自動詞的に生きる

 「出づ」という古語があって、これは下二段で「出でて」「出づる」というように活用するから、まあどう見ても現代語の「出でる」「出る」に相当する自動詞である。対応する他動詞は「出だす」であって、これは「出す」に相当する。

 そんなことは当たり前で、さすがに特に指導しなくてもほとんどすべての中高生が直観的に理解してくれる。ところが、一つ厄介なのが、「思い出づ」という複合語になったとき。安直に「思い出る」と訳してしまうと収まりが悪く「思い出す」と訳すとしっくりくるということだ。似たような複合語は他にもあって、「見出づ」も「見いだす」、「うち出づ」も「口に出す」と訳した方がわかりやすい。

 自動詞と他動詞というシニフィエを獲得していないと見える言語不感症の連中は、そもそも「出る」と「出す」という言葉の違いすら認識していないから字面どおりに粗雑に訳して結果的に問題ないのだが、コロナ禍ですら歴史上の事実として捉えざるを得ない令和キッズといえども、言葉を道具として認識するくらいのサピエンスは持ち合わせているため、「出づ」は基本的には「出る」なのだが、主に複合語の場合は「出る」という意味になるから注意しよう、などと指導することになる。

 しかしながら、「基本的には自動詞で、複合語になると他動詞になる」などという摩訶不思議な語法が自然発生的に生じたとは考えづらい。当時の人々の手触りとしては、いかなる場合もやはり「出づ」は自動詞であったのではないかとも思われる。

 「思ひ出づ」とは「記憶の中に保存されている思いが(勝手に)出てくる」ことであり、「見いづ」とは「見ていたら何か特別なことが(勝手に)出てくる」ことであり、「うちいづ」とは「思っていたことがついうっかりと(勝手に)口から出てくる」ことだったのであろう。

 現代語の「思い出す」も本当は自動詞と他動詞に分けられるべきではないか。暗記した単語の意味をテストのために記憶から引っ張り出してくるような作業は、まさしく他動詞の《思い出す》であるが、ふとした拍子にあの子との大切な記憶を【思い出す】ときのそれは、単語の意味を《思い出す》のそれとは明らかに異なる、自動詞的なもののはずだ。

 「見いだす」ということについても、我々はそれを主体的な意志の現れとして他動詞的にとらえてしまう。確かに間違い探しのような遊戯にふけるときの《見いだす》はそうした意志のなせる業であるが、所在なさを埋めるために興じていた読書において霊妙な一節を【見いだす】ことは、閃光のような出会いの経験にほかならない。

 1000年前の日本人が、「出づ」と「出だす」の自他の区別を厳密に意識していたかは俺の預かり知るところではないし、またそんなことはどうでもよい。事実として、俺たちが日常的に行う「思い出す」や「見いだす」には、非意図的自動詞的なものと意図的他動詞的なものが存在するのだ。そして俺たちは、個々の動詞としては「出る」と「出す・出だす」を厳密に使い分けているのに、複合語になった途端、十把一絡げにして、すべて「〜出す」と他動詞化してしまう。

 大きな物語を見失って久しい現代の文明人は自由意志の存在を信仰しなければ満足に呼吸が出来ないから、意図的他動詞が幅を利かせるのも道理ではあるが、現実にはほとんどの場合自由意志など満足に機能していないのだから、日常のあちこちに転がっている非意図的自動詞に目を向けても、否、目が向いてもいいのではなかろうか。

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