デカルト、カント、グルジェフを接続する立体フラクタル・人間観(1.1万文字)

デカルト、カント、グルジェフを接続する立体フラクタル・人間観
v18.0
【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、カントの現象と物自体、グルジェフの尺度論、ならびに人間観の統合モデルについて、その核心的な内容に深く触れています。
1. 本稿の目的と全体像
近代哲学が築き上げた壮大な体系は、一見すると堅牢であるが、その底流には特定の認識モデルへの固執が潜んでいる。本稿の目的は、カントの認識論的限界設定を出発点とし、そこにグルジェフの尺度論や現代の神経科学、さらに物理学のフラクタル概念を導入することで、人間存在の多次元的な構造を浮き彫りにすることにある。
本稿がとくに問題視するのは、例えば「運命は変えられる」というスピリチュアル的なスローガンがあったときに、それを批判する際、その根拠としてカントを持ち出し、「人間は主観の檻から出られないのだから運命のようなものを客観的に語ることはできず、その種の語りは幻想である」と処理する論法である。さらに「その背後にある宗教や神秘主義も危うい」と拡張することも可能になる。この論法は一見すると理性的である。
しかし実際には、この論法は、互いに分けて扱うべき論点を一つにまとめて処理してしまっている。第一に、「運命」という言葉の意味が整理されていない。ここでいう運命が、変更不可能な宿命を指すのか、人生の傾向を指すのか、社会的条件を指すのか、それとも宗教的摂理を指すのかによって、議論の前提はまったく変わる。にもかかわらず、その違いを示さないまま「客観的に語れないのだから幻想だ」と言うなら、批判する側が最初にやるべき概念の切り分けを飛ばしていることになる。
第二に、その論法は、どの水準の人間について語っているのかを示さないまま、人間一般の限界を断定している。小学生とオリンピック選手とでは、同じ人間であっても到達しうる身体能力がまったく違う。それと同じように、認識、自己観察、判断の精度にも熟達の差がありうる。グルジェフ的に言えば、機械的人間と、自己をある程度統合した意識的人間とを同じ水準で論じることはできない。「主観の檻から出られない」という命題を、平均的人間の現状からそのまま人間一般の絶対条件へ拡張することには、かなり無理がある。
第三に、主観と客観の区別が、完全に主観か完全に客観かという二者択一として扱われている。実際に問うべきなのは、どの程度まで客観化できるかである。自己観察の訓練、判断の熟達、他者理解の精度は、ゼロか百かで決まるものではない。完全な客観が難しいからといって、あらゆる語りをただちに幻想扱いするのは飛躍である。完全な客観ではなくても、平均的日常意識より高い水準の相対的客観性はありうる。この段階差を無視すると、議論は人間認識の内部にある幅を見失う。
第四に、運命言説への批判から、宗教一般や神秘主義一般の否定へ進むなら、それは別の飛躍である。「運命は変えられる」というスローガンに、依存、支配、万能感、自己責任化の構造が入り込みうることと、宗教や神秘主義がすべて誤りであることとは、同じ話ではない。批判すべきは、宗教性があることそのものではなく、どのような語りが人を従属させ、現実の構造的問題を隠し、思考停止を招いているかである。
筆者が批判しているのは、以上のように別々に検討すべき問題を区別せず、一つの批判から別の全否定へそのまま滑っていく論法である。孤独や貧困を個人の努力不足へ還元する言説に、社会システムの問題を隠す作用があるという指摘自体には重要な論点が含まれている。だからこそ、その批判を支える論理まで雑にしてしまえば、批判の射程そのものが弱くなる。本稿は、これらの論点を順に切り分け直しながら、カント、グルジェフ、現代神経科学、そして立体フラクタル・人間観の提案へ進む。
2. イマヌエル・カント
十八世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、主著『純粋理性批判』において、人間の知の境界を画定しようとした。彼は私たちが知覚する現象界と、その背後にある実体としての物自体を明確に分けたのである。
