好きに名前をつけた日
「この文章、ここがちょっとおかしいので、読みやすいように直しておいたから、もう一度提出してね」
国語の先生に作文を見せたとき、そう言われた。なぜだか今でも、その言葉が心に残っている。
え、どこがおかしいの?それって、好みの問題じゃない?言い返せるほどの勇気はなかった。けれど、一生懸命書いたわたしの文章を否定されたように感じてしまった。心の中に、そっとモヤモヤの渦が広がっていくのをグッと堪え、言葉を飲み込んだ。

──たぶん、あの時だ。わたしが「書くことが好きだ」と、はじめて自覚したのは。

心の中に、確かに「好き」が芽生えていたことに気づいた瞬間だったと思う。だけどわたしは、その「好き」を見て見ぬふりした。
書くことは“さらけ出すこと”だと感じたから。
さらけ出すことは恥ずかしい。わたしという人間を丸裸にして、そこに置くような感覚があった。幼いわたしには、書くことが「好き」な気持ちよりも、「恥ずかしい」のほうが、ずっと大きかった。
だから、その「好き」に気づかないふりをした。ほんとうは、心がうずいたのに。そのまま、通り過ぎようとした。
見せなくてもいいもん。そう思っていたはずなのに、そっと、心の中で想い続けている「書く」への想いは、これまでも何度もあふれ出してきてしまっていた。
誰にも見せないノートに、心をそのまま映し出してみたり。名前のつけられない気持ちたちを、どうにか言葉にしてみたくて、何度もペンを走らせた。それでもやっぱり、最後にはそっと、閉じてしまっていた。
だって、恥ずかしいから。
「書く」に対する想いは、好きな気持ちと同じくらい、恥ずかしさがついてまわった。「書く」と「恥ずかしい」は、まるで生まれたときから手をつないでいた双子みたいに、ずっと離れなかった。
でもいま、その二人をそっと離してみたくなった。「好き」に素直になりたい。「恥ずかしい」もその感情ごと、できることなら「自信」へと変えていきたい。
長い間こっそり好きだった「書く」への気持ちが、もう抑えきれなくなって。ようやく、「好きだよ」と声に出せるようになった。誰かにじゃなくて、まずは、自分に向かって。
「書くと結婚」──その言葉が浮かんだとき、わたしは、もう誰にも譲りたくないと思った。それは、わたしにしか紡げない言葉だったから。たぶんあの瞬間に、わたしは「好き」に名前をつけたのだ。
譲りたくない気持ちが、好きのはじまりだった。
これからも、わたしにしか見つけられない、ちいさな、こんぺいとうのような奇跡たちをすくい集めて、わたしなりの言葉で綴っていく。

