「本好きの本屋志望は動物好きの肉屋志望と同じ」説の検証(1.7万文字)
「本好きの本屋志望は動物好きの肉屋志望と同じ」説の検証
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【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフの思想と著作について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。なお、本稿に掲載している引用文の日本語訳は、読者の理解を助けるための試訳あるいは代表的な訳例であり、特定の公刊訳を排他的に提示するものではありません。
1. 本が好きなあなたへの、残酷な問いかけ
皆さんは、本が好きだろうか。もし好きであれば、いつかその好きという気持ちを仕事に活かしたいと夢見たことはないだろうか。作家になりたい、出版社に入りたい、あるいは小さくてもいいから自分の書店を開きたい。そんな気持ちを、誰かに打ち明けたことがある人もいるだろう。そのときに、もし相談した先生からこんな言葉を返されたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。
「本が好きだから本屋になるというのは、私に言わせれば、動物が好きだから屠畜業者(肉屋)になるのと同じようなものだ」
正直なところ、それは極端すぎる譬えではないかと困惑しないだろうか。一般的な処世訓としてよく言われることなら、まだ理解できる。好きなことを仕事にすると、好きでない部分までこなさなければならないから、必ずしも楽しいことばかりではない。そうした現実的な忠告として、多くの人が耳にしたことのある話だろう。
しかし、ここでいう肉屋とは、いったいどういう意味なのか。動物が好きなら、むしろペットショップや動物病院を目指すのではないか。なぜ、動物を解体し肉として処理する職業が出てくるのか。この言葉の持ち主は、20世紀前半に活躍したロシア出身の神秘思想家、ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ(G. I. Gurdjieff:1866年頃から1949年)の周辺にいた知性、A・R・オレージ(A. R. Orage)だと記録されている。筆者は、この一言の背後に、単なる職業選択のアドバイスをはるかに超えた、人間の本質に関する深い診断が下されていると考えている。本稿ではこの比喩を起点として、彼らの思想がいかなる人間観に基づき、なぜこれほど鋭利な言葉で現代人の好きという感情を切り捨てたのかを検証していく。
2. ゲオルギー・グルジェフの背景
本稿の思想的支柱となるゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフは、独自の精神修養体系「グルジェフ・ワーク(第四の道)」を提唱したロシア出身の人物です。彼は人間を「眠りの中にいる機械」と呼び、自覚なしに生きる現代人の異常性を鋭く糾弾しました。彼の教えは、主に弟子のピョートル・デミアノヴィチ・ウスペンスキー(P. D. Ouspensky)が記録した『奇蹟を求めて(In Search of the Miraculous)』や、グルジェフ自身の主著『ベルゼバブの孫への物語(Beelzebub's Tales to His Grandson)』によって今日に伝えられています。彼の思想の核心は、人間は自分の意志で行動していると思い込んでいるが、実際には外部からのショックに反応しているだけの機械であり、そこから脱却するためには意識的な労働と意図的な苦しみが必要であるという点にあります。
彼の中心的な主張は、一言で言えばこうだ。「人間は眠っている」。これは比喩だが、単純な比喩ではない。グルジェフが説いた眠りとは、私たちが夜に目を閉じることではない。日常生活の中で、自分では考えているつもり、感じているつもり、行動しているつもりでいながら、実際にはすべてが外部からの刺激に対する自動的な反応に過ぎない、その状態を指している。
3. C・S・ノットの記録
グルジェフの弟子のひとりに、C・S・ノット(C. S. Nott)というイギリス人がいた。彼は回想録『Teachings of Gurdjieff: A Pupil's Journal』(邦訳『グルジェフの教え』)の中に、師との対話や日常の断片を丁寧に書き残している。この回想録の中に、冒頭で取り上げた比喩が登場する。記述の所在は、ノットがニューヨークで本屋を開業したいという計画を話した場面である。元の記述となる英語原文は以下の通りです。
To become a bookseller because you are fond of books is, to my mind, rather like becoming a butcher because you are fond of animals。
本が好きだから本屋になるというのは、私に言わせれば、動物が好きだから屠畜業者(肉屋)になるのと同じようなものだ。