筆者がもっとも反発を覚えるのは、カントを次のような形で利用する語りである。すなわち、人間は主観の檻から出られない、したがって運命のようなものを客観的に知ることはできない、ゆえに運命は変えられるという言説は成立せず、その背後にある宗教や神秘主義も疑わしい、という短絡である。この語りは一見するとカント的に見えるが、実際には認識論、運命概念、宗教批判を乱暴に接続している。
この論法には少なくとも四つの飛躍がある。第一に、カントは「絶対的真理は存在しない」と証明していない。彼が論じたのは人間認識が一定の条件のもとで成立するという点であって、存在論的な真理の不存在ではない。第二に、そこから導かれるのは、人間は物自体をそのままには知り得ないという認識論上の限定であって、真理一般が存在しないという結論ではない。第三に、たとえ運命が通常の認識形式では客観的に把握しにくいとしても、そこから直ちに、運命を語る言説はすべて嘘だとはならない。ここには認識上の困難から虚偽認定への不当な飛躍がある。第四に、その飛躍をさらに宗教一般の否定へ拡張するなら、それは精密な哲学ではなく、対象排除のための粗雑な短絡である。哲学を特定の対象を黙らせるための棍棒として使う態度は、真理探究とは無縁である。
カント自身、理性の限界を画定したが、それによって宗教一般を哲学的に抹消したのではなく、理性との関係の中で宗教を再定位しようとしたのである。そのうえで筆者が付け加えたいのは、カントの認識の地図が、彼自身の生活世界とも無関係ではないという点である。彼の生活は極めて規則的であり、散歩の時間で近隣住民が時計を合わせたという逸話が残るほど、安定した日常の範囲内に留まっていた。この静的で規律的な生活世界が、彼の理性モデルに反映されている可能性を、筆者は否定しない。
3. 認識の階層性
カントが定めた認識の限界は、果たして人間一般にとっての絶対的な上限なのだろうか。ここで、オリンピック選手と小学生の能力差という例を挙げて考察を深める。
もし平均的な認識水準だけを基準にして、人間は主観の檻から出られないのだから、運命のようなものを客観的に語ることはできないと結論するなら、それは小学生の限界を人間一般の限界と見なすのと同じである。身体においてオリンピック選手並みの熟達があり得るなら、認識、自己観察、判断の精度においても、平均的水準を超える熟達の可能性を最初から排除する根拠は薄い。
問うべきなのは、人間に絶対的な客観があるかという二者択一ではない。むしろ、どの程度の客観化が、どの水準の人間に可能かである。この観点を失うと、主観と客観の区別は粗雑な二元論に落ちる。平均的な主観性を人間一般の最終条件と見なす態度に、私は同意しない。凡人が聖者レベルを自分の理解可能域へ引きずり下ろそうとするのは、認識の多様性の抑圧として機能し得るのである。
4. P・D・ウスペンスキー
P・D・ウスペンスキー『奇蹟を求めて(In Search of the Miraculous)』第15章の「Kant and the idea of scale(カントと尺度の理念)」をめぐる箇所は、本稿の要点にとって決定的に重要である。ここでウスペンスキーは、グルジェフとの対話を記録する形で、カントの現象とヌーメノン(物自体)の区別をめぐるやりとりを伝えている。
まずウスペンスキーが、「これはカントの phenomena(現象)と noumena(物自体)の考えに関係している」と応じる。すると、三次元の物体としての地球は phenomenon(現象)であり、六次元の物体としての地球は noumenon(物自体)である、という接続が提示される。そしてそれに対してグルジェフは、「Perfectly true(完全に正しい)」と認めたうえで、ただし「add here also the idea of scale(ここに尺度の概念も加えなさい)」と付け加える。さらに彼は、「If Kant had introduced the idea of scale into his arguments many things he wrote would be very valuable. This was the only thing he lacked.(もしカントがその議論の中に尺度の概念を導入していたなら、彼が書いた多くのことは非常に価値のあるものになっていただろう。これが彼に欠けていた唯一のことだ)」と述べる。
