壱行日記「さん付け」

 人の言葉遣いなどというものはその人のものなのだからその人の他者たる俺が云々して改めしむるべきものでは勿論ないのだがそれと同じくらい一切の強制力を行使しないという留保のもとで俺が俺の他者たるどこかの誰かの言葉遣いについて思うところを云々することは何人によっても妨げられるべきではないのであるから今日も俺は世間の人々の言葉遣いに難癖をつけるという悪趣味極まりない言語活動に汲々と勤しむわけで蓋し有名人それも自身と直接的な親族知人関係にあらぬ純然たる有名人に対してさん付けで呼ぶ者どもの滑稽さときたらいけしゃあしゃあという語を冠するに相応しいと声高らかに宣言するのは彼らがさん付けを単なる尊敬の念の表れとのみ呼び捨てを軽侮の念の表れとのみ解釈しているらしいという合理性の権化のような挙動が垣間見られるからであり恐らく彼らは歴史上の偉人らにも例外なくエジソンさん平清盛さん東久邇宮稔彦王さんなどと呼んでいるに違いないことを思うと表情筋も自ずから緩み弛んでしまい自らの位置とあまりにかけ離れたものに対しては一種の対象化めいた心理が働く結果呼び捨てはかえって巨大な尊敬の念の表現となるという事実を彼らに教えるべきかを迷ってしまうというものだがあるいは彼らはこの世の万物について自分と近しい関係性を築く可能性を感じているからこそ有名人にさん付けしているのかもしれないしともすればあらゆる有名人と既に個人的な親交を温めている可能性すら絶無とは言えないのだとすると俺の彼らに対する違和感というか嫌悪感というかは甚だ的外れなものであるのかもしれず翻って我が身を鑑みれば授業で扱う評論随筆の筆者が著名な知識人であった場合ほとんどの場合はフルネームで呼び捨てにするのだがとりわけ愛着のある鷲田清一のことは親しみを込めてわっしーと呼び物書きとしては明確に軽んじている茂木健一郎などはモギケンと片仮名で呼んで揶揄の念を隠そうともしないし愛憎半ばする人生の課題たる小林秀雄や西田幾多郎などが出ようものなら小林西田と苗字のみを呼び捨てにして彼我の間に絶壁を隔てようとするものだしおよそ高校受験大学受験の素材文としては考えがたいことだが俺が謦咳に接したことのある教授たちが書き手ならば一切の逡巡なく彼らの名に先生とつけて呼ぶであろうという甚だ寒々しい事実を見出さずにはおれないわけで果たして本当に滑稽なのは誰なのかしらんと今日もまた天から降ってきた唾を顔面に塗りたくってアンチエイジングに励むのである。

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