この比喩はノットの回想録では、グルジェフの協力者であったA・R・オレージの発言として現れる。しかし、その発想の背後にある人間観は、グルジェフの「人間は機械である」という中心命題ときわめて近い。したがって本稿は、単なる名言紹介ではなく、オレージの比喩を手がかりに、グルジェフ的な人間観を読み解く試みとして提示する。
4. 比喩が示す本質的意味
グルジェフやオレージの言葉が意図する本質は、好きという主観的な感情と、職業としての客観的な現実の間に横たわる残酷な乖離を指摘することにあります。本を愛する者は、本の内容を深く味わい、理解することを望みます。しかし、実務としての本屋において本は商品に他なりません。在庫管理や売れ筋の仕入れ、返品作業や宣伝といった業務は、本を利益を生むための冷徹な道具、あるいは質量として扱う行為です。これは、対象への純粋な愛情と、それを単なる物質的な商品として消費し処理する作業との間にある、残酷なまでの乖離を射抜いています。動物を愛する人が、その動物を解体し肉として処理する場所で働くことの矛盾に等しいと説いたのです。
ショッキングな例えを用いて相手に強烈な自己反省を迫るこのアプローチは、グルジェフ・ワーク特有の教育的手法といえる。穏やかな忠告では眠れる機械は目を覚まさない。鋭い衝撃だけが、人を一瞬、自動反応の外に引き出すことができる。そう彼は考えていたとされています。
5. 奇蹟を求めて
グルジェフの思想を最も体系的に伝えているのが、1915年から1917年にかけての講義をまとめた『奇蹟を求めて』です。執筆や表現への批判の根底には、彼の人間機械論が存在しています。グルジェフは、人間には自発的な意志など存在せず、すべては起こっているだけだと断言しました。該当箇所の原文は以下の通りです。
Man is a machine。 All his deeds, actions, words, thoughts, feelings, convictions, opinions, and habits are the results of external influences, external impressions。 Out of himself a man cannot produce a single thought, a single action。 Everything he says, does, thinks, feels all this happens。 Man cannot discover anything, invent anything。 It all happens。
人間は機械である。彼のすべての行い、行動、言葉、思考、感情、信念、意見、および習慣は、外部からの影響、外部からの印象の結果である。彼自身の内から単一の思考、単一の行動を生み出すことはできない。彼が言い、行い、考え、感じるすべて、それはただ起こるのだ。人間は何も発見できず、何も発明できない。すべてはただ起こるのである。
この一貫した人間観に基づけば、現代人が行う本を書きたいという動機や本が好きだという感情もまた、機械的な反応や虚栄心、あるいは自己欺瞞の結果に過ぎないというのがグルジェフの見解です。
6. 文化拡張の比喩
宇宙がビッグバン以来絶えず拡張し続けているという現代科学の知見(あるいは神話的直感)に照らせば、世の中の書物もまた際限なく増え続けていくと考えられます。さらに映画、演劇、音楽といった多種多様なメディアが加わることで、人類の文化は加速度的に拡大していきます。この無限の広がりは、私たちの知覚と精神を豊かにする一方で、限界のない情報の膨張を圧倒的な速度で加速させている側面があると指摘されています。
しかし、グルジェフの視点から見れば、この無限の広がりは必ずしも精神の豊かさを意味するものではありません。知識の量が増えても、人間の「存在(Being)」が変わらなければ、それは情報の膨張に過ぎず、人間をより深い眠りへと誘うだけであると考えられています。ではその眠りを生み出す書物と、真に覚醒を促す書物はどう区別されるのか。その鍵は芸術の質にあります。
7. 書物のランクと客観芸術
世の中の書物には一定のランク付けが存在するといわれています。その序列は聖書や経典を最上位とし、次いで神話、歴史書、小説と続きます。聖書や経典は、人間が宇宙や神といった超越的なものから、現実の人間社会の記録、および個人の自由な想像力の産物へと関心の対象を移してきた道筋を示しており、もっとも神聖とされる記述から大衆的な娯楽作品まで、書物の持つ価値の重みは人類の歴史とともに変容してきたといえます。
この序列は、グルジェフ思想の外部からも独立して裏付けられています。文芸批評家ノースロップ・フライは『批評の解剖』において、聖書をすべての文学の原型(アーキタイプ)と位置づけ、それが神話、ロマンス、および写実的な小説へと変容していくサイクルを理論化しました。社会学者マックス・ウェーバーは「世界の脱魔術化」という概念で、かつて神聖だった世界が知性化・合理化によって世俗的なものへと変わっていく過程を説きました。神聖から娯楽へという書物の大きな流れは、グルジェフ一人の主張ではなく、20世紀思想の文脈とも一定の接点を持つ認識だったといえるでしょう。
