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強くあれ雄々しくあれ:とわなる守護・導き主という気づき(4.5千文字)


強くあれ雄々しくあれ:とわなる守護・導き主という気づき

v2.0

【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。

1. 筆者の体験と聖歌との出会い

私がこの聖歌と運命的な出会いを果たしたのは、ある多忙を極める時期のことでした。当時、毎週のように心に響く賛美(神様をたたえる歌)を配信していたサムエル・カン(Samuel Kan)さんの動画を検索していた際、Ruah Worship(ルア・ワーシップ)という4人姉弟の賛美ユニットが「キリストには代えられません」を歌っている動画に辿り着きました。その関連で見つけたのが、この「強くあれ雄々しくあれ」という曲でした。

当時の私は、2020年から着手していた社内基幹システムの立ち上げプロジェクトに、全精力を注ぎ込んでいました。営業からプロジェクト収益管理までを一気通貫で操作できる仕組みを作るという、数年にわたる壮大な計画です。自らプレゼンテーションを重ね、起案書を書いて大風呂敷を広げてしまった手前、スケジュールがひっ迫する中で、私は極限の精神状態にありました。

周囲からは、鋼鉄の心臓を持つ強引な性格と思われていた私ですが、この時ばかりはギブアップ寸前でした。あまりの重圧に、神経過敏で眠れない夜を過ごしたこともあります。たったの一晩だけですが、眠れない夜もありました。まあ、たったの一晩だったのですけれども。それでも、その夜の焦燥感は、内臓が口から飛び出しそうなほど強烈なものでした。

その一晩の絶望が明け、ようやく「なんとかなるかな」という心境になったとき、この聖歌を聞いて、まさに雷に打たれたような気持ちになりました。というのも、強烈に自分は「ずっと守られていた」という自覚が、天から降臨してきたからでした。

「ずっと愛されてた。ずっと守られてた」

最初は、この真っ直ぐすぎる歌詞に、どこか照れ臭さや気恥ずかしさを感じたことを覚えています。しかし、その瞬間に受けた衝撃は強烈でした。私は、自身のASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠如・多動症)といった特性ゆえに、時に周囲から理解されないほどの強い思い込みや、独自のパターン認識能力を持っていると自覚していました。それは、ある種の未来予知にも似た感覚です。他者の理解できない独自の未来予知のようなビジョンが見えるがゆえに、強引に計画を推進する代償として、周囲からは「時期尚早」とか「根回し不足」とか「史上初の突貫工事」など散々非難の風評が広がっていました。

しかし、この聖歌に出会い、そのビジョンさえも主の導きであったと気づかされたのです。蓋を開けてみれば、体調を崩すわけでもない、眠れないのもあの一晩だけ。結局、COVID-19や電子帳簿保存法(電帳法)、インボイス制度(適格請求書等保存方式)といった世間の逆風のようなトレンドには見事に間に合って、使い始めれば、誰も使いにくいといったクレームも言わない。それは想定の範囲内ではありましたが、この結果こそが、神様が私を生まれてから終生守ってくれていたと考えたほうがはるかに筋が通る、という印象に包まれたのでした。

これまでは、自分の特性や才能を生かして、すべて自力で自己責任でやっているという自負を持っていました。幸運も単なる確率的幸運だと思っていました。その代わりに、幸運の保証は一切なく、常に失敗や絶望と隣り合わせの不安が私の隣人として居座っていました。ところが、そんなことは一切お構いなしに、私が守られているという何かが降臨してきて「知恵と戦術は関係ないよ」と教えてくれた気がしたのです。そして、次の歌詞が「主があなたの前を進まれる」でした。

気が付くと、涙が勝手にあふれて止まりませんでした。なんだ、今まで一体何を心配していたんだろうか。全部、目の前に道筋を示してくれる主にまかせて、その後をついていけばいいだけなんだ。まさに目からうろこでした。私が予知能力と考えていたことも、すべて主が示してくださったものだと考えたほうが、とても腑に落ちたのです。かっこをつけて不安を手放せていなかったのは、私のほうでした。最初は照れ臭かった「愛されている」というワードも、今ではすっかり体になじんできています。

2. 聖歌が伝える愛と守り

この聖歌は、現代のキリスト教で歌われるワーシップソングの中でも、特に神様との親密な関係を歌った一曲です。吉井裕美香氏の手によるこの曲は、キリスト教の予備知識がない方にとっても、心の奥底にある孤独を癒やす力を持っています。

吉井裕美香氏は、日本の教会で広く親しまれているワーシップソングの作詞および作曲を手がける制作者です。神様の愛や恵みを真っ直ぐな言葉と親しみやすいメロディーで表現し、多くの人々の心に寄り添う楽曲を生み出しています。