重要なのは、この発言が単なるカント否定ではないという点である。グルジェフは、カントが間違っていたと切り捨てているのではない。そうではなく、カントの議論には重大な価値がある、しかしなお、尺度の理念だけが欠けていたために、その認識論は閉じた形に留まったと見ているのである。したがって、ここでの批判は敵対ではなく、むしろ高く評価したうえでの惜しい指摘として読まれるべきである。
さらに言えば、この箇所で提示されているのは、単なる思弁的比喩ではない。三次元と六次元、現象とヌーメノン、観察者の位置、尺度の変化という論点は、何が現象で何が実体かという区別そのものが、観察のスケールによって組み替わり得るという問題を提起している。もしそうなら、カントが物自体を永久に不可知とした結論は、少なくとも観察者の尺度を固定した場合の結論として再検討されるべきである。
ここでグルジェフが言いたいのは、カントを無効にすることではない。むしろ、カントが切り開いた認識論を、尺度という概念によって開き直すことである。言い換えれば、カントは宝の箱を発見したが、その箱を開ける鍵としての尺度概念を導入しなかった。そのため、現象と物自体の区別は固定化されたまま残った。グルジェフが付け加えようとしているのは、その固定を破るための視点である。物自体への接近は、認識装置の固定化を破る尺度変容の問題として再定義されるのである。
5. ルネ・デカルト
近代的主体の確立において、ルネ・デカルトの果たした役割は極めて大きい。彼の有名な命題「我思う、ゆえに我あり(Cogito ergo sum)」は、疑い得ない思考の核として自分自身を定義した。
しかし、この知性至上主義的なモデルは、感情や身体を単なる思考の下位ノイズとして扱う傾向を生んだ。問題は、知性だけを独立した平面として扱い、感情や身体をその下位ノイズへと押し込める扁平な知性のモデルである。近代哲学の多くは、知性をできるだけ純化することで認識を確立しようとしたが、その過程で生命の動態としての思考を見落としやすくなったのである。ルネ・デカルトに象徴される近代的主体観は決定的出発点であったが、その後この「思う主体」が、身体や情動から切り離されて受け取られやすくなった点は否定できない。
ルネ・デカルトが確立した二元論的な遺産は、思考を抽象的な計算プロセスへと還元し、人間存在が本来持っている動的で多次元的なリアリティを捨象する一因となった。この扁平な認識論を乗り越えることが、現代における喫緊の課題である。そしてまさにこの課題に対して、アントニオ・ダマシオは『デカルトの誤り』において、情動と身体を切り捨てた知性観そのものを再検討する形で応答したのである。
6. ベネディクトゥス・デ・スピノザ
スピノザとして知られるこの哲学者は、心と体を分けたデカルトに対し、それらを一つの実体の異なる側面と見る一元論を唱えた。スピノザは主著『エチカ(Ethica)』において、神と自然を同一視し、すべての存在は一つの秩序の中に統合されていると説いた。
スピノザの思想については、ユダヤ思想や神秘主義的伝統との接点を指摘する議論もある。万物が互いに関係し合い、全体としての調和を保つという彼の世界観は、グルジェフが説いた宇宙的秩序とも構造的な響き合いを見せている。知性と感情を切り離さず、それらを一つの生命の表現として捉えるスピノザの視点は、近代哲学が陥った扁平な認識論を乗り越えるための重要な道標となる。筆者は、このスピノザ的な一元論の中に、フラクタルな自己相似性の哲学的な原型を読み取るのである。
7. アントニオ・ダマシオ
神経科学者アントニオ・ダマシオは、ソマティック・マーカー(Somatic Marker)仮説を通じて、情動と身体反応が理性の不可欠な土台であることを有力に示した。
アントニオ・ダマシオは、前頭前野腹内側部などの損傷により、情動関連シグナルの統合が損なわれた患者が、論理的な計算能力を維持しながらも、現実的意思決定に著しい困難を示す事例を分析した。ここから、身体からの微細な信号、すなわちソマティック・マーカーが、選択肢を絞り込むためのガイドとして機能していることを示したのである。彼の研究が一貫して示しているのは、思考が純粋に抽象的な計算ではなく、生きた身体の動態に支えられたプロセスだという点である。この点でダマシオの仕事は、身体と情動を切り離したデカルト的知性観への批判として読むことができる。しかもその代表作の邦題自体が『デカルトの誤り』である以上、ダマシオは本稿において、デカルト批判を担う決定的な接続点として位置づけられなければならない。
