知識が増えれば、決められると思っていた
何かを決められないとき、
わたしはよく調べます。
もう少し知れば、
ちゃんと判断できる気がするからです。
本を読むこと。
検索すること。
人の意見を聞くこと。
最近なら、AIにも聞きます。
情報が足りないから決められない。
だったら、もっと知ればいい。
ずっと、そんなふうに考えていました。
でも最近、逆のことも起きます。
調べれば調べるほど、決められなくなる…。
賛成意見を読んで「なるほど」と思った直後に、
反対意見を読んで「こっちもわかる」となる。
では、あとどれくらい知れば、
わたしは決められるんだろう?
そんなことを考えながら、
守屋淳さんの『明治実業家の知識・見識・胆識』を読みました。
正解がなかった時代の、実業家たち
本書に登場するのは、渋沢栄一、岩崎弥太郎、大倉喜八郎、安田善次郎、森村市左衛門など、明治を生きた実業家たちです。
明治は、いま私たちが当たり前に使っている株式会社や銀行、証券市場などの仕組みが、まだ十分に整っていなかった時代でした。
守屋さんが描くのは、
単なる「成功した偉人」の物語ではありません。
彼らが何に困り、どう考え、
どうやって自分なりの答えを出したのか。
本書には、こんな表現があります。
「答えの出し方がわからない時代に、その人なりの解き方を見つけた」
この言葉が、
わたしにはとても引っかかりました。
「正しい人」になればいいわけでもない
面白いのは、登場する実業家たちが、
まったく同じタイプではないことです。
伊庭貞剛は、高潔な人格者として知られた人。
一方、大倉喜八郎は「エライ人だが品性劣悪」「生存競争界の獅子」とまで評されています。
それでも、どちらも実業の世界で大きな仕事を残した。
守屋さんは、実業という分野には、飛び抜けた個性でも「活かしどころ」を見つければ飛翔できる懐の深さがある、と書いています。
ここが、わたしにはおもしろかった。
たくさん学べば、正しい考え方がわかる。
そして、正しく判断できる。
どこかで、そんな順番を想像していました。
でも、この人たちを見ていると、
どうもそんなにきれいではない。
同じ時代を生きても、出した答えは違う。
では、彼らは何を頼りに決めたのでしょう?
「ケツを拭くのが上司の仕事だ」
読んでいて、昔の上司の言葉を思い出しました。
「判断材料が全部揃っている状態で決断するのは、誰でもできる。
揃っていない状態で判断して、ケツを拭くのが上司の仕事だ」
当時のわたしは、上司が判断するための材料を集める立場でした。
だから、この言葉も、
「そうだよね。時間もお金も無限にあるわけじゃない。全部の材料が揃うまで待っていたら、仕事は進まないよね」
くらいの意味で聞いていました。
でも、この本を読んでいると、
あれはもっと深いところで、
「決断とは何か」という話だったのではないかと思えてきます。
判断材料が揃っていない。
自分の判断が間違っている可能性もある。
それでも、どこかで決める。
そして外れたときに、
「あの情報がなかったから」
「あの人がそう言ったから」
ではなく、自分で引き受ける。
判断と決断は、少し違うのかもしれません。
判断は、集めた材料から答えを導くこと。
でも決断は、材料だけでは答えが出ないところで、自分が答えを引き受けること。
もちろん、判断するためには知識が必要です。
でも、
すべての知識が揃うまで待っていたら、決断できない。
知識は必要なのに、知識だけでは決められない。
わからないまま、決める
最初、わたしが持っていた問いは、
「知識がこれだけ簡単に手に入る時代に、わたしたちに足りないのは本当に知識なのだろうか?」
でした。
AIに聞けば、知らなかったことを教えてもらえる。
メリットもデメリットも並べてもらえる。
自分では思いつかなかった選択肢まで出してくれる。
しかも、「もっと調べて」と言えば、まだまだ調べられる。
でも、ここには少し不思議なことがあります。
知識がいくらでも手に入るということは、「まだ情報が足りない」と言い続けることもできる。
情報を集めることが、よりよく決めるためではなく、
「まだ決めなくていい理由」になることもある。
だとしたら、決断とは、全部わかってからするものではないのかもしれません。
わからないものが残っているのに、決める。
そして、間違っていたらケツを拭く。笑
明治の実業家たちだって、未来から正解を教えてもらっていたわけではありません。
正しかったかどうかを知っているのは、後から歴史を読んでいるわたしたちです。
読み始めたとき、わたしは、
「何を知れば、正しく決められるのだろう」
と考えていました。
でも今は、問いが少し変わっています。
わたしは、どこまでわからないままでも、自分で引き受けて決められるのだろう。
