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天井桟敷の人々:フガンスのガガンスさん(8千文字)


天井桟敷の人々:フガンスのガガンスさん

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【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、映画『天井桟敷の人々』について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。

第1章 1980年代の映画体験

1980年頃、筆者はバンドのメンバーと一緒に一本の映画を鑑賞しました。それが本稿で取り上げる『天井桟敷の人々』でした。当時、文化シーンではデビッド・リンチ監督の映画『エレファント・マン』が公開され、同時にデビッド・ボウイが同作の舞台版で主役を演じていることが大きな話題となっていました。モノクロ映画、カルト映画、そして社会の周縁に生きる人々を描くフリークス映画。さまざまなエッセンスとスパイスが入り混じった当時の前衛的な作風のルーツとして、この『天井桟敷の人々』という押さえておくべき名作があるという触れ込みだったのです。
たしかにそのインパクトは強烈でした。まず、劇場の最上階に天井桟敷という観覧場所があることを覚えました。そして、主人公の一人であるバチストの存在です。彼の白塗りの姿は、デビッド・ボウイの予表であると確かに感じました。いや正確には、デビッド・ボウイのモチーフとなったカリスマというべきでしょうか。当然ながら、当時の私にはフランス語の意味などわかるはずもなく、ただフワフワした言語であるという印象を抱いただけで、何がどのように他の外国語と異なるかなど、知る由もありませんでした。

第2章 作品の基本情報と製作背景

本作品は、フランス映画界における最高傑作にして映画史に燦然と輝く記念碑的な大作です。原題はフランス語で Les Enfants du Paradis となります。直訳すると楽園の子供たちとなりますが、ここでの楽園とは劇場の最上階にある安価な立ち見席、つまり天井桟敷を指しています。そこに陣取る熱狂的で純粋な庶民の観客たちへの賛歌が込められています。
公開は1945年ですが、実際の製作は1943年から1944年にかけて行われました。監督は映像の魔術師と呼ばれたマルセル・カルネ、脚本はフランスを代表する天才詩人ジャック・プレヴェールが担当しています。このカルネとプレヴェールのコンビはフランス映画における詩的リアリズムの最高峰とされ、劇中のセリフの一つ一つが美しく、フランスの観客の中には、その洗練されたセリフを暗唱できる人も少なくないと言い伝えられているほどです。

第3章 主要な登場人物とキャスト

舞台は1828年のパリです。犯罪大通りと呼ばれる芝居小屋が立ち並ぶ活気あふれる街で、一人のミステリアスな美女を巡り、全くタイプの違う四人の男が人生を狂わせていく群像劇が展開されます。
主人公はアルレッティが演じるガランスです。美しく過去に影がありますが、誰にも縛られない自由な魂を持つ女性です。恋なんて簡単よと微笑むその姿は、いかなる権力や愛情にもなびかない絶対的なプライドを感じさせます。日本の京都人の精神性にも通じる孤高の存在です。
彼女を愛する一人目の男は、ジャン・ルイ・バローが演じるバチストです。内気で繊細なパントマイム役者であり、ガランスを神聖視しすぎて手が出せない純愛と沈黙の洗礼者です。
二人目の男は、ピエール・ブラッスールが演じるルメートルです。自信過剰で女好きの天才舞台俳優であり、溢れる情熱と言葉でガランスを口説き落とそうとします。
三人目の男は、マルセル・エランが演じるラスネールです。インテリの代書屋にして冷酷な暗殺者です。愛を信じず社会を憎んでいますが、ガランスにだけは強い執着を見せます。
四人目の男は、ルイ・サルーが演じるモントレー伯爵です。大金持ちの貴族であり、金と地位でガランスを独占しようと企みます。
さらに、バチストを一途に愛し続ける健気な女優ナタリーが絡み、複雑で切ない恋愛模様を描き出します。

第4章 第一部犯罪大通りの幕開け

映画は3時間を超える大作であり、二部構成となっています。第一部の幕開けは、活気に満ちた犯罪大通りの情景から始まります。
ガランスが懐中時計を盗んだという濡れ衣を着せられたところを、バチストが見事なパントマイムで真犯人であるラスネールの犯行を再現し、彼女を救い出します。ここからバチストの狂おしい初恋が始まります。
しかし、内気なバチストは彼女と同じ部屋で夜を過ごす機会を得ても、彼女を神聖な存在として扱うあまり、指一本触れずに逃げ出してしまいます。その隙に肉食系のルメートルが彼女と関係を持ってしまいます。その後、ガランスは過去の知人であるラスネールの犯罪への関与を疑われ、警察に追われる身となります。窮地に陥った彼女は、自分に執着するモントレー伯爵の庇護を受けることを選び、愛人としてパリを去っていきます。バチストの純粋な恋は無惨に散ることになります。