以下に彼が提起した主要な著作を紹介する。
1994年、Descartes' Error(邦題『デカルトの誤り』)
1999年、The Feeling of What Happens(邦題『感情があらわれるとき』)
2003年、Looking for Spinoza(邦題『スピノザを探して』)
2010年、Self Comes to Mind(邦題『意識の脳科学』)
2018年、The Strange Order of Things(邦題『進化の意外な順序』)
8. G・I・グルジェフ
グルジェフは、人間を身体センター、感情センター、知性センターという独立した三つの機能の複合体として定義した。これらは、現代の脳科学における脳幹、大脳辺縁系、大脳新皮質の層的な機能分化と、直感的な対応関係を示している。
ここでグルジェフ的観点から重要なのは、「運命は変えられるか」という問い自体が、人間類型の区別を欠くと粗くなるという点である。グルジェフ流に言えば、機械的人間には本来、運命は存在しない。彼は外的刺激と偶然的反応の束にすぎず、自分自身の中心を持たないからである。これに対し、意識的な人間、すなわち自己を統合し始めた人間にとってのみ、運命は一種のぜいたく品として現れる。
したがって、運命概念を論じるには、まず誰にとっての運命かという問いを立てなければならない。グルジェフ体系は、主観と客観の区別そのものを放棄していない。通常人間の主観性を超えて、より客観的な認識へ向かう可能性を階層的に考えているのである。
9. 聖書とJ・S・バッハ
本章は、聖典と高次芸術を筆者の立場から比較的、象徴的に読む試みであり、以下の接続は歴史事実の確定ではなく解釈的な配置である。世界を貫く普遍的な秩序は、聖典や高次の芸術作品の中に、象徴的な形で繰り返し現れる。
創世記 1章3節(学説上幅があるが、おおむね紀元前10世紀から5世紀頃に編纂)「神は光あれと言われた。すると光があった」
出エジプト記 3章14節(通説的には紀元前10世紀から5世紀頃)「神はモーセに言われた。わたしは、有って有る者である」
詩編 139編14節(通説的には紀元前6世紀から4世紀頃)「わたしはあなたをほめ称えます。わたしは驚くべきものに造り上げられています」
ヨハネによる福音書 1章1節(紀元1世紀末頃)「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」
コロサイの信徒への手紙 1章16節から17節(紀元1世紀後半頃)「万物は彼によって、彼のために造られた。彼はすべてのものに先立って存在し、すべてのものは彼にあって成り立っている」
これらの記述は、単一の次元に閉じた世界像というより、存在の全スケールにわたる創造のプロセスを深く象徴的に反映している、と筆者は読む。その意味で聖典の言葉は、形而上学、宇宙論、人間論を分断せずに結びつける力強い原型として機能している。
そして、この壮大な宇宙の調和を音響として体現したのが、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685年から1750年)の至高の作品群である。彼によるゴルトベルク変奏曲(BWV 988、1741年出版、アリアと30の変奏からなる鍵盤楽器用の記念碑的作品)やフーガの技法(BWV 1080、1740年代後半から作曲が開始され未完のまま1751年に出版された対位法芸術の金字塔)は、まさにその結晶と言える。数学的な整合性と魂の根源的な飛躍が高度に融合したこれらの楽曲は、フラクタルな宇宙秩序の聴覚的な写し鏡として、私たちの心に迫ってくるのである。
10. 現代の科学と哲学
現代の主流科学や哲学は、聖者や神秘家が報告する高次の知覚体験を、客観的な検証が困難であるという理由で検討対象から外してきた。筆者はこれを、方法論上の敵前逃亡であると考える。
ここで筆者が問題にするのは、未知の対象を厳密に検討したうえで退けることではなく、方法設計の困難さを理由に、最初から比較対象から外してしまう態度である。科学的な批判の中で看過できないのは、孤独や貧困を努力で克服できる個人の課題にすり替える言説が、格差や抑圧、選別機能といった社会システムの問題を見えにくくするという指摘である。
