはぼくの読み違いでした。後日また中野さんから連絡が来て、
「ぼくも任天堂を辞めます。フルコミットしたいです」と。
あとで聞いた話ですが、中野さんに刺さったポイントがあったそうです。中野さんは当時、「家の中でもそれぞれがスマホの画面を見ている世界は正解なのか?」という違和感を持っていたらしいんです。テレビを見る人が減り始めて、情報端末がスマホ一択になっていくのが、ディストピアに見えたと。その違和感に「家の中の未来のインターフェース」という話が刺さったようです。
そこから、本格的に動き出しました。お互い小さな子供を抱えていたので、はたいた貯金が尽きる前に「1年で結果が出なかったら、解散しよう」という期限付きで。
「それ欲しいの、あなただけでしょ?」
2014年8月に創業後、中野さんが加わり、3人でのアトモフの幕開けです。社名のAtmophは「雰囲気」や「大気圏」という意味の「atmosphere」に由来しています。アトモフ、ってちょっとふわっとしてますが、「ロボット三原則」を作ったSF小説家「アシモフ」にも似てることから、いいねって。
そしていきなり、最大の問題にぶつかりました。どうやって作ればいいか、誰も、何も、わかりません。
ぼくらはソフトウェア開発とデザインはできます。でも、ハードウェアを製品として世の中に出す方法が全くわかりません。「どうやって量産すればいいのか」「どこの工場に頼めばいいのか」「何台から作れるのか」「誰に頼めばいいのか」全部、わからないんです。
試作品を作ることと製品として世に出すことは、まったく別物でした。
兎にも角にもハードウェアを作るには製造や採用のために大きな資金が必要です。試作品を持って、ベンチャーキャピタルに行きましたが、すべて門前払い。「それ欲しいの、あなただけでしょ?」と言われ、反論できませんでした。実績もないので、銀行融資も当然無理。
ちょうどこの頃じわじわ広がっていたのが、クラウドファンディングでした。
「これしかない。」
最高の風景を撮るためにニュージーランドに飛んだ
1年の期限も間近に迫っていて、クラウドファンディングが最後の手段。一切妥協はできない。
試作品が近所のなんでもない風景だと弱いし、世界に向けて「窓」と言うには説得力がない。それに風景が微妙なせいでコンセプトそのものの評価が下がるなんて絶対にイヤだ。
これは単に風景が見れるディスプレイではない。本物の窓のように感じる、本物の窓に見える風景映像じゃないとだめなんです。4K動画なのはもちろん、定点カメラで長い時間動かない風景映像が必要です。
ところが、そんな映像は世界中どこを探してもありませんでした。きれいな景色の映像はたくさんあるけれど、どれもカメラが水平にパンしたりズームしたり動いているんです。
「まず、自分たちで風景を撮影しよう。」そう決めました。
「せっかく撮るなら最高の風景を撮りたい。」その時、頭に浮かんだのがニュージーランドでした。ロード・オブ・ザ・リングの世界みたいな、あのイメージです。
12月、ぼくは4Kカメラを持って一人でニュージーランドに1週間撮影に行きました。日本は冬、向こうは夏。撮り方もまだ定まっていない中で、模索しながら撮りました。

カメラ、三脚、マイク、他の機材、自分の荷物を合わせて15キロ以上の荷物をかついでいましたが、そんなことよりも、のしかかるプレッシャーの方がはるかに重く感じました。実際、この撮影にはアトモフの運命がかかっていました。「旅費もけっこうかかるのに、いい風景が撮れなかったらどうしよう。」そんな不安に押しつぶされそうでした。
その不安は見事的中。撮影2日目、周りに何もない、人もいない、いるのは羊だけ、そんな農業地帯のど真ん中でレンタカーのタイヤがバーストして大破。まだ撮影もできていません。日本で待つ2人を思い出して「なんのためにここまで来たんだろう」と、情けなくて悲しくて、涙がでました。
そんなトラブルがありながらも、7日間で20ヶ所以上の風景を撮影することができました。これが、アトモフとして最初の風景です。
「自分以外にも、デジタル窓を欲しい人がいる、それが証明できた。」
帰国後、デモ機と最高の風景を持ってクラウドファンディングにのぞみ、Kickstarterで339名、その後Makuakeで83名、合計422名が支援してくれました。「自分以外にも、デジタル窓を欲しい人がいる。」それを証明できた瞬間でした。
そして、クラウドファンディングの成果を引っ提げ、アトモフ初となるベンチャーキャピタルからの出資1億円、そして融資3,000万円を受けることができました。
資金は集まりました。しかし、ここからが本当の試練だったのです。工場でも門前払い。話を聞いてもらえる工場を見つけたと思ったら「500台は少なすぎる」と言われお断り。電子製品の世界で500台は、規模が小さすぎて、ほぼ「試作扱い」です。しかもサイズの大きい製品なので、難易度も上がる。
紹介の紹介、そのまた紹介で、ようやく部品ごとに、大阪や中国など5つの工場を見つけ、複数の工場を束ねる形にたどり着きました。
でもそれは、トラブルが連鎖する構造でもあったんです。
プラスチック成形が、まっすぐにならない。ネジ穴がズレて、組めない。一つの工場が遅れると、全部が止まる。2,000万円の支払いをした後に2週間工場と連絡が取れなくなる。
「詰んだ。もう作れない。」
そう思った回数は、正直数え切れません。
なかなか伝わりづらいですが、大試練の一つは、「画面をつける」ことができなかったことです。ソフトウェアエンジニアにとって、電源ボタンを押せば画面がつくというのは当たり前というか。でも画面がつかないんです。
配線は問題ないはずなのに、液晶への信号を正しく制御できていないのか、この当たり前の「画面をつける」ことがなかなかできませんでした。協力者の力を借り、1ヶ月後なんとか画面がついたときは感動しました。当たり前のことは、当たり前ではないんだと学びました。
それでも、初代は世界に届いた
初めて量産した500台、「終わった」と思うトラブルは何度もあったけど、なんとか世界で初めての「風景が見えるデジタル窓」を世界のユーザーに届けることができました。

ありそうで前例がない、実物も見ていない、京都の小さな会社が作った製品を、それでも信じて買ってくれた人たち。何度かWebサイトのリニューアルをしましたが、今でも初期のクラウドファンディングの支援者422名全員の名前をサイトに残し続けています。
彼らの支援がなければ、アトモフは存在しなかったから、彼らへの感謝は本当に大きいんです。
ぼくがアトモフをやる理由
ぼくは誰かと競うことへの関心はないんですよね。だから既にある市場に参入して頂点に立つ、ようなことは興味がないし、おそらくできない。でも成功したい欲というか、「自分がいたからこそ歴史が変わった」そういう形で社会に貢献したいんです。
競争心がないと言っておきながら、自分の起業のルーツとも言える祖父のことをたまに思い出します。祖父が会社を成功させていたのを小さい頃から見ていたので、「それは最低限超えたい」とよく思っていたものです。でも一番実現したいのは、「自分がいたからこそ歴史が変わった」と思えることです。
ぼくが会社をやるなら、Atmophがあるからこそ生まれた新しい「日常」を、この世界に残したい。
初代のユーザーが喜んでくれたように、「アトモフがこの分野を作ったね」と言われるほどAtmoph Windowが当たり前になる日を夢見ています。MacやiPhoneを発明したAppleのように。