第5章 第二部白い男と愛の再燃

数年の歳月が流れます。バチストはパントマイムの圧倒的なスターへと成長し、ナタリーと結婚して子供ももうけています。ルメートルも言葉を操る大物俳優として名声を確立しています。
そこに、伯爵の愛人として豪華なドレスを着飾ったガランスがパリに帰還します。ガランスはずっとバチストの芝居を座席の陰からこっそりと見守り続けていました。彼女が本当に愛していたのは、自分を女神のように尊び、見返りを求めずに愛してくれたバチストだけだったのです。
劇場での偶然の再会をきっかけに、抑え込んでいた二人の愛の炎が再び激しく燃え上がります。しかし、二人が結ばれることを周囲の人間たちや社会のしがらみが許しません。

第6章 衝撃のクライマックスと結末

物語は衝撃的なクライマックスを迎えます。ガランスを自分の所有物として縛り付けるモントレー伯爵に対し、暗殺者ラスネールが行動を起こします。ラスネールは伯爵の傲慢さが許せず、またガランスを自由にするため、そして何より自らの悪の美学を証明するために、公衆浴場で伯爵を暗殺します。彼は逃げることもせず、優雅に葉巻をふかしながら警察の到着を待ちます。
一方、ついに身も心も結ばれ、一夜を共にしたバチストとガランスでしたが、朝の光とともに現実が押し寄せます。バチストの妻ナタリーが二人のいる部屋に乗り込んでくるのです。私にはこの人しかいないと泣き叫ぶナタリーの姿を見たガランスは、バチストの家庭を壊すことの罪悪感と自らの美学に従い、黙って部屋を出て馬車で去ろうとします。
時はまさに謝肉祭の最中でした。大通りはバチストの真似をした白塗りのピエロの仮装をする民衆で文字通り埋め尽くされています。逃げるガランスの乗る馬車を必死に追いかけるバチストですが、皮肉にも自らを模倣した大群衆に行く手を阻まれます。ガランスの名前を何度も絶叫するバチストの声は謝肉祭の喧騒の中に吸い込まれ、馬車は人波の彼方へと消え去っていきます。決して埋まることのない絶対的な喪失感とともに映画は幕を閉じます。

第7章 極上の悲劇がもたらす魅力

本作品の最大の魅力は、愛のすれ違いがもたらす極上の悲劇性にあります。登場人物たちは誰もが愛を求めていますが、誰の思いも完全には報われません。言葉を持たないパントマイムで愛を表現するバチスト、饒舌な言葉で愛を語るルメートル、金と権力で愛を買おうとする伯爵、愛を否定しながらも執着を手放せないラスネール。彼らの愛の形は四者四様であり、人間の持つ業の深さを浮き彫りにしています。
また、詩人ジャック・プレヴェールによる洗練されたセリフ回しも見逃せません。機知に富み、時には残酷なまでに真実を突くセリフの数々は、フランス語の持つ響きの美しさとともに観客の心を打ちます。
さらに、バチストを演じたジャン・ルイ・バローの身体表現の芸術性です。悲しげな瞳と繊細な指先の動きだけで雄弁に感情を語るパントマイムは、言語の壁を超えた感動をもたらします。
そして何より、ガランスという圧倒的なヒロインの存在感です。いかなる状況でも自分を見失わず、他人に媚びないその姿勢は、時代を超えて多くの人々を魅了し続けています。

第8章 映画史における歴史的意義

この映画が真の奇跡と呼ばれる理由は、その製作背景にあります。製作が行われた1943年から1944年は、フランスがナチス・ドイツの占領下にあった最も過酷な時代でした。
物資が極端に不足する中、南フランスのニースにある撮影所には中世パリの巨大なセットが隠れるように建設されました。フィルムの配給も制限され、停電が頻発する悪条件の中で撮影は強行されました。
さらに重要なのは、当時のヴィシー政権による厳しい検閲の目をかいくぐって作られたことです。音楽を担当したジョゼフ・コズマや美術のアレクサンドル・トローネルなど、ユダヤ系の才能豊かなスタッフたちは迫害を逃れるために偽名を使ったり、身を隠しながら極秘裏に制作に参加しました。
映画の中で描かれる天井桟敷の熱気や、抑圧に対して決して屈しないガランスのプライド、そして自由への渇望は、そのまま占領下のフランス国民が抱いていた精神的な抵抗の象徴でした。映画の完成直後にパリは解放され、この作品は自由を取り戻したフランスの誇りそのものとして公開されたのです。