しかし、その社会批判の妥当性から直ちに、宗教性そのものが疑わしいと結論するなら、議論は別の水準へ飛んでしまう。社会構造を隠蔽する言説批判と、宗教一般の価値判断は、本来区別して論じるべき問題である。この区別を失うと、批判は鋭くなるのではなく、傲慢な省略へと堕すのである。問うべきなのは、宗教性があるかどうかではなく、その宗教性がどのような形で依存、支配、万能感、自己責任化を生み出しているのかである。
11. 平野啓一郎
作家の平野啓一郎は、著作『私とは何か 個人から分人へ(2012年)』において、分人(Dividual)という概念を提唱した。これは本当の自分は一つであるという近代的自己観に対する批判として提出された思想であり、自己を関係性ごとに立ち現れる複数の位相の集合として捉えるものである。その意義は、単一の中心的自我を前提とすることで生じる抑圧や自己矛盾を緩和し、関係依存的な自己の実在性を認めた点にある。
分人主義の理論的有効性は、単一自己神話の解体、関係性ごとに異なる自己の実在性の承認、そして現代人の自己不一致感への高い説明力という三点に集約される。グルジェフが人間を多数の私(Many I's)に分裂した存在として捉えたのと同様に、分人主義も単一で透明な自己を否定する。この意味で分人主義は、立体フラクタル・人間観において、微小スケールにおける水平的多重性の記述モデルとして重要な位置を占めている。
しかしながら、分人主義は、自己がいかに多重に分岐しているかという現状の記述には優れるが、それをいかなる中心へ向けて組織し変容させるかという進化論的なベクトルが希薄である。本稿の評価軸では、人間理解には水平的な多重性の承認と、垂直的な中心への統合という二つの次元が必要である。分人を受容するだけでは、苦しみは軽減しても、存在の密度が高まるとは限らない。比喩的に言えば、それは牢獄の中の壁紙を美しく貼り替えることにはなるが、牢獄そのものを出る運動には直結しない。
12. 天外伺朗
天外伺朗の思想は、自己の深部にある真我への接近、インナー・チャイルドの癒やし、そして宇宙的秩序(宇宙の流れ)との整合といった契機を通じて、人間の変容を垂直的に捉えようとする。これは単なる自己受容の思想ではなく、自己の深さと方向性を問う思想である。
分人主義が自己の複数性を認める水平的な視点を持つのに対し、天外の真我思想は、その複数性の背後にある中心を問題にする。したがって、真我思想は垂直的変容を導入する点で、分人主義よりも一歩先へ進んでいると言える。これはグルジェフが恒常的な私、すなわち リアル・アイ(Real I) の形成を人間の至上課題としたのと同様に、分散した自己をより深い中心へ向けて統合していく運動を重視するものである。
しかし、ここにも本稿が看過できない不一致点がある。天外の思想においては、真我が最初から完成済みの中心として既にあるものと読まれやすい点である。もし真我が最初から完成済みの中心として措定されるなら、人間は自己の未形成性と向き合う必要を失いかねない。そうなれば変容は過程ではなく確認作業へと矮小化されてしまう。本稿はこれを避けるため、真我を発見と形成の両契機を持つものとして再定義する。比喩的に言えば、真我への道は頂上の発見ではなく、登山という実践そのものなのである。真我思想は、立体フラクタル・人間観において、中間スケールの垂直的上昇を担う理論の位置を占める。
13. 立体フラクタル・人間観
筆者は、これまでの議論を統合し、人間を水平的多重性と垂直的進化を同時に包含する立体フラクタル・人間観として定義したい。
平野啓一郎の分人を水平的な展開、天外伺朗の真我への運動を垂直的な上昇、そしてグルジェフの本質的な成長を高次スケールにおける結晶化として位置づける。これらは自己相似性を持って連なっている。この三層を馬車のメタファーで言い換えるなら、乗客たちのカオスが分人の状態であり、まだ眠っている種子が本質であり、最終的に馬車全体を統御する主人が恒久的な私にあたる。本稿における両者の比較軸は明確である。分人主義は自己の水平的多重性を記述する理論として強く、真我思想は自己の垂直的変容を方向づける理論として強い。前者は複数性の承認に、後者は中心への統合に力点がある。グルジェフの思想は、この両者を貫きながら、最終的に恒常的自己の形成を要求する点で、より厳格な存在論を提示している。
本稿の仮説的再解釈では、カントの物自体は彼岸にある不可知の実体として固定されるのではなく、認識の尺度変容を通じて接近しうる、全スケール的なフラクタル構造として読み替えられる。運命は変えられるかという問いを論じるには、まずこの立体フラクタルな階層構造の中で、どの水準の存在について語っているのかを見極める必要がある。