本楽曲の歌詞の全文は以下の通りです。

ずっと 愛されてた ずっと 守られてた
倒れそうな時は 支えてくれた
目を上げて 主の御声に従おう
すべてを 委ねて

強くあれ 雄々しくあれ
主があなたの前を 進まれる
強くあれ 雄々しくあれ
主がいつもあなたと共におられるから

歌詞が語るのは、私たちが神様を知るずっと前から始まっている、一方的な愛と守りです。

「ずっと愛されてた、ずっと守られてた。倒れそうな時は支えてくれた」

ここでは、人間の努力や功績は一切問われていません。私たちが自分の力で立ち上がり、知恵を絞って戦っているつもりでいる間も、実は背後で神様が大きな愛をもって支えてくださっていたという事実を突きつけます。

サビの「強くあれ 雄々しくあれ」というフレーズは、私たちへの叱咤激励ではありません。それは、「あなたが強いから戦えるのだ」という励ましではなく、「わたしが共にいて、あなたの前を歩いているから、あなたはもう怯えなくていい」という、絶対的な安心感の保証なのです。

3. 聖書が語るヨシュアの物語

この歌の根底には、伝統的には紀元前2千年紀末頃(諸説あり)とされる歴史的なドラマがあります。旧約聖書の「ヨシュア記」に記された、指導者交代の場面です。

偉大な先導者モーセを失った直後、後継者となったヨシュアは、巨大な壁を前にしていました。目の前には約束の地がありますが、そこには強大な敵が待ち構えています。彼は、自分がモーセのようなカリスマになれるのか、この民を導ききれるのかという、極限の不安の中にいました。

そのとき、神様がヨシュアに語りかけた言葉が、この聖歌のテーマとなっています。聖書(新改訳2017)には次のように記されています。

【参照聖句1:ヨシュア記 1章9節】
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたがどこへ行っても、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」

【解説】
神様は、ヨシュアが不安に震えていることを完全にご存じでした。だからこそ、「強くあれ」という言葉に続けて、「どこへ行ってもわたしがともにいる」という約束をされました。新改訳2017では、ここで「恐れてはならない」という言葉が明確に使われており、神の同伴こそが恐怖を打ち消す根拠であることを示しています。

【参照聖句2:申命記 31章6節】
「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

【解説】
ここでは、神様が「見放さない、見捨てない」と断言されています。人間は力及ばず去っていくことがあっても、神様の守りは永遠に変わることがないという宣言です。

【参照聖句3:申命記 31章8節】
「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

【解説】
この聖句こそが、歌詞にある「主があなたの前を進まれる」の直接的な根拠です。神様は後ろで指示を出す存在ではなく、最前線に立って道を切り開く先駆者であることを、新改訳2017の正確な記述が伝えています。

4. 前を進まれる主への信頼

「主があなたの前を進まれる」という言葉を受け入れることは、私にとって、自分の人生の主権を神様に委ねることを意味しました。それは、自力で道を切り開こうともがいていた頃には想像もできなかった、深い安らぎへの入り口でした。

私の場合、この気づきは次のような主観的な変化をもたらしました。

第一に、自らの特性に対する解釈の変更です。
ASDやADHDといった特性からくる鋭い感覚やパターン認識能力を、私はこれまで「自分だけの特別な力」だと信じ、それを武器に戦ってきました。しかし、それらさえも主が私の前を歩んで示してくださった「導き」であったと捉えるほうが、今ははるかに自然だと感じています。知恵や戦術に頼る以前に、主がすでに道を整えてくださっていたのです。

第二に、焦燥感からの解放です。
「すべては自分の戦術にかかっている」という強迫観念は、私を常に失敗への恐怖と隣り合わせにさせていました。しかし、主が前を進まれているのなら、私はその後ろを歩んでいけばよいのです。なんだ、今まで一体何を心配していたんだろうか。そんな目からうろこが落ちるような解放感に包まれました。

第三に、他者に対する視点の変化です。
かつての私は「戦術なき人」を見下し、遠ざけていました。しかし、主が私の前を進まれているという降臨のような体験を経て、自分を誇る根拠が消え去りました。今は、自分も含めたすべての人が主の守りの中にあるのだという、謙虚な心境へと導かれています。

「強くあれ、雄々しくあれ」という言葉は、私を縛る鎖ではなく、私を不安から解き放つ自由への招待状となりました。あの「たった一晩だけの不眠」も、今となっては主の愛と守りの深さを知るために、主が備えてくださった大切なプロセスであったと感じられます。主は今日も、あなたの前を歩まれています。その確かな足跡を信頼し、すべてを委ねて一歩を踏み出し、主の後に続いていきましょう。

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