第9章 言語の揺らぎとパトギス

その後、NHKのフランス語講座を視聴していた時のことです。パトリスという名の男性講師が、フランス語の「R」はこう発音するのだという情熱的な指導を行う場面がありました。「アールは英語の発音であり、フランス語のRとは違う。これを混同するのは許せない」という熱烈な叫びを聞いて、筆者はフランス人のプライドの一面を垣間見た気がして、大変面白く感じたのを覚えています。
そして、その発音を注意深く聞いていると、フランス語のRは「ガ」という音にしか聞こえませんでした。そのとき、映画『天井桟敷の人々』の主役の一人である女性の名前がガランスであったことを思い出し、いやむしろ「ガガンス」という音に近いのではないかと感じたのです。いやいや、そんなことを言い出したら、フランス自体が「フガンス」というべきではないか。さらに言えば、その主張を情熱的に行っていた講師本人も「パトギス」と呼ぶべきではないか。仲間内でそんな笑い話にしていました。
こうしたアルファベットの音が消え、独自の響きに変わるフランス語の性質は、言語の揺らぎと転嫁の一側面といえます。発音の短縮化や特有の摩擦音がもたらす印象は、この映画の持つ美しさと見事に調和しています。

第10章 後世のアートと作品の系譜

本作品が後世の芸術に与えた影響は計り知れません。特に有名なのは、イギリスのミュージシャンであるデビッド・ボウイへの影響です。ボウイは若い頃に前衛的なマイム教師リンゼイ・ケンプの下でパントマイムを学び、この映画のバチストに強い感銘を受けました。1980年の楽曲のミュージックビデオに登場する孤独で悲しげな白塗りのピエロ姿は、本人の直接的なオマージュと断定することこそ難しいものの、批評家やファンの間ではバチストを彷彿とさせる姿としてよく指摘されており、その芸術的系譜に連なるものとして広く認知されています。
また、日本においても演劇界や少女漫画の世界に多大なインスピレーションを与えました。劇団天井桟敷を主宰した寺山修司がこの映画のタイトルから劇団名を拝借したことはよく知られています。満たされない純愛やすれ違う男女の運命といったロマンティシズムは、1970年代以降の日本の少女漫画における悲恋の物語構造の原型の一つとも言えます。
フランス語の喉を震わせる発音の響きから生まれたガガンスという愛称や、バチストの洗礼者という象徴的な名前が示すように、この映画は言語や文化の壁を超えて、今なお多くの人々の心の中に生き続けています。

第11章 リンチとボウイの相関関係

1982年に20歳だった私が同時代的に目撃していたのは、古典的なパントマイムの世界が、現代的なロックや悪夢的な映像へと昇華された変革の瞬間でした。ボウイが1960年代末に習得したパントマイムの技術は、1980年の舞台『エレファント・マン』での歪んだ肉体表現と、翌年発表の楽曲「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」のミュージックビデオにおけるピエロ姿へと結実しました。また、リンチが映画『エレファント・マン』で描いた見世物小屋の悲哀は、まさに『天井桟敷の人々』の背景にある19世紀の大衆演劇の世界観と地続きです。
以下に、両者のキャリアとパントマイムの系譜の交差を年代順に整理して記載します。

  • 1945年:フランスにて映画『天井桟敷の人々』が公開される。

  • 1967年:デビッド・リンチが短編『アルファベット』を発表する。デビッド・ボウイはファーストアルバム『David Bowie』を発表し、リンゼイ・ケンプに師事してパントマイムの修行を開始する。

  • 1969年:リンチが短編『おばあちゃん』を発表する。ボウイはセカンドアルバム『Space Oddity』を発表し、舞台『ピエロ・イン・ターコイズ』でピエロ役を演じる。

  • 1972年:ボウイが名盤である第五作目のアルバム『ジギー・スターダスト』を発表し、ステージでのパントマイム的身体表現を完成させる。

  • 1977年:リンチが長編第一作となる映画『イレイザーヘッド』を発表し、モノクロの無声映画的演出で衝撃を与える。

  • 1980年:リンチが長編第二作となる映画『エレファント・マン』を発表する。ボウイは第十四作目のアルバム『スケアリー・モンスターズ』を発表し、同時にニューヨークの舞台版『エレファント・マン』で主演を務める。

  • 1981年:映画『エレファント・マン』が日本で公開される。ボウイは「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」のミュージックビデオで、バチストを彷彿とさせる白塗りのピエロ姿を披露する。

  • 1982年:ボウイがブレヒト劇の映画『バアル』に出演する。この年、筆者は20歳を迎え、両者の絶頂期を目撃する。

  • 1983年:ボウイが映画『戦場のメリークリスマス』に出演し、パントマイム的静止の美の極致を示す。また、大ヒットとなる第十五作目のアルバム『レッツ・ダンス』を発表する。