14. 理論物理学
この立体フラクタル・人間観は、ローラン・ノッタールのスケール・リラティヴィティ(Scale Relativity)や分数次元の発想を参照することで、理論的補強の候補を得られる可能性がある。カントが規定したアプリオリな空間や時間は、固定された器ではなく尺度依存的なメトリックとして捉え直す余地がある。
また、最新の認知科学におけるプレディクティヴ・プロセシング(Predictive Processing)の知見から見れば、予測の拘束を弱め、生の入力に対する感受性を高めるプロセスは、認識の歪みが減少する過程を説明する候補となりうる。絶対的客観が困難であることと、客観化の努力が無意味であることは同じではない。数理的な厳密さと、人間が体験する深層的なリアリティ。これらを尺度という概念でブリッジする試みこそが、これからの知のフロンティアを形成していくのである。
15. 方法論の再設計
知の敵前逃亡を食い止めるためには、方法論の抜本的な再設計が求められる。アブダクション(Abduction)は、観察された複雑な現象に対して、最も整合性の高い説明仮説を提示するための武器となる。
運命は変えられるというスローガンを批判するなら、まずここでいう運命とは何かを分解しなければならない。決定論的な宿命、人生傾向、性格形成、社会的条件、宗教的摂理、それぞれ意味が異なる。その区別を飛ばしてカントによれば客観的に知れないのだから全部嘘だ、と処理するなら、批判する側が概念分析を放棄していることになる。必要なのは一括否定ではなく、意味の分解と論点の切り分けである。
同様に、主観と客観も二者択一として扱うべきではない。平均的な日常意識における主観性と、訓練や自己観察によって深められた相対的客観性とは区別されるべきである。カントの先験的形式を固定的なフィルターではなく動的なプロセスとして再構築することで、私たちは認識の境界条件を書き換える道筋を得る。既存の測定枠組みが対応できないのであれば、その枠組み自体を問い直すこと。それこそが誠実な科学的精神というものである。
16. 普遍的真理への道
本章は筆者の推測的、系譜的考察であり、仮説的な問題提起として提示する。ここで決定的に重要なのは、アントニオ・ダマシオがデカルトを批判し、しかもその代表作に『デカルトの誤り』という題名を与えている点である。そのうえで彼がスピノザを高く評価していることは、近代的二元論の批判と、一元論的・統合的な人間観への再接続とが、同じ流れの中で起きていることを示している。こうした系譜をたどるとき、近代哲学、神秘思想、現代神経科学が完全に断絶した別世界にあるのではなく、見えにくい地下水脈によって連結している可能性が浮かび上がる。
筆者がもっとも退けたいのは、カントが証明したのだから宗教や神秘主義はもう終わっている、という種類の傲慢な省略である。太古の知恵と最新の科学が、尺度という概念を通じて一点に収束していくという直観は、なお仮説の域を出ない。しかし、そのように見たくなるだけの構造的な響き合いがあることも否定しがたい。知の考古学とは、まさにこの収束の気配を追跡する作業である。
17. 象徴学のルーツ
なによりも、G・I・グルジェフの先見性が特筆すべき点であろう。彼は、量子力学もビジネス心理学も存在しなかった1900年代初頭に、スピリチュアル系のアイデアを当時のできる限りの言論を以て、科学的に語っていたようにしか見えない。彼がいったいどこからこれらの最新科学の知見の母体のようなものを取得したのだろうか。
ここで、一つの示唆的なつながりが浮かび上がる。現代の神経科学者アントニオ・ダマシオはルネ・デカルトを批判したが、ベネディクトゥス・デ・スピノザを高く賞賛した。そしてそのスピノザは、カバラや神秘主義思想にルーツを持つという点で、グルジェフと明確な共通点を持っているのである。
つまりは、聖書、聖典、経典、神話といった複合的な象徴学のルーツに遡るのだろうというのが、筆者の率直な感想である。普遍的真理への道は、単一の理論ではなく、多次元的なフラクタルな広がりそのものであると私は考えている。
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