ただし、ここで付け加えておきたいのは、筆者自身の見解として、ピタゴラス、ソクラテス、新プラトン主義系に見られるような一部の哲学的伝統も、神聖な書物に隣接する高位の層に接続しうるということです。これはフライやウェーバーの所説そのものではなく、本稿における筆者の補助線として提示しているものです。
この階層構造はグルジェフが提示した客観芸術と主観芸術の概念に対応しています。機械的な人間が作るものは、主観的衝動と偶然性に支配されやすく、そうした書籍は単なる主観芸術に過ぎないと見なされています。一方で、最上位の書物は客観芸術としてのレゴミニズム(合法的な情報伝達手段)であり、数学的な正確さをもって後世に真理を伝えるための装置であるといわれています。
レゴミニズムとは、意識的に覚醒した人間が、後世の人々に真理を数学的な正確さで伝えるために意図的に構築した「暗号化された伝達装置」を指します。グルジェフはレゴミニズムの例として、古代建築や象徴体系、舞踏などを挙げているといわれています。これらは偶然の産物ではなく、受け取る者の存在レベルに応じて異なる深度で作用するよう、意図的に設計されたとされています。
『奇蹟を求めて』第14章において、グルジェフは次のように講義しています。
「本物の芸術はまったく別のものだ。芸術作品の中、特に古代の芸術作品の中には、君たちが説明できない、現代の芸術作品では感じられないある何かが含まれている。客観的な芸術作品は、君たちの知性だけでなく感情的な側面にも作用する一つの書物のようなものである」
また、グルジェフは客観芸術と主観芸術の違いを次のように説明しています。
The difference between objective art and subjective art is that in objective art the artist really does 'create,' that is, he makes what he intended, he puts into his work whatever ideas and feelings he wants to put into it。 And the action of this work upon men is absolutely definite; they will, of course each according to his own level, receive the same ideas and the same feelings that the artist wanted to transmit to them。 There can be nothing accidental either in the creation or in the impressions of objective art。 In subjective art everything is accidental。 The artist, as I have already said, does not create; with him 'it creates itself'。 This means that he is in the power of ideas, thoughts, and moods which he himself does not understand and over which he has no control whatever。 They rule him and they express themselves in one form or another。 And when they have accidentally taken this or that form, this form just as accidentally produces on man this or that action according to his mood, tastes, habits, the nature of the hypnosis under which he lives, and so on。 There is nothing invariable; nothing is definite here。 In objective art there is nothing indefinite。
客観芸術と主観芸術の違いは、客観芸術においては芸術家が真に創造するという点にある。つまり、彼は意図した通りのものを作り、自分の作品の中に、伝えたいアイデアや感情を込めるのである。そして、この作品が人間に及ぼす作用は絶対的に明確である。人々は、もちろんそれぞれの存在のレベルに応じてではあるが、芸術家が伝えたかったのと同じアイデアと同じ感情を受け取ることになる。客観芸術においては、創造の過程においても、それが与える印象においても、偶然というものは何一つ存在しない。主観芸術においては、すべてが偶然である。私がすでに述べたように、芸術家は創造するのではない。彼においてはそれが勝手に作られるのである。これは、彼が自分でも理解できず、制御することもできないアイデアや思考、気分の支配下にあることを意味する。それらが彼を支配し、何らかの形で自己を表現するのである。そして、それらが偶然にある形をとったとき、その形は、受け取る側の気分、好み、習慣、被っている催眠状態の性質などに応じて、これまた偶然に、人間に何らかの作用を及ぼす。ここには不変なものは何もなく、明確なものも何一つない。客観芸術においては、不明確なものは存在しない。