  • 1990年:リンチがドラマ『ツイン・ピークス』の放送を開始する。

  • 1992年:映画『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の七日間』にボウイが出演し、ついに銀幕で二人の異才が融合を果たす。

  • 1997年:リンチが長編映画『ロスト・ハイウェイ』を発表し、ボウイのアルバム『アウトサイド』などに収録された楽曲がオープニングとエンディングを飾る。

  • 2016年:ボウイの遺作となる第二十五作目のアルバム『ブラックスター』が発表され、同年にボウイが死去する。

  • 2017年:リンチによるドラマ『ツイン・ピークス ザ・リターン』が放送され、ボウイが過去の映像を用いた特殊な姿で再登場を果たす。

このように、デビッド・リンチの映像美とデビッド・ボウイの身体表現は、いずれも『天井桟敷の人々』という歴史的傑作から連なる深遠な芸術の系譜の中に位置づけられているのです。

第12章 洗礼者の象徴と聖書の預言

今回改めて作品を振り返る中で、主人公のバチストが、洗礼者を意味するバプティストのフランス語読みであるということを初めて知りました。物語の性質から、バチストという存在に聖書における洗礼者ヨハネ的な象徴というメタファーが含まれていると考えると、非常に興味深いものがあります。
洗礼者ヨハネの登場については、旧約聖書において以下のように年代順に預言されています。
「呼ばわる者の声がする、荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」(イザヤ書40章3節)
そして、この預言を成就させる存在として、新約聖書に洗礼者ヨハネが現れます。
「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて言った、悔い改めよ、天国は近づいた。預言者イザヤによって、荒野で叫ぶ者の声がする、主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよと言われたのは、この人のことである」(マタイによる福音書3章1節から3節)
ガランスという絶対的な美の前に沈黙を守り、見返りを求めずにただ己の愛を捧げたバチストの姿は、荒野で叫ぶ預言者の孤独と鮮やかに重なり合います。

これについては、作者の明確な意図が確認されているわけではなく、あくまで筆者独自の読み解きとしての域を出ませんが、もしかしたら、ここに洗礼者ヨハネのメタファーが含まれているのだとしたら、とても興味深いことだという強い印象を受けました。なぜならば、洗礼者ヨハネとは、まるで自分の打ち首という悲惨な未来を予見したかのように、自分が小さくなり、代わりに神の子羊イエス・キリストが大きくなると予言したからです。

聖書において、洗礼者ヨハネが自らを低くし、イエスを高く評価する同様の趣旨の言葉は、すべての福音書に共通して記録されています。
「私の後から来られる方は、私よりも優れておられる。私は、その履物を脱がせて差し上げる値打ちもない」(マタイによる福音書3章11節)
「私よりも優れた方が、後から来られる。私はかがんで、その履物の紐を解く値打ちもない」(マルコによる福音書1章7節)
「私よりも優れた方が来られる。私は、その履物の紐を解く値打ちもない」(ルカによる福音書3章16節)

これらすべての福音書において、洗礼者ヨハネは一貫して自分は準備する者であり、イエスこそが主役であるという姿勢を示しています。さらに特筆すべきは、ヨハネによる福音書のみに記されている次の言葉です。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(ヨハネによる福音書3章30節)

この自己を無に帰すような献身と衰退の美学は、バチストの生き様に見事に重なります。そして、バチストのキャラクターは、後世のデビッド・ボウイや、同じくリンゼイ・ケンプの弟子であったケイト・ブッシュなど、パントマイムを昇華させたアーティストたちの予表的な位置づけとなり、自らは静かに天井桟敷の終幕のように消えていったのです。
しかし、現実の歴史は少し異なる温かな結末を用意していました。劇中のバチストは愛する女性と結ばれない悲劇的な結末を迎えますが、バチストを演じたジャン・ルイ・バローの人生は成功と情熱に満ちたものでした。彼は1940年にマドレーヌ・ルノーと結婚し、戦後となる1946年には妻とともに自身の劇団を設立して、フランス演劇界の重鎮として半世紀以上にわたって連れ添いました。1994年にパリの自宅で83歳で亡くなるまで、公私ともに理想的なパートナーとして幸福な生涯を送ったのです。
さらに興味深いことに、バローは1960年代後半にロンドンを訪れ、若き前衛芸術家であったリンゼイ・ケンプのパフォーマンスを深夜まで待って鑑賞し、その才能を高く評価しました。バローが映画の中で築いた近代マイムの基礎は、ケンプという異才を通じてボウイへと受け継がれ、華やかなフィジカル・シアターへと繋がっていったのです。
バチストとしての虚構の悲劇と、バローとしての現実の幸福。その鮮やかな対比の中で、天井桟敷の人々は時代を超えた芸術の連鎖を生み出し、今もなお私たちの心を揺さぶり続けています。

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