承認欲求のための「自我」自賛ハック
圧倒的な知力と圧倒的な自己肯定感を兼ね備えた吾輩だからこそ可能な自我自賛ハックを諸君に進呈してくれよう。
承認欲求とは現代社会に蔓延する不治の病であり、今日も数多の現代人がこの欲求の虜となって、自己を飾り立てる写真や動画を電子の海に投げ込んだり、自己の「内心」を吐露すると称してキーボードを叩いたり空気を振動させたりしたあげく、誰も本当の自分をわかってくれないなどと妄言を吐いている。やれ嘆かわしいことだ。
人間の目や鼻や耳や掌は、不幸にも自分の外の世界にしか向けられていないから、我々が常に他者からの評価を希求しかつ怯懦するのはやむを得ない。人間の欲求や感情というものは原理的に人間にとって制御不能であるからその名を冠するのであって、理屈や信念によってそれらを克服できると吹聴するのは、まだ論理というものに真剣になったことのない無邪気な幼児か、言葉というものを自分のものだと錯覚していることにまだ気づいていない哀れな詐欺師かのどちらかである。吾輩は周知の通りそのどちらでもないから、承認欲求から解放されよと無理難題を諸君に押し付けるつもりは寸毫もない。
しかしながら、他者からの高評価を求め、低評価を退けるという形での承認欲求のあり方は、非常に分の悪いギャンブルとならざるを得ない。右に書いたように、自分のことすら完全に制御できないのがこの地球の支配者たる人間なのだ。いわんや他者をや、である。どうして他者の評価を自分の思い通りにすることなどできようか。なんと、他者とは自分ではないのだ。
一般の他者はもちろんのこと、特定の他者ですら自分の期待通りに自分を評価してくれるとは限らない。だからいくら自分が理想的な自己を装って、オシャレな店で飲食したり、高級時計を見せつけたり、気の利いた冗談を飛ばしてみたり、難解な思想を衒ったりしても、それが求める自己承認に繋がるかどうかは全くの賭けでしかないのだ。無論、ギャンブルにはギャンブルの楽しみもあろうが、それがギャンブルだということを忘れては身の破滅のリスクが増すばかりである。自身が天に選ばれた豪運の持ち主だと信じることができるなら、ギャンブルで生計を立てるのも悪くなかろうが、あいにく吾輩の視界にアカギやワシズは飛び込んでこない。
とすれば我々は目を向ける方向を変えるべきなのだ。自己を他者に承認してもらうのではなく、自己が他者を承認する事実に目を向けて、それを自己の承認に結びつけるのである。
優れた写真というものが存在する。写真は現実の風景を写したものに過ぎないから、その価値の根源は現実の風景そのものにあるはずだ。ならば、優れた写真を見て我々はその被写体となった現実の風景のみを称賛するのかというと、決してそうではない。ある写真が優れたものだと認めるとき、我々はその風景に着目した写真家の感性、その瞬間が訪れるまで待ち続けた写真家の根気、その角度から風景を撮ろうとした写真家の発想、そういったものを優れたものとして称賛する。
優れた詩歌についても、優れた音楽についても、優れた美術についても、優れた建築についても、みな同様である。我々がそれらを讃えるとき、それらを作り出した人間を称賛する。非現実を創り出すような芸術の場合でも、その芸術家のインスピレーションの資源は彼の現実の生活の中にあるはずだが、我々は彼の生活そのものを称賛するのではない。そのような生活から当該芸術を創造した彼の営為を、感性を、人間性を、評価するのである。
一方で、真の意味で普遍的で不変的な価値というものも存在しない。程度の差こそあれ、現代社会で価値の相対性を認めない者はほとんどいまい。どれだけ歴史的に高い評価が与えられている芸術作品であっても、それが自分にとって意義のあるものになるとは限らないし、自分が人生を変えられるほど感激した文学が、万人の目と心を喜ばせるものになるわけではない。善悪美醜は多様性と同義である。
したがって、吾輩がなんらかの対象を善い・美しいと感じることは、その対象と吾輩自身との相互的な関わりにおいて生じる現象にほかならない。対象が本質的に人を感動させるものを内在していて、それが機械的に作用して吾輩が感動させられている、というような単純なものではない。対象のもつ無数の要素の中から、吾輩が独自の知識や感性や経験(すなわち人生)に照らして善い・美しいと感じるものを見出すことによって生じるのであり、そのプロセスは優れた写真家が無限の自然から風景を切り出すことと、原理的に異なるところはない。
諸君が音楽を聞いて涙を流し、漫画を読んで笑い転げ、スポーツを観戦して圧倒され、ケーキを食べて恍惚とするのは、決してその音楽・漫画・スポーツ・ケーキのみが素晴らしいのではない。その音楽・漫画・スポーツ・ケーキの諸性質のいくつかを感受できる諸君自身の素晴らしい人生も、その現象を構成しているのだ。
優れたものに触れたとき、その優れたものと自らの存在とが対比され、自信を喪失したり卑屈な気分になったりする者がいる。全くの逆だ。何かを優れたものだと認識できることは、とりもなおさず、その分だけ自分が優れた存在であるということの証左なのだ。あなたはあなた自信に価値を見出さないかもしれないが、少なくとも、あなたが価値があると認める他者を見出すだけの価値があなたには備わっている。
したがって、自己の承認欲求は他者からの評価によって満たされる必要はない。自己からの評価によってすら満たされる必要もない。ベクトルを変えるべきなのだ。他者を承認することができれば、その事実自体が「承認すべき他者を見出すことのできる自己の価値」を承認してくれる。承認することができる、と仰々しいことを言ったが、そんなに気張る必要はない。現代社会には数え切れないくらいの素晴らしいもの・楽しいもの・美しいもの・気持ちいいもの・おいしいものが存在している。何も気負わずに生きていたって、勝手にそうしたものには出会うことができる。そして、あなたがそう感じたものを、そう感じない人だって大勢いるのだ。
だから、吾輩の自己肯定感は決して失われることはない。
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