8. ベルゼバブの孫への物語
グルジェフは、普通の人間が無自覚に著作を行う行為を、一種の病的症状として捉えていました。主著『ベルゼバブの孫への物語』第1章「思考の喚起(The arousing of thought)」において、執筆行為を次のように風刺しています。第1章では、主に個人の自動的な執筆衝動が批判の対象となっています。
This strange disease is manifested thus if the invalid is somewhat literate and his rent is paid for three months in advance, he, she, or it inevitably starts writing some 'instructive article,' if not a whole book。
この奇妙な病気はこのように現れる。もし病人がいくらかでも読み書きができ、また三ヶ月分先まで家賃が払えていれば、その男や女、あるいはそれは、必ずや啓蒙的な記事を書き始め、ひどい場合には丸ごと一冊の本を書き上げてしまう。
グルジェフはこれを、現代の人間に蔓延している流行の病(epidemic disease)であると表現しました。書物という形態を通じて他者の意識を操作しようとする過剰なエネルギーや、本来の自己を省みることなく社会的な評価を求めて著作に没頭する人間の自動的、機械的な衝動を鋭く風刺しているといえます。
9. 現代の執筆と流行病
執筆行為に対する彼の懐疑的な姿勢は、出版業界の現状に対しても同様に向けられていました。『ベルゼバブの孫への物語』第12章には、次の記述があります。ここでは個人の衝動に留まらず、業界全体の堕落が指摘されています。
in later epochs, and especially in recent times, writers have been of the kind that only copy out all sorts of ideas from many books already in existence, and fit them together to make a 'new' book。
後の時代、とくに近頃では、作家というものは、すでに存在する多くの本からあらゆる種類のアイデアをただ書き写し、それらをつなぎ合わせて新しい本を作るような部類の者たちになっている。
さらに、『奇蹟を求めて』第3章などの講義においても、「書物や理論は、睡眠状態で書かれ、作られる限り、他の人々をさらに深く眠らせるだけである」と警告がなされています。意識の覚醒を伴わない執筆は、情報を流通させるだけで、かえって人間をより深い自動的な生存(眠り)へと引きずり込む要因になると説いているのです。そして、この人間を眠らせる機能は、出版という形態に限らず、現代社会のあらゆる側面に広告という形をとって潜んでいると指摘されています。
10. 広告批判とシカゴの屠殺場
ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフによる文明批判は、現代社会の根幹にあるシステムにも及びます。『ベルゼバブの孫への物語』第42章「Beelzebub in America」では、広告(Advertising)を有害な発明(maleficent invention)と呼び、痛烈に批判しています。この人間を眠らせる機能は、出版に限らず広告という形でも作動しているといわれています。
This pernicious invention of theirs they call 'advertising'。
彼らのこの有害な発明を、彼らは広告と呼んでいる。
彼は、広告が人間の被暗示性(suggestibility)を最大限に悪用し、現実を歪曲して幻想を植え付ける機能を果たしていると指摘しました。有名な一節として、They have become so skillful at 'making elephants out of flies'(彼らはハエから象を作ることに非常に熟練してしまった)という表現があります。この広告批判の具体的な事例として、グルジェフはシカゴの屠殺場のエピソードを挙げています。
'Slaughterhouse' is the name for a special place where terrestrial three-brained beings carry on the destruction of the existence of beings of various other forms
This famous contemporary writer gave a rapturous 'eyewitness' account of one of the slaughterhouses of this same city of Chicago
Nowhere, my dear boy, had I laid eyes on a single machine and as for the filth in this Chicago slaughterhouse, I had seen more than enough。
屠殺場とは、地球の三脳存在たちが、様々な他の形態の存在の生命を破壊する特別な場所の名称である。この有名な現代の作家は、シカゴという同じ都市にある屠殺場の一つについて、熱狂的な目撃者としての報告をした。可愛い坊やよ、私はただの一台の機械も目にしたことはなかったし、このシカゴの屠殺場の汚物に関しては、もう十分に見た。
ベルゼバブ(物語の主人公)は、広告や書物によってシカゴの屠殺場が清潔で人道的な素晴らしい施設であると宣伝されていることを知りますが、実際に訪れてみると、そこは動物の大量破壊と凄惨な汚物、血に満ちた残酷な場所でした。広告がいかに残酷な現実を隠蔽し、正反対の美しい幻想を広めるか。この記事の冒頭で触れた動物が好きだから屠殺場という比喩は、このシカゴの描写と通底する現実の本質への視座を先取りしているといえます。
11. 安楽への設備批判と健康視座
グルジェフは、文明がもたらす快適さが人間の退化を招くと考えていました。第42章では、まず現代の事例としてアメリカ人が発明した快適な座席付きの水洗便所が批判の対象となっています。これは単なる設備批判にとどまらず、人体の構造に基づいた健康上の警告でもあると考えられます。
In former times, when the normal data for generating more or less Objective-Reason were still crystallized in the common presences of your favorites, and they were able to reflect for themselves, or at least understand when another similar known being explained the subject to them, they took the posture necessary for this function (defecation)。 Later, when these being-data ceased to be crystallized in them and they began to perform this function only automatically, their planetary bodies could still, thanks to the systems prevalent before that American invention, take the necessary posture automatically by what is called 'animal instinct'。 But now that the American beings have invented these comfortable seats, and they have all begun to use them for this inevitable function of theirs, their planetary bodies can no longer adapt themselves even instinctively to the necessary posture, and in consequence certain muscles which realize this unavoidable being-function gradually atrophy, and thus they have become susceptible to what is called 'constipation' and furthermore to several other specific new diseases which occur exclusively in the existence of these strange three-brained beings throughout our Great Universe。
かつて、多かれ少かれ客観的理性を生み出すための正常なデータが君たちのお気に入りたちの共同の存在の中にまだ結晶化されており、彼らが自ら省察し、あるいは少なくとも他の類似した既知の存在がその主題を説明したときに理解できた時代には、彼らはこの機能(排便)に必要な姿勢をとっていた。その後、これらの存在データが彼らの中で決定的に結晶化するのをやめ、彼らがこの機能を単に自動的に果たすようになると、彼らの惑星体(肉体)は、あのアメリカの発明以前に普及していたシステムのおかげで、いわゆる『動物的本能』によって自動的に、必要な姿勢をとることができた。しかし今やアメリカの存在たちがこれらの快適な座席を発明し、彼ら全員が自分たちのこの避けられない機能のためにそれを使用し始めたため、彼らの惑星体はもはや、必要な姿勢に本能的にさえ適応できなくなり、その結果、この不可避な存在機能を現実化する特定の筋肉が次第に萎縮し、こうして彼らは『便秘』と呼ばれるもの、さらには、我々の偉大なる宇宙全体において、これらの奇妙な三脳存在の存在の中にのみ排他的に発生するいくつかの特定の新しい病気にかかりやすくなってしまったのである。
グルジェフによれば、この快適な座席の使用は、本来人間が排泄時にとるべき自然な姿勢を損なわせるものだといわれています。彼は、インドなどのアジア諸国で見られる「しゃがむ(squatting)」姿勢こそが、人体工学的に最も優れ、排便に適した姿勢であるという見解を示しました。
同様の批判は、同章で語られる古代ティクリアミシュ文明の例にも見られます。
The beings of the Tikliamishian civilization invented a sort of 'comfortable couch bed' which could be used for sleeping as well as for what is called 'lounging,' so that while lying on this wonderful contrivance, without manifesting the slightest being-effort whatever, they could perform this inevitable being-need
ティクリアミシュ文明の存在たちは、くつろぎのためだけでなく睡眠のためにも使用できる一種の快適な寝椅子を発明した。これにより、この素晴らしい仕掛けの上に横たわったまま、わずかな存在の努力も示すことなく、この不可避な存在の欲求を満たすことができたのである。
努力を一切介在させずに快適に済ませる環境が、消化機能の乱れや病を引き起こしたという寓話を通じ、グルジェフは不快や現実を直視せず安楽のみを追い求めることが、人間の機械化と退化を加速させると説きました。
12. 身体管理の習慣
一方で、グルジェフが有用な習慣として肯定的に評価したものも存在します。それらは身体の管理と浄化という本来の目的に適ったものであるとされています。第34章「Russia」等では、古代の咀嚼習慣ケヴァ(Keva)が紹介されています。
'Keva' is a certain mastic prepared from various roots, which is chewed after eating
ケヴァとは様々な木の根から作られた一種の樹脂であり、食後に噛まれるものである。
これは消化を助ける有益な習慣として語られますが、対照的に現代アメリカのチューインガム(chewing gum)は、単なる癖や自己鎮静の手段として皮肉られています(第42章)。また、第37章「France」ではハマム(スチーム風呂)の習慣が挙げられています。
the custom of washing themselves periodically in special establishments called 'hammams'
ハマムと呼ばれる特別な施設で定期的に身体を洗う習慣。
by ordinary washing, even with hot water, it was impossible to remove the oily deposits from the pores of the skin
普通の洗浄では、たとえお湯を使ったとしても、皮膚の毛穴から油分を取り除くことは不可能であった。
東方の蒸気浴は、身体の浄化や血行促進に役立つ良い習慣とされています。これは単なる安楽な快適さとは異なり、努力を伴う自然な浄化として評価されました。これら設備や習慣に関する議論はいずれも、本来の目的から逸脱した快適さの追求が人間の退化を招くという共通の視座に立っていると考えられます。
13. 預言としての身体論
グルジェフが残した身体に関する批判と推奨は、現代医学・リハビリテーション医学の観点から検証すると、きわめて高い予見性を持っていたことがわかります。彼の言葉は、医学がまだ未発達だった時代に、人間の「本能的中心」の働きを正確に観察することで導き出されたものでした。
座席式トイレへの批判については、現代の解剖学がその合理性を先取りしているように見えます。グルジェフが『ベルゼバブの孫への物語』でこの警告を記したのは1930年代のことです。座位では恥骨直腸筋が直腸を締め付けたままになり排便を妨げる角度になるのに対し、しゃがむ姿勢ではこの筋肉が弛緩し直腸が真っ直ぐになります。この解剖学的メカニズムがイスラエルの消化器科医デヴ・シキロフらによって論文として発表されたのは2003年のことであり、グルジェフの警告から約70年後のことでした。現代では洋式トイレに足を乗せる台を置き擬似的にしゃがむ姿勢を作る健康器具「スクワティ・ポッティ」が2011年に登場し世界的にヒットしていますが、これはグルジェフが100年前に予告した「座席による機能不全」への、今日の知見からの回答とも読めるでしょう。
ケヴァ(天然樹脂の咀嚼)の推奨についても同様です。グルジェフがこれを有用な習慣として記述したのも1930年代ですが、咀嚼がセロトニンの分泌を促すことが神経科学的に確認されたのは1990年代以降であり、咀嚼と認知症予防の関連が本格的に研究されたのは2000年代に入ってからです。グルジェフがアメリカのチューインガムを単なる癖や自己鎮静の手段として切り捨て、天然の根を用いるケヴァを評価したのは、それが薬理的・生理的効果を狙った意識的な習慣であったからと解釈できます。ハマム(蒸気浴)による毛穴の洗浄と血行促進についても、ヒートショックプロテイン(HSP)による免疫向上効果が医学的に確認されたのは1980年代以降であり、現代のデトックス理論として広く認知されたのはさらに後のことです。
さらに、ティクリアミシュ文明の寓話として語られた「寝たまま排泄できる寝椅子」は、現代の介護環境に対する極めて鋭い預言となっています。廃用症候群(Disuse Syndrome)という概念が医学的に定式化されたのは1980年代のことであり、グルジェフの寓話執筆から半世紀後にあたります。現代のリハビリテーション医学では、どんなに重度の介護状態であっても可能な限り座ることや立つことが内臓機能や精神的活力の維持に不可欠とされており、介護ベッドや自動排泄処理装置といった素晴らしい仕掛けは、グルジェフの視点に立てば人間の存在の努力を奪い取り機械的な崩壊を加速させる装置ともなり得ます。今日の私たちは彼の預言通り、自ら作り出した快適さという名の檻の中で、その機能を取り戻すためにスクワットやサウナという意識的な労働を強いられているといえるかもしれません。
14. 論理的全体像
グルジェフの人間観と文明批判を総括すれば、以下の論理的構造が浮かび上がるといえるでしょう。
機械性の認識:人間は自覚のない機械であり、その活動(執筆や開業など)の多くは自動的な反応に過ぎない。
幻想と現実の乖離:本好きだから本屋という主観的な感情(幻想)と、それを商品化する商業的現実(屠殺場)のギャップを直視することの重要性。
客観芸術の優位:感情的な満足や娯楽のための主観芸術(現代文学等)を排し、真理を数学的に伝える客観芸術(経典等)を尊重する。
自己鎮静への抵抗:文明が提供する安易な快適さ(広告、贅沢なトイレ設備、安楽な寝台等)は人間を眠らせる装置であり、これに抗うための努力が必要である。
グルジェフは、価値あるものが量産によって際限なく増えるという前提自体を幻想と捉えていました。知識は一定量しかなく、量産は本質の希薄化を招くという彼の考えは、現代のデジタル情報社会や出版システムに対する根源的な問いを投げかけ続けています。以上の検証を踏まえれば、オレージが語りグルジェフ思想が裏支えする比喩は、単なる辛辣な逸話ではなく、人間存在の機械性と、本来あるべき客観的な現実認識との乖離を射抜いた妥当な指摘であると結論づけられます。
15. ベルゼバブの制作過程という預言
グルジェフが『ベルゼバブの孫への物語』を完成させた方法は、それ自体がひとつの預言的実践だったといわれています。彼はこの主著を、弟子たちとの朗読という共同作業を通じて仕上げました。フランス語、ロシア語、アルメニア語、英語といった複数言語への翻訳と読み合わせを繰り返すプロセスは、単独の主観芸術家がすべてを執筆することの限界に対する、実践的な回答だったといえるでしょう。
この制作方法には、少なくとも3つの意義が重なっていると考えられます。第一に、多言語という異なる文化的文脈を通過させることで、特定の言語や文化に依存した主観性を剥ぎ取り、より普遍的な伝達装置としての精度を高めること。第二に、ディズニーやジブリが後に体現することになるプロジェクト型の集団制作の曙光として、単独の才能への依存を超えた客観芸術の可能性を示したこと。そして第三に、その朗読と翻訳のワークそのものが弟子の育成の場となり、書物の制作と意識の覚醒が同時に進行するという、一石三鳥の構造を実現したことです。眠れる機械が単独で書いた言葉は他者をさらに眠らせる、というグルジェフ自身の警告を逆手に取れば、この制作過程こそが、彼が語った客観芸術としてのレゴミニズムを実現しようとした具体的な試みだったと解釈されます。
16. 執筆の制限と目的
グルジェフは、自身の巨大な著作を残す際も、安易な知的消費を妨げるために意図的に難解な文体(迷宮のような構造)を採用しました。彼は弟子たちに対しても、初期の活動拠点では教えを書き留めることや出版を厳しく禁止していました。正しく伝えられないのであれば、それは無意味どころか有害ですらあるというのが彼の信念であったとされています。
本を書くことが許容されるのは、後世に残すべき特殊な形式、すなわち客観芸術としてのレゴミニズムを実現しようとする、極めて特殊な目的がある場合に限られていました。それ以外の執筆衝動は、自我や虚栄心から来る機械的な反応であると見なされていたといわれています。
17. 結論:機械的人間と、その先にあるもの
ここまで検証してきた驚くべき洞察の数々を踏まえて、最後に筆者の見解を述べておきたい。
「本が好きだから本屋になりたい」というのは、「動物が好きだから肉屋になる」のと同じか。それは、機械的人間にとっての宿命であり、まったくもって妥当な診断だというのが正直なところだ。好きという動機から出発しながら、気づけば好きなものを切り売りする業界に吸い込まれてしまう。それは本屋に限った話ではない。ペットショップを選んだとしても実態は大差なく、むしろ動物好きがより深く疲弊する環境が揃っているかもしれない。フードロスに心を痛める人がビュッフェ形式のレストランに勤務して消耗するのに似ている。つまり、程度の差はあれ、われわれはすべて「動物好きな肉屋」だと言っても過言ではない。なぜなら、そうなってしまう根本的な原因は、機械的人間であることそのものだからだ。仮にその事実をあらかじめ知らされていたとしても、知らずにそうなるか、知りながらもお決まりのコースに吸い込まれるかの違いに過ぎない。
では、機械的人間などいなくなった方がよいのか。これもまた短絡だ。機械的人間は、必要だからこれほど充満しているはずである。そして機械的人間には、機械的人間でなくなるポテンシャルが宿っている。書物がビッグバン以来の宇宙的拡散のごとく全方位へ広がり続けていることも、何かの瑕疵の結果ではないはずだ。この世界は、そんな脆い設計ではなされていない。無限に拡散する機械的な奔流の中にこそ、機械的ではなくなる契機が埋め込まれているのだと筆者は考える。
その証左として、書物の王座に君臨する聖書・聖典・経典、あるいは一部の哲学書は、数千年という時間の検証に耐えてきた。神話や歴史書にも、それに準ずる普遍性がある。これらが今なお読み継がれているのは、それらが機械的な衝動ではなく、意識的な意図によって構築されたレゴミニズムだからではないだろうか。本が好きなら、機械的ではない本により多く触れることで、機械的人間から脱出するポテンシャルを受け取ることができる。その先に、やっと肉屋以外の選択肢が現れるのではないか。筆者には、そうとしか思えないのである。
18. エソテリック・クリスチャンとしてのグルジェフ
最後に、グルジェフ・ワークに対して向けられることのある批判に応えておきたい。「愛がない」「キリスト教的に見て異端である」という見解だ。
まず事実として、グルジェフは自身をエソテリック・クリスチャン(秘教的キリスト者)であると明言していました。この一点だけでも、彼の思想を単純にキリスト教の外部に置くことはできません。そのうえで筆者は、グルジェフ思想の核心にある「人間は機械である」という命題を、キリスト教神学における「原罪」の現代的翻案として理解しています。自覚なき眠りの中で自動的に反応し続ける機械的人間の姿は、神から切り離され、自らの意志では善を行えないという堕落した人間の姿と、本質的に重なるからです。
さらに決定的なのは、グルジェフ・ワークにおける進化の条件です。彼は「意識的努力と意図的苦悩を通じてしか人間は進化できない」と定義しましたが、同時に「より高次なエネルギー、およびすでに機械性を脱出した存在の助けがなければ、人間は単独では進化できない」という大原則を折に触れて語っています。これは自己責任のみを問う教えではありません。外部からの恩寵なくして人間の救済はあり得ないというキリスト教の根幹と、構造的に照応しています。
コリント人への手紙第一15章3節から4節に記された福音の三要素、すなわちキリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日目によみがえったという一連の教えは、贖いと恩寵による人間の変容を宣言するものです。グルジェフ・ワークが説く「機械性からの脱出は高次の助けなくして不可能である」という命題は、この福音の構造と照らし合わせても示唆に富むものであり、筆者の見解としては、両者は同じ人間の実相を指し示しているように見えます。
本稿で検証してきたグルジェフの洞察は、眠れる機械としての人間を鋭く解剖しながら、その先に変容の可能性を開いています。それは断罪ではなく、診断であり、そして招待だ。その意味において、グルジェフ・ワークとキリスト教の福音は、表現の形式を異にしながらも、同じ人間の実相を指し示しているのではないでしょうか。
参考文献
C. S. Nott, Teachings of Gurdjieff: A Pupil's Journal。
P. D. Ouspensky, In Search of the Miraculous。 邦題:奇蹟を求めて
G. I. Gurdjieff, Beelzebub's Tales to His Grandson。 邦題:ベルゼバブの孫への物語
G. I. Gurdjieff, Meetings with Remarkable Men。 邦題:注目すべき人々との出会い
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